第20話 最後のメモ
翌朝、夜月は病院を出た後、最後のメモの人物の所へ向かっていた。
夜が明けるのを待ってから、彼は依子に電話を入れて、千冬に今日一日中、一緒に付いていてもらうように頼んだ。依子はすぐに飛んで来てくれて、夜月は彼女と入れ替わりで病室を後にした。
夜月はもう、出来ることなら今日中にでも赤い鞄を手に入れてしまいたかった。残された時間は相当少ないように思えた。千冬は、依子の監視もあるし、昨夜の夜月との会話も少しは頭に残っているだろうから、いくらかは夜月のことを待っていてくれるだろう。だが、千冬の父親が不幸という手土産を持って、いつ千冬や自分の元へ現れるか知れたものではなかったし、彼女にしたってまた、いずれ近い将来に再び自殺に走るであろうことはほぼ確実だった。
あの父親が家の電話番号を知っていた以上、彼が家の周りを以前から張っていたことも充分に考えられ、だとするならば、千冬が今この病院に入院していることも知っているかもしれなかった。本当に、残された時間は少ないように思えた。
最後のメモの場所は、町外れにある、何の変哲もない一戸建ての家だった。
荒々しく道端に車を停めて、家のチャイムを鳴らした。すぐに、インターホンから声がした。
「どうぞ……」
こもったような深い声。
夜月の姿を確認してもいない筈のその相手は、それだけ言って、すぐにインターホンを切った。今更それを怪訝に思うこともなく、迷わずに玄関のドアを開けて中に入った。
「こっちだよ……」
声は廊下の突き当たりの部屋の中から聞こえてきているようだった。夜月がその部屋の前まで来ると、気配でそれを察したのか、また声がして、夜月に中に入るように促した。
夜月はそっとドアを開けた。
部屋の中は異様に暗かった。中央には丸テーブルが置いてあって、その上には燭台が乗せられており、明かりといえば、そこに太い蝋燭が一本灯っているだけだった。
「お入り……」
夜月は、その薄暗い部屋の中に入った。中の空気は湿っぽくて、黴臭い匂いが夜月の気分を滅入らせた。暖房はたかれておらず、室温は外と同じくらいか、むしろそれよりも低い程だった。
夜月は声の主のことをよく観察した。暗闇の中で揺れるただ一つの蝋燭の明かりは、相手の姿をあまり鮮明に映し出してはくれなかったが、それでもある程度はその容姿を窺うことが出来た。
声の人物は、この部屋の寒さにも拘わらず、フード付きのバスローブを一枚羽織っているだけだった。さらに、肩から先の部分はノースリーブになっていて、そこからはむき出しの腕が伸びている。裾から伸びている素足は、見た目にも寒そうな感じだったのだが、彼は身震い一つしていなかった。
頭に被ったフードの下に覗く眼は、瞼がほとんど閉じていて、ひどく眠たげで無力感に満ちていた。口は絶えず少し半開きで、表情には全体的に気怠さが漂っているように見えた。四肢も弛緩しきっていて、見ているとさっきから指一本動かしていない。
年齢は、ちょっと分からなかった。皮膚の肌質はそれほどがさついてはいないのだが、それでも顔全体に深い皺がたくさん刻まれていて、疲れか何かのせいで、実年齢よりも老けて見えているような印象があった。
彼の醸しているその雰囲気も異様だったが、さらにもっと奇妙な点があった。
彼の身体は、全身が傷だらけだった。服から覗く手足には、沢山の傷跡があり、見た目にも痛々しく、夜月はそれを見て千冬を思い出した。
この人物も、かつて両親から酷い虐待を受けていたのだろうか。しかし、彼と千冬の身体には少し違いがある。千冬の身体にはどちらかというと痣の方が多いが、彼の身体には切り傷の方が多かった。
顔にも、眉間の所を左斜めに走る大きな傷跡があり、彼はその全身の傷を見せたくないが為に、こうして部屋を暗くしているのかもしれなかった。だが、それにしてはわざわざ薄っぺらなノースリーブ一枚で、腕や足を晒しているのがおかしかった。
全身傷だらけのその男は、しばらく押し黙っていたが、うっすらと開けた瞼の下の眼だけはしっかりと光らせていて、夜月の事を良く観察しているようだった。
相手の挙動、部屋の佇まい、すべてが面妖な感じであったが、今までにはない、赤い鞄の謎に相応しい神秘めいた重みがそこにはあった。
間もなくして、夜月の値踏みが完了したのか、男が話し始めた。
男の語り口調は、意外にもはっきりとしており、割舌も良くて、その一音一音が小気味よく部屋に響いた。
「よく来たね。お前がここへ来た理由は分かっているよ。お前自身の理由はここではもう訊くまい。私の身体の傷跡が気になるか?」
夜月は心の中を見透かされたようで、少しばかり気恥ずかしさを覚えた。
「すみません」
「いや、いいんだよ。これには訳があるのだから……」
今まで身動き一つしなかった男の手が動いた。
止まっているのではないかと思える程のゆっくりとした動きで、男は背凭れから身体を起こし、膝に肘をついてその先で両手を組んだ。落ち窪んだ眼窩の奥の瞳が、こちらをじっと見据えている。
「お前に一つ問いたい。人の幸せとは何なのか? お前は、それについて必ず答えを出さなければならない。お前の道は、お前自身のその答えが握っている」
夜月は、その質問に対するはっきりとした答えを未だに見つけ出していなかった。千冬を見ていると、夜月には、人の幸せがどういうものなのか、良く分からなくなってきていた。それを考えるには、彼は年齢的にもまだ幼すぎた。しかし、夜月は自分がこの後何をどうしたいのかは既に分かっていた。
「僕には愛する人がいます。きっと、これからもずっと、僕はその人しか愛さないでしょう。人の幸せとは何なのか? 今の僕には、とても難しい問題です。でも……僕は、彼女とずっと一緒に居たい。彼女と一緒なら、あとは何も要らない。けれど、彼女は僕から離れていこうとしています。だから、僕にはどうしてもあの赤い鞄が必要なんです。彼女を救うにはそれしかないと思っています」
夜月のその言葉を聞いて、男の口元が少し緩む。
「……幸せとは何なのか? それは、人間の永久の課題であり、それを紐解いていくことが、人が人生を生きる意味であると言っても過言ではない。赤い鞄とは何なのか? 赤い鞄とは、実はその道を指し示してくれるものなのだ。赤い鞄そのものが、幸せの意味を明るく照らしている。赤い鞄を手にした者は、実際にはそれを手にしただけでは幸せになることは出来ない。もう一つ、幸せを追い求める精神が必要になる。赤い鞄を手に入れる肉体の他に、心が必要になるのだ。さらに、お前が今まで町中を回って出会ってきた者達にも、何らかの重要な意味が隠されている。お前は無意味にたらい回しにされてきた訳ではない。彼らはお前を見定める為だけに存在した訳ではない。出会ってきた彼らには、何か別の意味がある。そして、それらの全てが、トータルで『赤い鞄』なのだ。赤い鞄が指し示している光りは、それを手にした者の道の先を明るく照らしている。幸せとは何なのか? 今ここでお前にその全てを教えてやることは出来ない。お前は、その問いに自分で答えを出さなくてはならない……」
傷だらけの男は、夜月に向かってほんの少しだけ優しく微笑みかけた。
「私には分かる。お前には、確固たる心がある。お前に道を開こう。だが、お前に渡せるのはこのメモだけだ。このメモが正真正銘最後のメモ。これでお前は、赤い鞄の在処を知り得たことになる。お前に大いなる勇気と覚悟があれば、そのメモによって赤い鞄との邂逅は果たされるだろう。しかし、だからと言って、これでお前が赤い鞄の秘密の全てを知ることが出来た訳ではない。道を開くかどうか、幸せの意味を紐解けるかどうかは、あとはお前次第だ。迷える人よ。お前の愛する者を大切にしなさい。愛する者への真っ直ぐな想いが、お前を道の先に導く」
男は服のポケットから、一枚の赤いメモを差し出した。伸ばされた腕が蝋燭によって照らし出され、夜月はその手の様子をはっきりと見た。手はあちこち傷に覆われていて、以前に余程の事があったのだろうと想像された。この老人の過去には、一体何があったのだろうか。
夜月は、彼の手から赤いメモを受け取った。
「さあ、行きなさい」
夜月は立ち上がって、最後にもう一つだけ男に質問をした。
「一つだけ、あなたに訊いてもいいですか? その……あなたも不老不死なんですか?」
男はにやりと笑って目を閉じてから、それ以上はもう何も言わなくなった。
「有り難うございました」
夜月は男に礼を言って、その部屋を辞去した。
外に出るとまだ十時にもなっておらず、暗い部屋から出てきた夜月には、晴れた空から降り注いでくる太陽光が、やけに眩しく感じられた。
車に乗り込み、さっそく貰ったメモを開いてみる。そこには、今までと違って、手書きの簡単な地図が書いてあり、所々の要所には地名が書き添えられていた。
夜月の町には年に一度、夏に大きなお祭りがあるが、地図上に星印で示されているその場所は、その時に使われるお寺の境内の裏手から少し山奥に入った所らしかった。その寺は、夜月も昔から良く知っている寺で、家からはそう遠くない。赤い鞄がどんな所に隠されているのか、この地図だけでははっきりしないが、今からなら、おそらく陽が沈むまでに手に入れて帰って来ることが出来るだろう。
夜月は、何の迷いもなく、すぐにその寺に向かった。
赤い鞄を手に入れられることへの興奮や喜びのようなものは全く無かった。妙に落ち着いた気持ちの中で、過ぎゆく時への焦燥感だけがふつふつと煮立っていた。
その寺までは、一時間もかからなかった。夜月は麓の駐車場に車を停めた。
寺自体は山の中腹辺りに位置しているため、そこに行くまでには少しばかり階段を登らなくてはならない。早足で五分ほどの階段を登り切って、境内に到着した。そこで、もう一度メモを開く。地図によると、この裏手のどこかに道がある筈だったが、どこを探してもそれらしい道は見つからなかった。どこもかしこも、木々や下草に覆われている。地図にある道は、いつの間にか塞がってしまったのかもしれなかった。仕方なく夜月は、少し強引に山中に入ってみることにした。
幸いと言おうか、木はそれほど密集して植わっていた訳ではなく、ちょっとした雑木林のようになっているだけで、なんとか二十メートルぐらいまでなら、先を見通しながら歩くことが出来た。
雑草に足を取られたり、急な勾配に四苦八苦しながらも、しばらく進んでいくうちに、なんとなく獣道のような細い道が走っているのが見つかった。その獣道らしきものを見つけてからは、わりとすんなりと奥へ進むことが出来た。十分程そこを辿って行くと、急にぽっかりと開けた場所に出た。そこは、一面に草がぼうぼうに生い茂っており、木が立っていないというだけの荒れた広場だったが、地図によると、この場所のどこかに赤い鞄が隠されているようだった。
夜月は草をかき分けて、広場を端から丹念に調べていった。広場へ出て来た道の、ちょうど反対側の奥の所に、少しおかしな場所があった。そこの部分だけ、僅かに草の生え方が変わっていて、どこか人為的に手を入れたような形跡が見られた。蹴ってそこの地面を足先で探ってみると、下に平たい岩のようなものが埋まっている感触があった。
足では埒があかなかった為に、夜月は手頃な石を探してきて、その辺りを軽く掘ってみた。少し掘ってみただけで、石はコツンと、何か硬質な感触を手に伝えてきた。夜月はそれから、さらに慎重に掘り進めた。感触があった周辺の土をあらかた取り除き終えると、そこには錆びついた一枚の鉄板が現れた。夜月は、今度は太めの木の棒を拾ってきて、その鉄板と地面の間に棒を差し入れた。棒をてこ代わりにして動かしてみると、鉄板は意外に簡単に動かすことが出来た。
果たして、その鉄板を取り除いてみると、そこにはぽっかりと穴が覗いていた。頭上にかかった正午の太陽が、穴の底を照らしており、穴には、底からさらに横穴が走っているようだった。
場所さえ分かれば、手放しで赤い鞄が手に入ると踏んでいた夜月は、少し意気消沈した。
この穴の中に入れというのだろうか……?
もう一度メモを確認してみる。星印が付いている場所は、やはりこの辺りで間違いないようだ。
穴の大きさは、それほど大きなものではない。手や足で身体を支えながら行けば、何とか下には降りることが出来るだろう。だが、何の用意も無しに降りて行けば、恐らくは上がってこられなくなってしまう。梯子か何かがなければ、穴には降りて行けそうにない。
更に、見たところ、穴の奥は当然ながら真っ暗で、この中に入っていくという決断は、原始的な恐怖感に強く訴えてくるものがあった。
中がどうなっているのか皆目分からないが、とりあえずは最低限、梯子と懐中電灯が必要だろう。
夜月はそれに舌打ちしながら、急いで来た道を戻り始めた。山を抜け出して、お寺の境内を通り、階段を下りて車まで戻る。
額に汗を浮かべ、息を切らしながら、クラッチを切って、必要な物を購入しに行く為に車を出した。
その時、駐車場に彼と入れ替わりで、千冬を乗せた父親の車が入ってきたことに、夜月が気付く筈もなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます