第10話 過去
迎えに来た車に乗って、千冬は流れゆく夜の町を眺めていた。
「今日はお客さん多くってさあ、あたしちょっと疲れちゃった。夜月は何してたの?」
「んー? 今日はお昼過ぎまで漫画喫茶に行ってて、ぼーっと漫画読んでた。それから本屋さんに行っててさ。ほら、これ。千冬が好きな作家のやつだろ。今月の新刊ってあったから、買ってきといた」
「あっ、嬉しー! ありがと、夜月」
「それと、後ろに菓子パンがあるぞ。なんか、そろそろ閉店だからとかなんとか言って、沢山おまけしてくれたんだ」
「あー、ほんとだ。美味しそー。あっ、チョココルネもある。今食べてもいい?」
「だーめ。今食べたら晩御飯はどうするんだ? 御飯は食べに行かないのか?」
「行くけど、これも食べる」
「しょうがないなあ。少しにしとけよ。夕飯が食べられなくなるからな」
「大丈夫。疲れたからちょっと甘いものが欲しくなっただけだよ」
「まあ、食欲があるのはいいことだけどな」
千冬はチョココルネを袋から取り出して、パクリとかぶりついた。
「晩御飯はどこに行くの?」
彼女の口の端には、甘そうなチョコクリームが引っ付いている。
「ん? さっき車で走ってたら、無国籍料理の店があったから、今日はそこに行ってみようと思ってる。ちゆは他に何か食べたいものあるか?」
「ううん、そこでいい。このチョココルネ、美味しい! ここ、どこのパン屋さん?」
道路が少し混んできて、どの車もゆるゆると徐行していた。彼女はチョココルネを半分ほど食べて、残りの半分を名残惜しそうに見ていたが、結局我慢したようで、それをまたビニール袋の中に戻し、窓の外に目をやった。
過ぎゆく人々は、強くなってきた風にコートの襟を立てながら寒そうに歩いている。通りすがりのファーストフード店の中では、制服姿の女子高生がたくさん見られ、ちらりと見えたその楽しそうな笑顔の数々は、逆に千冬を憂鬱にした。
それとなく、隣に居る夜月の様子を窺う。彼は、ぶらぶらしていたにしては、どことなく疲れているようだった。全身の力が抜けていて、どこか気怠そうな様子。目もとろんとしていて眠たそうだ。そういえば、さっきから夜月は何度も欠伸をかみ殺している。
千冬はフロントガラスに視線を戻し、前方の大通りを見つめた。
また、嫌な記憶が甦る。
今度のは、ごく最近の記憶だった。
つい今し方通り過ぎた道路の脇道を入った所で、千冬は、この間の自殺の契機となった人物と、運悪く遭遇してしまったのだった。
その日は、それほど良い天気ではなかったのだが、さりとて悪い天気でもなく、歩くには充分に心地の良い日和だった。空には雲が多く、太陽が顔を出すのと曇っているのとでは、せいぜいが半々程度でしかなかったが、そんなどっち付かずの天候も、冷たい空気に覆われた今の季節の雰囲気には良く合っているような気がした。
千冬は、町に秋の気配を感じ取りながら、近所の本屋に目当ての本を買いに行く為に、大通りから一本外れた住宅街の道を歩いていた。
最近では、彼女の心の中にもようやく生きる希望が芽生え始めてきていた。夜月との意思の疎通も自分でも驚くほど上手くいっていて、彼が側に一緒に居てくれさえすれば、自分はこれから先、上手くやっていけるかもしれないと、そう思える程に前途は明るかった。
千冬にとって、誰かとそれほどの信頼関係を築けたのは、夜月が初めてであった。
それまで彼女は、人とのコミュニケーションが上手く取れる方ではなかった。誰と出会っても、相手に対する印象は、常に不信感から入ってしまって、結果としてそれが相手にも伝わってしまうようで、誰一人として心を許せる相手を持つことが出来なかった。初対面の人に対しては、否が応でも警戒心が湧き起こり、たとえ表面上は普通を装って上手く明るい感じで話せたとしても、心を閉ざしたような卑屈な気持ちのせいで、誰とも親密な関係を築くことが出来なかった。
病んでしまった千冬には、初対面の時から心を開いた状態で相手に接するのは、どうしても無理なことだった。いくら千冬自身がそれを望んでいても、彼女の持つ暗闇がそうはさせてくれなかった。
――夜月と出会ったのは、大学一回生の秋頃。
その頃、彼女の両親は既に離婚しており、千冬は母方に引き取られて、母親と二人暮らしをしていた。
離婚が成立したのは、彼女が中学三年生の時だった。
当時は、父親は母親にもよく暴力を振るうようになっており、それが段々と烈しいものになってきていた為に、とうとう母親がそれに耐え切れなくなって、千冬を連れて、逃げ出すようにして父親と別れてきたのだった。
それから、約四年の歳月が流れた。
昔はあんなにも酷かった母親だが、その悪辣な性格も老いには勝てなかったらしく、今はただの口うるさい中年女といった程度になってしまっていた。母親はもう、千冬が脅威を感じる程の存在ではなくなっていた。その、嫌味で過激な言い回しは相変わらずだったが、千冬の肉体的な成長も手伝って、流石に暴力はなくなってきており、母親との暮らしは既に、千冬にとっては耐えられないようなものではなくなっていた。
家にお金は無かったが、生活保護と母親の夜の仕事のお陰で、生活の方は問題なく出来ていたし、大学には奨学金制度を使ってなんとか入学することが出来た。大学入学の際には、母親にはずいぶんと進学を反対されて、千冬も彼女と一緒に夜の仕事に就くように強要されていた時期もあったが、丁度その頃に、常連客との間でたまたま子供の学力自慢の話しが出たらしく、近所への体裁も考えて、母親はしぶしぶ千冬の大学進学を承諾してくれていた。
入学してからすぐは、大学という新たな生活の場に慣れるのに必死だったが、その内に余裕も生まれ、夏頃からあのスーパーのバイトに行くようになった。
バイトでも、千冬は初めは全く周囲に馴染めず、店長の古田などからは比較的良くしてもらっていたのだが、しかし、普通の大学生みたいに、バイトを楽しむといったような感じではなかった。
それから、ふた月程が経ち、夜月がバイトに入ってきて、そこで二人は出会った。
千冬にしては珍しく、夜月の事は、一目見た時から優しそうな人だと感じた。
彼は初めから、何故だか千冬には良く話しかけてきてくれて、千冬にとってはそれがひどく嬉しかった。夜月の自分に対する態度が、周りの他の人間に対する態度とは違っていて、自分の事を特別に扱ってくれているのだということが、千冬にも何となく感じられた。けれども、彼女は、夜月が自分の事を好きだとは、そんな事はただの一度も思ったことがなかった。
千冬にとって、誰かが自分の事を好きになるなどということは永久に有り得ないことだった。
しかし、夜月は千冬に対して積極的に接してきてくれて、すぐに二人は一緒に遊びに行くようになった。それまでそんな事をしたことがなかった千冬は、夜月が遊びに連れていってくれる事がとても嬉しかった。
彼と親しくなってから三ヶ月も経った頃、レストランで夜の食事をした後に、公園を散歩していた時、夜月から付き合って欲しいと告白された時は、千冬は心の底から驚いた。自分に何が起こっているのかも良く分からなかったが、夜月に告白されたという現実は、彼女にとっては嬉しい事以外のなにものでもなかったので、千冬は何も考えずに、それを素直に受けたのだった。そうして、町の春の訪れと共に、二人は正式に付き合うようになった。
しかし、その頃からだった。
千冬は、夜月のプロポーズを受けたことを、実は少し後悔し始めていた。夜月の事を好きになればなるほど、自己嫌悪の思いが自分の胸の中を強く支配するようになり、彼女はそれまでよりももっと、生きているのが息苦しく思えるようになっていた。
夜月と付き合っている内に、千冬には彼がどれだけいい人間なのかということがますます良く分かってきた。そんな人と自分なんかが一緒に居ることが、彼女の中ではどこかしら納得がいかなかった。
元より千冬には、自分が楽しく過ごすということに罪悪感があった。少しでも楽しいことがあると、自分みたいな人間が楽しい思いをしていても良いのだろうか、自分にそんな資格があるのだろうか、そんな懸念が強く湧き上がってきて、落ち着かない気持ちになってしまうのだった。もし仮に、彼女に嬉しい出来事があったとしても、千冬はそれを素直に受け入れることが出来ずに、むしろそういった嬉しい気持ちを自虐的に追い払ってしまうのが常だった。千冬はそれまで、自らを不幸になるように、精神的に追い込みながら生きてきたようなものだった。
自分なんかに幸せになることは許されていない。
自分はずっと不幸のままでいなくてはならない。
そう考えると、千冬はどんどんと夜月と一緒に居ることが心苦しく思えるようになった。
また、千冬がそんな様子でいると、夜月は彼女のそんな態度が気に掛かり、自分の方にどこか問題でもあるのではないだろうかと、彼は彼で不安になっていた。そして、千冬はまたそれを敏感に感じ取り、自分が夜月を不幸にしているのだと思い込んだ。
夜月が、千冬のそういった本当の心の動きに気が付ける筈もなく、彼が気を遣って優しくすればするほど、千冬の心は余計に重たくなっていった。
夜月と一緒にデートすることは、千冬にとっては夢のように楽しいひと時だったが、だが、そうであればあるほど、家に帰ってから一人になると、自分が幸せになりそうになっているということに対する罪悪感が湧き起こって、また、そんな卑屈な自分が夜月に却って負担をかけてしまっているのだと思うと、ひどく陰鬱な気持ちになった。
交際が始まってから一年半程経った頃、千冬のそんな思いは積もり積もって、とうとう付き合ってから初めての自殺を試みることになる。
幸せを求める気持ちと、不幸になろうとする気持ちとの間で揺れ動く彼女の心は、時間と共に追い込まれて、自分をこの世から消し去り、もどかしいまでの現実から逃げ出してしまう事を望んだ。
夜月と知り合う以前にも、自殺しようと思って、それを行動に移した事が何度もあったのだが、大抵は上手く死ねなかったり、誰かに見付かったりして、幸か不幸か、現実的な死にはまだ至っていなかった。
千冬が選んだ自殺の方法は、いつも自分の手首を切るというものであった。
一度だけ、母親の睡眠薬を盗んで飲んでみたことはあったが、効き目が弱かったのか、失敗に終わってしまった。それにまた、病院で目が覚めた後で、そんなに楽に死んでしまうことを、彼女はやはり良しとしなかった。
他の、飛び降りや首吊りなど、何の苦痛もなく一瞬で死ぬことが出来てしまう方法も、彼女にとっては望ましいものではなかった。
彼女は、自分を痛めつけて、そしてその痛みの中で死んでいきたかった。自傷行為の後にやってくる精神的な安寧だけが、千冬を真に死へ導いてくれるものだった。
また、死のうとは思わないまでも、ナイフで手首を傷つけて安心感を得るという行為は、もう何度も繰り返していた事だった。
千冬が夜月と付き合ってから初めての自殺を図った時は、彼女は本気で死にたかったから、手首には相当深く切り込みを入れたのだが、運命の悪戯のせいなのか、それを、その日だけたまたま早く仕事から帰って来た母親に見つかってしまい、失神している所を病院に運ばれて助かってしまった。
母親は、千冬が入院している間に彼女の部屋を物色して、夜月という彼氏がいることを調べ出し、直接夜月の所まで会いに行って、「千冬が自殺しようとしたのはお前のせいだ!」と散々罵って、夜月に酷い打撃を与えた。
夜月は、それに相当打ちのめされていた筈だったが、彼は自分のことよりもまず、千冬のことを慰めてくれたり励ましてくれたりして、なんとか千冬を彼女の暗闇から救い出そうとしてくれた。
千冬も彼のそんな熱意や、度重なる説得に突き動かされて、彼と共に手を取り合って生きていこうとした。
その後、千冬は病的にもう一度だけ自殺を図るが、それ以降は、夜月の存在を心の支えにして、前向きに生きられるようになった。
夜月の今の仕事が決まった時点で、千冬は家を出て、夜月と二人暮らしをするようになり、二人は同棲生活を始めた。
その時は、これからの人生を夜月と明るく生きていくことが出来るように思えた。
しかし、彼女が夜月と長い間かかってようやく築き上げたそんな希望も、あの日の出来事のお陰で、脆くも崩れ去るのだった。
自殺を図った当日の午後。
千冬は近所の本屋に向かいながら、今夜は夜月に何を食べさせてあげようか、などと考えつつ、住宅街の通りを歩いていた。
浮足だった足取りで道を右に曲がり、大通りの方へ出ようとしたその時だった。前方から、見慣れた雰囲気の誰かが歩いて来るのが見えた。
千冬は、その誰かが誰であるのか認識した瞬間、心臓が跳ね上がり、足が竦んで動けなくなってしまった。
……どうして、あの人がこんな所に?
突如として、頭の後ろ辺りに悪寒が走った。昔に良く味わっていた、あの、苦くて嫌な感じ。
彼を見た瞬間、千冬の呼吸器官には狭窄が起こって、あの頃のように息が荒くなった。
はっ、はっ、はっ、はっ……。
お願い! 気付かないで!
そこは狭い一本道で、隠れることの出来るような電柱一本すら無かった。千冬は俯いたまま急いで回れ右をして、その誰かに気付かれないように願いつつ、元来た道を戻ろうとした。両手で胸を押さえながら、祈るような気持ちで、出来るだけ自然に見えるように足を早めた。
しかし、そこで……その誰かが千冬の肩を強く掴む。
千冬は動くことが出来なかった。がたがたと震えながら、あまりの絶望感に気を失ってしまわないようにするので精一杯だった。
その男は、千冬の前に回り込み、腰を屈めて千冬の顔を覗き込んでから、にやりと笑った。
――父親だった。
あの最低の男が、今再び千冬の目の前に立ちはだかっていた。
叫び出したい。誰かに助けを求めたい。
すぐ側に家々が建ち並んでいるのだから、叫べば誰かが様子を見に来てくれる筈だ。
けれども、口は無力にもぱくぱくと開くだけで、声が出てこない。息が出来ない。声を出すのに必要なだけの空気が、肺の中に入ってこない。
酸欠にあえぐ肺が、やっと空気を少しばかり取り込んだところで、父親が千冬の口を押さえ付けて、彼女の左手を後ろに捻り上げた。その遠慮の無い強い力に、千冬の口からは小さな悲鳴が漏れ出た。
父親は素早く周囲を見回すと、千冬にこう囁いた。
「今から手を離してやるが、大声を出すなよ。もしも叫びでもしたら殺すからな。いいな、千冬!」
涙が溢れる。身体が引きつけを起こしている。父親の手から解放されると、千冬はその場に崩れ落ちた。涙が止まらない。耐え難い恐怖に、千冬は子供のように泣きじゃくった。
……バシッ!
そこへ、昔のように父親の張り手が飛ぶ。
「泣くな! 黙れ! 殺されたいのか!」
千冬は、無理にでも泣き止むしかなかった。この時、千冬にはもう抵抗する気力は無くなってしまっていた。事態は突然過ぎた。その唐突な出来事に対して、千冬の精神は何の反応も出来なかった。
父親が小声で話しかけてくる。
「久しぶりだな、千冬。何処で何をしていた? お父さんをほったらかしにしておいて、親孝行もせずに、よくもこんな所でのうのうと生きていられたもんだな、おい。この出来損ないが。これからは、お前に厄介になってやる。子供が大きくなってから、親の面倒を見るなんてことは当然の事だろう? しかしまあ、俺にもやっと運が巡ってきたな。こんな所でお前に会えるなんてな。やはり日頃の行いだな。俺みたいに人間がいいと、いつかこういう幸運に巡り会えるんだ。それに、この再会はお前にとっても嬉しいはずだ。そうだろ? お前はお母さんに連れて行かれて、無理矢理俺と離ればなれにされてしまったんだからな。これからは、お父さんがずっとお前と一緒にいてやるからな。これからは、ずうっと一緒だ。もうお前から離れたりしないぞ。だから、お前は安心して暮らせばいい。昔みたいに、またいっぱい愛してやるからな、千冬。くくくっ……」
気違いじみた笑い。
気が遠くなる。まともにものが考えられない。この男は何を言っているのか? これからまたあたしに付きまとおうと言うのか? あれだけあたしに酷いことをしておきながら、この男はまだ満足していないのか? やっと掴みかけたあたしと夜月とのこれからの生活を破壊しようというのか?
何故――?
どうして?
どうしてこんな事に?
「千冬、今どこに住んでいる? 家はどこだ? 今からお前の家に行こう。一人暮らしか? お母さんは一緒か? それとも別の誰かと住んでるのか? だとしたら、そいつにも挨拶しとかないとな。これからずっと世話になるんだから、初めぐらいはきちんと挨拶しておかないとな。ん、どうした、千冬? 答えるんだ。泣いてばっかりじゃ分からないぞ。ほらっ、父さんに教えてくれ」
父親のその甘えたような猫撫で声に、千冬は怖気がした。
喉元に吐き気が込み上げる。頭が痛い。歯ががちがちと鳴る。全身の神経が悲鳴を上げている。
助ケテ。
怖イ。嫌ダ。
コノ人ハ嫌ダ。嫌イダ……。
助ケテ。夜月、助ケテ……。
…………。
夜月?
そうだ! 夜月だけはこの男から守らなければ。あたしが今、夜月の事を守ってあげなければ。
夜月だけはこの男と関わらせてはならない。あたしなんかのせいで、もうこれ以上夜月の生活を無茶苦茶にしてはいけない。あたしはどうなってもいい。夜月を守るんだ。その為には、なんとかしなければ。この男をあの家に連れて行く訳にはいかない。
夜月を助けなくては!
千冬は夜月の事を考えることで、少しだけ身体に力が戻ってきた。手を動かしてみる。
……動く。
父親は今また、道の両側に視線を向けて、誰か来ないかを警戒している。この道を抜け出ればすぐそこには大通りがある。あそこまで行くことが出来れば、人も大勢いるだろう。
お願い! 私の身体! 一瞬だけ動いて!
この人に抵抗する力を与えて!
千冬は意を決して、彼女の前に屈み込んでいた父親の身体を思い切り突き飛ばした。
「なっ……」
父親が倒れた隙に、彼女は立ち上がり、表通りの方に向かって駆け出した。後ろで、父親が立ち上がり、昔のように怒り狂いながら猛然と追い掛けてくる音がした。
千冬は背後に迫り来る恐怖に怯えながらも、必死に走った。
路地を走り抜け、大通りへ出てほっとしたのも束の間、後ろから肩をぐいっと捕まれて後ろへ倒された。
それは、千冬の最後の抵抗だった。
「助けて――!」
彼女はありったけの大声で叫んだ。
そこへ、たまたま通りがかった高校生の二人連れが、何事かと駆けつけて来てくれた。
「ちっ……」
父親は彼らの姿を見て、慌てて走って逃げて行った。
去り際に彼は小さな声で、千冬にこう言い残していった。
「俺から逃げられると思うなよ!」
父親のその言葉は、その時、千冬の脳裏に深く刻み込まれた。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ってきた高校生の一人が、千冬にそう声を掛けてきてくれて、もう一人が彼女が立ち上がるのを手伝ってくれた。
安堵感に涙が零れた。泣きながら彼女は笑った。
叫べた!
あの父親に、一度でも抵抗することが出来た。
夜月を救うことが出来た。あたしが夜月を救ったんだ!
満足だ。あたしはもうこれで満足だ……。
「ありがとう! あなた達が来てくれなかったら、ほんとにどうなっていたか。とても感謝しきれない。これ、ほんの気持ちだから。本当に、こんなものではとても返しきれないんだけど」
恐縮する二人の手に、無理矢理一万円ずつを握らせて、さっきの彼女の叫び声を聞きつけて人が大勢集まってくる前に、千冬はその場を逃げるようにして立ち去った。
その後、父親に再び見付かることのないように細心の注意を払って、どうにか上手く家まで辿り着くことが出来た。
後ろ手にドアを閉めて鍵を掛け、千冬は長く息を吐き出すと共に、気を失ってその場に倒れた。
その短い間に、千冬は夢を見ていた……。
玄関口で倒れ込んでいると、ドアにノックの音がする。
千冬は、その音に飛び起きて、身体を固くしたままドアの向こうの気配を窺う。夜月ではない。その人物が誰なのか、千冬にはもう分かっている。
また、ドアがノックされる。
彼女はゆっくりと起きあがり、覗き穴からドアの向こうを見る。
父親が凶悪な顔をして、怒りに顔を震わせながら立っている。
もう駄目だ! この家もばれてしまった。もう逃げられない。
夜月がもうすぐ帰ってくる。そうすれば、全てが終わってしまう。
父親がまたノックする。
最初は他の住人の手前も考えてか、大人しく叩いていたようだが、だんだんと力が強くなってきている。苛立ちがドアを通して伝わってくる。
千冬は観念して、寝室の方へとって返す。
押し入れの上の天井板を外して、その奥から、夜月には内緒にしておいた手提げの鞄を取り出す。それは、赤い鞄だ。
赤い鞄の中には、幸せになれる何かが入っている。
その赤い鞄は何故か今、彼女の手元にあり、その中には銀色に光るバタフライナイフが入っている。
幸せにしてくれるもの――それは、綺麗に磨かれたナイフ。
彼女を生から解き放って、天国へ連れていってくれる聖なるナイフ。
遥か遠くの方から、ドアを苛々と続けざまにノックする音が聞こえてくる。いや、それはもうノックなんてものではない。父親はドアを足でガンガンと蹴っている。蝶番が軋む音がしている。もうじきドアは蹴破られて、千冬はまたあの父親に、昔みたいに気も狂うような虐待を受けることになるのだ。
だったら……死ンダ方ガマシダ。
千冬はバタフライナイフの刃を出して、その綺麗に光る刃を手首に当てた。
そこで、千冬は目を覚ました。
玄関の靴の上に、崩れるようにして倒れ込んでいた千冬は、寒気に身を震わせながら起き上がった。
夢だ……。
一瞬、ほんの少しだけほっとする。しかし、すぐにその安堵感が意味の無いものであることに気付く。
あれは、もうすぐ現実のものとなってしまう。
千冬はゆるゆると靴を脱ぎ、部屋に上がると、何を考えることもなく、夢と同じに押し入れ奥の天井裏から、皮のケースに収められた銀色に光るバタフライナイフを取り出した。夢と違うのは、入れ物が赤い鞄でない事ぐらいだ。
こんな時になって、赤い鞄の夢なんかを見た事に彼女は皮肉を感じた。
あたしは、この期に及んでもまだ、幸せになろうとしている。
自分のせいで夜月をあんなにも不幸にしておきながら、あたしはまだ自分の幸せを望んでいる。
愚劣なあたし。
汚らわしくて、醜いあたし。
相手があたしでなければ、夜月はずっと幸せになっていた筈だったのに。それが、あたしなんかと知り合ってしまったばっかりに。
可哀想な夜月。
父親がこの家を見つけ出すのは、本当にもう時間の問題だろう。今日はなんとか逃れられたが、この町に住んでいることが知れてしまった以上、見つかるのにそう時間はかからない筈だ。
それにさっき、あたしは生まれて初めてあいつに抵抗出来た。それだけでも、もう充分に満足だ。あたしは良くやったと思う。これであたしが死ねば、夜月にはこれ以上の迷惑は掛けずに済むし、あたしも生という枷からは解放される。
もう、生きていることには疲れた……。
元々、あたしなんかが幸せになれる筈がなかったんだ。ちょっとでも夜月と上手くやって行こうだなんて、そんな事を思ったのが間違いだったんだ。
一度壊れてしまった人間は、もう永久に壊れたまま。
幸せになろうとしていた事自体が、ひどくおこがましい事だった。あたしは一体何を考えていたんだろう? 幸せになんか、永久になれる筈などなかったのに。でも、それももう終わりにしよう。今日でもう終わりだ。帰って来てから、あたしが死んでいるのを見付けたら、夜月は少しは悲しんでくれるだろうけれど、でも、それも一時的なこと。あの人ならきっとすぐに、あたしなんかよりもずっといい相手を見つけて、幸せになることが出来るだろう。
それは、ちょっとだけ淋しいことだけど。
でも、そうだ……。
それでいいんだ。
さよなら……夜月。
そして千冬はあの夜、満月に照らされながら部屋で一人、自殺を図ることになった。
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