第17話 赤いリボン
夜月が仕事に出て行った後、千冬はもう一杯熱い紅茶を注いで、昨日自分で作ったケーキを食べながら、最後の安らぎの一時を楽しんだ。
紅茶を飲み終えると、ゆっくりと食器を洗って、それからざっと一通り部屋の掃除をした。
その後、お風呂場にお湯を貯めに行った。温度はいつもより少し高めに設定した。
お湯を貯めている間、千冬はぼんやりとソファーに座って、買ってきたばかりの真新しいバタフライナイフを開いた。この前のものはとっくに夜月の手によって処分されていたので、また新しいものを買ってきておいた。
これが、あたしを天国へ連れていってくれる。
ううん……。このあたしが、天国なんかに行ける筈はない。きっと、あたしは地獄行きね。今まで生きてきた長い間、夜月や他の多くの人達にあれだけの迷惑を掛けてきたんだもの。あたしが生きていたこと自体が、周りの人達にとって、とても迷惑なことだった。でも、それももう今日で終わり。それに、終わりにすることで、あたしだってもうこれ以上苦しまずに済むし。……人って、どうしてあんなに辛い思いまでして生きていかなければならないのかな? 生きていても辛いことばっかりなのに。時にはちょっとぐらいのいい事もあるけど、でもそれでも、生きているという苦悩に比べたら、何の慰めにもならない程度のものでしかない。
生きることは――苦痛に満ちた時の連続。
喜びなんてほんのこれっぽっち。たとえ、少しばかりの喜びがあったからって、それが生き続けていても嬉しいってことにはならない。死んだ方がずっと楽。生きてることの方が、よっぽど不自然な事だと思う。そうなの……人が生きているということそれ自体が、よっぽど不自然なことなの。死ぬことは不幸だっていうけど、でも、それは間違ってる。死ぬことは、生きてるという苦しみからあたし達を解放してくれる。辛いだけの生にしがみついて、無理に生き続けることはない。人は誰かが死ねば、ひどく嘆き悲しむけれど、でも、それは違う。むしろ、死に逝く者を祝福してあげるべきなのよ。だって、その人は、望んでもいなかった生という枷から解放されるんだもの。
これ以上、夜月に迷惑はかけない。かけたくない。彼に出会えたことが、唯一のあたしの救い。ほんの数年の間だったけど、今まで夜月と一緒に過ごせた日々はとても楽しかった。
――病んでしまった人間は、一生その病みを抱えて生きて行く。
闇を抱えたまま生き続けるということは、その人にとって、普通の人が死ぬことなんかよりも、ずっとずっと辛いことだ。
あたしは一生、あいつからは逃れられない。
病んで、壊れてしまったあたしの心は二度と元には戻らない。
たとえ、夜月が何をしてくれようとも。
この先、夜月があたしにどれだけたくさんの愛をくれたとしても、もうあたしのぼろぼろになってしまったこの弱り切った心は、決して元には戻らない。
もう二度と……。
もし仮に、今現在の元凶となっているあの男を殺せたとしたなら、それは当面の解決策ぐらいにはなるかもしれない。でも、本質的にはやはり何の解決にもならない。たとえあいつがこの世から居なくなったとしても、それでもあたしは、あいつからはもう一生逃れられない。
この壊れた心は、永久に元には戻らない。
突然、電話が鳴った。
誰だろう?
千冬は、ぼんやりとその電話を見つめた。夜月ではない。夜月なら、携帯の方に電話してくる筈だ。
電話が留守電に切り変わると、向こうの相手はすぐに通話を切った。それが、もう二回程続いた。
しつこいなあ……。
四度目の呼び出し音が鳴って、千冬がそう思った時、留守電に切り変わった電話機から、誰かの声が聞こえてきた。そして、その声は、彼女にも聞き覚えのある、あの嫌な声だった。
千冬の表情は、声の相手が誰なのか分かった瞬間、硬直して張り付いた。眉根を寄せながら、じっと身体を強ばらせて、その内容に耳を傾ける。電話の声は、わざとらしい猫なで声で、やけに丁寧にしゃべっていた。千冬は、そのいやに丁重な相手の話し方に胸のむかつきを覚えた。
「千冬、お父さんだよ。……今、何をやってるんだい? お前がその部屋に居るのは分かっているんだよ。どうして電話に出てくれないのかな。この前は驚かせてしまって済まなかったね。お父さん、久しぶりにお前に会うことが出来て嬉しかったんだよ。これからは、お前とお父さんの親子二人で仲良くやって行こう。ずっとお前のことを探していたんだよ。お前がお母さんと二人で出て行ってしまってから、お父さん、ずっと寂しかったんだ。お前も寂しかっただろう? でも、もうお互い悲しまずに済むね。これからは、もうずっと一緒だよ。お父さんがお前の側にずっと居てあげるからね。それから……」
留守録の制限時間がきて、通話は途中で切れた。
間を置かずに、すぐにまた次の電話が掛かってきて、続きのメッセージが入れられる。
「それからね、お前の恋人の井本君のことなんだけど、お父さんとお前にとっては、少し邪魔な存在かもしれないね。お前だって、親子水入らずの方がいいだろう? 前みたいにまた仲良く暮らしていこうね。幸せだよね、千冬? またお父さんがお前の事をいっぱい愛してあげるからね。井本君みたいな子供には、お前を愛することなんて出来ないよ。お前をちゃんと愛してやれるのは、お父さんだけなんだ。良かったね、千冬」
更に、次の留守録。
「今日は電話だけになるけど、もうすぐお前を迎えに行くから。お父さん、もうお前の家の近くまで来てるんだ。住所もちゃんと知ってるから、心配はいらないよ。楽しみに待っているんだよ。井本君によろしく。本当に、邪魔だったらあの子は殺してしまおうね。お父さん、お前ともう一度二人っきりでやり直したいから。それを邪魔する人間は井本君じゃなくても、みんな殺しちゃうけど、でもそれでいいよね? じゃあ、ほんとにもうすぐ迎えに行くから、大人しく待ってるんだよ」
最後のメッセージは、父親は陶酔したようなさっきまでの言い回しを止めて、地の声でしゃべっていた。
「……逃げても無駄だぞ、千冬! お前が逃げても、俺はどこまでもお前を追いかけていってやるからな。もう逃がしはしない。どこまででも、お前を追い詰めていってやる。お前はもう、俺からは逃れられないんだ。これからはまた、昔みたいにたっぷりとお前のことを可愛がってやるからな。へっ……。愛してるぞ、千冬」
四度に渡る、父親の悪意に満ちたメッセージが終わった。
最後のメッセージが終わる頃には、千冬の表情は、不気味なまでに歪んだ微笑みに変わっていた。
……残念。少し遅かったね、お父さん。もうすぐあたしは、この世から居なくなるんだよ。あたしが居なくなったら、お父さんはきっと悲しむだろうね。でも、もちろんそれはあたしの為なんかじゃなくて、自分の為であるに決まってるんだけど。だって、ストレス解消用の奴隷がこの世から無くなってしまうんだもの。そりゃあ、悲しいわよね。ねっ、お父さん?
千冬は微笑を湛えたまま、ゆっくりと立ち上がり、お風呂の具合を見に行った。お湯はとっくに満杯になっており、浴槽の縁からはお湯が溢れ出していた。
蛇口を捻ってリビングに戻り、服を脱いで真っ裸になった。脱いだ服は、丁寧に畳んでテーブルの上に置いた。
千冬は、バタフライナイフを右手に持ってから、左手で携帯を取り上げて、夜月と彼女とを繋ぐライフラインであるその携帯電話の電源を、親指の先でそっと切った。
彼女はそれから、ひたひたと足音を鳴らしながら風呂場へ向かった。
遠い遠い旅行に出る時のような気持ちで、浴室のドアを開けた。
中では、湯船からもうもうと舞い上がった水煙が浴室全体を乳白色に染めていた。
霧がかった浴室に足を踏み入れ、彼女は後ろ手にドアを閉めて、さらにしっかりと鍵を掛けた。
水蒸気の一粒一粒が、光りをいっぱいに含んでいて、彼女は、まるで光りの洪水の中に入って行くような気がした。浴室内は、穏やかな光りの粒に満ち溢れ、目映いほどに輝いているように見えた。
……光りの中で、魂は浄化されてゆく。
掛け湯をしてから、足先から身体を徐々に湯船の中に沈めていった。熱いお湯に冷えた身体が痺れる。お湯が、身体の体積の煽りを食ってざあざあと溢れた。そのお湯からは、より一層濃い靄が立ちのぼる。
身体は完全に湯船の中に沈められた。浴槽の中で身体を小さく折り畳んで座りながら、千冬は顎先まで深くお湯に浸かって、長く息を吐いた。
彼女はそのまましばらく、全身の血の巡りが良くなるのを待った。
その間に、一緒に浴槽の中に持って入ったバタフライナイフの刃をしげしげと眺めた。
綺麗……。
それから彼女は、どこを見るともなく、ぼんやりと浴室内を眺めた。微細な水蒸気の粒が浮遊し、互いにぶつかり合い、あちこちを自由に跳ね回っているのが見える。その濃い靄の中に、自分の身体が溶けていくような気がした。水に、靄に、身体中の細胞が溶け出していって、混ざり合い、溶け合い、一体化する。意識も同様にその中に溶け出し、やがては、自己の存在は驚くほど稀薄になる。
雲のように白く濃なっている靄の中に、ふっと、夜月の顔が浮かんだ。笑った顔、困った顔、喜んでいる顔、悲しんでいる顔……。靄をスクリーン代わりにして、夜月の色んな顔が辺りに幾つもふわふわと浮かぶ。
自然と涙が零れる。
胸が締め付けられて、でもその一方で、ひどく温かくなる。
千冬の表情は、とても穏やかで優しい顔付きになった。
――ありがと、夜月。あなたに出会えて本当に良かった。たくさんキスをくれて、たくさん抱いてくれて、たくさんあたしを愛してくれた。ほんとにありがと、夜月。あたしみたいな下らない人間にいっぱい愛をくれて。でも、夜月は辛かったでしょ? あたしはあなたに負ぶさってばかりだったから。ごめんね、夜月。けれど、これでもうあなたには迷惑を掛けずに済みそう。……ごめんなさい、夜月。本当にごめんなさい。ごめんなさい。あなたに甘えるのも、もうこれで終わりにするから。これで、本当に終わりにするね……。本当にありがとう、夜月……。ごめんなさい。ごめんなさい……。
千冬は、お湯の中に沈めたバタフライナイフの刃先を、左手首に当てがった。
夜月……。
千冬は、息をゆっくりと大きく吸い込んだ。しばらくそのまま止めてから、またゆっくりと吐き出した。そして、完全に息を吐き出し終えたその一瞬、右手をそのまま力強く手前に引いた。
お湯に浸かった手首から、勢い良く血が吹き出した。血はなかなかお湯に溶け込んでいかずに、緩やかな水中の流れと共に、いくつもの方向に別れて、帯を作って流れた。手首には、何故かいつものような痛みはなかった。千冬は、お湯に流れ出した血の流れを見て、それをとても綺麗だと思った。
手首からはどんどんと血が吹き出してきて、その赤色は、ゆっくりと湯船全体に広がっていった。血はやがて、浴槽の全体を薄紅色に染め上げた。
目を閉じて、頭を後ろに倒して湯船の縁にあずけた。
やけに静かだと思った。
つーっと、涙が頬を伝った。
「夜月……」
千冬はもう一度だけ、そっと夜月の名前を呼んでから、そのまま気を失った。
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