第9話 次のメモ
二日後、夜月はまた赤い鞄探しの続きに出掛けた。
今日は、わざわざ依子を呼んで、千冬と一緒に居てくれるように頼まなくても済む。夜月は非番だが、千冬にはパートがあり、家で一人にさせるようなことにはならずに済んだからだ。
依子には、いつも悪いと思っている。
千冬にもそれなりに友達がいたが、仕事があったり、家が遠かったりして、こちらの都合だけで簡単に会いに行く訳にはいかなかったから、普段はどうしても姉の依子に頼りがちになってしまっていた。依子も千冬の事は気に入ってくれていたから、「いいのよ、私も結構暇だし。それにね、ちゆちゃんと居ると私も楽しいから」とは言ってくれていたものの、夜月はいつまでも彼女に甘えている訳にもいかないと思っていた。
また、依子と夜月の家は少し離れており、車で一時間強というその距離は、彼女にとっては決して楽なものではなかった筈だった。依子は大したことはないと言っていたが、夕方の混む時間帯などは、ゆうに一時間半は掛かるため、あまり頻繁に呼びつける訳にもいかなかった。
夜月はだから、なるべく早く赤い鞄を見付け出してしまいたかった。赤い鞄などというものが、この世に本当にあればの話しだが。
次の行き先は夜月の家からは近く、半時間程でその場所にたどり着いた。
そこには、最近出来たばかりの真新しい図書館が建っていた。車を駐車場に停めて中へ入り、受け付けで来意を告げた。
受け付け嬢に呼ばれて、奥の部屋から、五十がらみの少しやつれた男が出てきた。彼はどうやら、ここの職員らしい。
前日にここの住所を調べていた夜月は、行き先が図書館だと知って、実はかなり期待を抱いてここにやって来ていた。いくら真新しいとはいえ、図書館であれば、赤い鞄に関する何らかの蔵書や資料が置いてあるかもしれないと思ったからだ。
しかし、夜月のあては今回も全くの肩すかしに終わった。前の二人の時と同様、その男にもまた、赤い鞄を探すに至った動機などの一連の事情説明を求められ、そうして次なる人物のメモが手渡されただけだった。
「ここへ行きなさい」
彼らの一様なその対応に、夜月は少しばかり奇異を感じ始めていた。もっとも、思えば初めの男からしておかしな感じだったのだが。
まず、誰もが次の人物へのメモをくれるだけで、大事なことは何一つ教えてくれない。それに、次の相手の名前と住所まで分かっているのなら、彼らは当然顔見知りの筈で、だったら事前に電話連絡か何かを入れておいてくれればいいのに、それはしてくれていないようだった。次の人物の所に行く度に、夜月はいちいち最初から全ての事情を説明しなければならず、相手は前の人からは夜月のことに関して、何も聞かされていないらしかった。
また、あちこちをたらい回しにされているような感じも解せなかった。どうしてもっと単刀直入に赤い鞄の事について教えてくれないのか。個人個人は次の人物への連絡先を知っているだけで、実はそれ以外のことは何も知らないのだろうか。
彼らは本当に、赤い鞄の秘密を握っているのだろうか?
数々の疑問はあったが、夜月は言われるままに次の人物の所に向かうしかなかった。
四人目の人物は、コーヒーショップの店長だった。
歳は三十代前半といったところか。エプロンを着て、にこにこと接客するこの男にもまた、神秘性の欠片も感じられなかったが、夜月がメモを見せると、これまでと同様に奥へ通され、動機の説明を求められた。帰り際には、また次のメモをもらった。
このコーヒーショップの訪問を終えた後、夜月には、ぼんやりと何かが分かりかけてきた。
ある人物を訪ねて、相手に動機や事情を話し、次の人に繋がるメモを貰う。
これはたぶん、こういうルールなのだ。
夜月はまるで、仕組まれたゲームに巻き込まれてしまっているような気がした。どこかしら、自分が妙な遊びに付き合わされているような感覚がある。
これがただの悪戯であるという可能性も大いにあったが、けれども、こんなにも手が込んでいて、しかも多人数を要した面倒な悪戯が一体どこにあるだろう。夜月一人を騙すだけなら、もっと別のやり口があるように思える。例えば、遠い外国の地名でも教えて、とんでもない無駄足を踏ませるだとかなんとか。
行き着く先には、もしかしたら実際に何かがあるのかもしれない。
それにまた、今まで訪れてきた彼らには、皆少しずつ謎めいた所があった。夜月の話しを聞く彼らの姿勢にも、面白半分といったようなふざけた感じが全く無く、誰もが至って真剣な様子だった。
これが、冗談やなんかであるような気はしなかった。
だが、だとするならば、彼らのやっていることが悪戯でないのなら、この町には思いもよらぬ秘密が隠されていることになる。
ようし……だったらやってやろうじゃないか。何処までもお前達の用意した人脈を辿っていってやる。
今日は、時間の許す限り回れるだけ回るつもりでいた。
五人目は、家事手伝いの二十六歳の女性。
六人目は、保育園の保母さん。
七人目は、宝石店の販売員だった。
メモを頼りに町中を転々と回り、次の八人目で今日の限界がきた。
最後の八人目の人物は、パン屋の職人だった。
「あの、赤い鞄の事についてお訊ねしたいのですが」
「いらっしゃいませ。ん? ああ……赤い鞄の事ですか? まあ、そこに座りませんか? パンでも一ついかがです?」
「有り難うございます。ですが、あまり時間が無いもので」
「そうですね。時間はどんどんと過ぎてゆくものですからね。生きていれば、いずれ時間は矢のように過ぎてゆく……。まあ、二階に上がって下さいな。あなたみたいな珍しい方にお会いするのは、私は初めてなものなんで」
「はあ……」
この男もまた、今までの人物たちと同じように、所々訳の分からないような事を言う。
夜月はまたもや、そのパン屋の職人にこれまでの成り行きを一通り説明した。夜月の話しを受けて、パン職人が夜月に訊く。
「赤い鞄だなんて、本当にそんなものがこの世に存在していると思いますか? そんなものは、つたない噂話だって、そう思いませんか?」
夜月は質問を質問で返した。
「あなた方はどうお考えなんですか? 一つ訊きたいんですけど、あなたはこのメモを書いてくれた前の女性の方をご存じなんですよね? あなた方は、全員お知り合いなんですか?」
「……まあ、そんなことはどうでもいいじゃないですか。そんなことは、本当にどうだっていいことなんですよ。あなたは今こうして、メモを頼りに私達を辿っていっていますが、でもね、実はもしも、これがただの遊びで、この世に赤い鞄なんか無かったとしたら、あなた一体どうします? 失望しますか? それとも、他に彼女が幸せになれる方法を考えますか? 彼女はいつか本当に幸せになれると思いますか? こんなに面倒な調査を繰り返して、それでも何も見つからなかったら、あなたはその時一体どうするんですか?」
夜月は少し考え込んだ。
「正直言って、分かりません。他の方法にしても、何も思い付くことが出来ませんでした。でも僕は、何が何でも彼女を幸せにしてやりたいんです。たとえどんな事をしてでも」
「そうですか。では、先程のあなたのお話しからすると、えーっと、これはかなり辛辣な質問になりますが、彼女は死んだ方が幸せなのかもしれないと、そう思ったことはありませんか? 生きている事は、時に死ぬ事よりも辛いものなのですよ。実際に、死んだ方が幸せな人だってこの世にはごまんといる筈だ。そんな人達に、あなたは頑張って生きていろ、だなんて言えますか? あなたに、そんなことを言う資格がありますか? 生きている事が、その人にとって死ぬよりも辛いことであったとしても、あなたは千冬さんに向かってそう告げることが出来ますか? そうすることが、本当に正しい事だと思いますか?」
「……本当に、良く分からないんです。彼女は死にたがってる。彼女をこの世に引きとめておくことは、ひょっとすると僕自身の自分勝手なお仕着せなのかもしれません。彼女がこれからも生き続けることは、彼女の為なんかではなく、僕自身のエゴの為なのかもしれないって。でも、僕はどうしても彼女に生きていて欲しいんです」
「良く考えてみて下さい。彼女にとって、何が本当に幸せなのかってことをね。あなた、知っていましたか? 赤い鞄の中には、実は何か不幸になるものが入っているっていう、本来の噂とは逆の噂があるということを?」
「いえ。聞いたことはありませんが……」
パン職人は、ふむふむと二、三度軽く頷いた。
「まあ、彼女の事をちゃんと見つめていてあげることですね。最後の答えは、あなたが出さなければならない。赤い鞄なんてものが、この世にもしもあったらの話しですけどね。ふふふ……。それじゃあ、これが次の方のメモです。あなたにお会い出来てとても嬉しかったですよ。あなたと彼女の幸福を心からお祈りしています」
夜月はまたメモをもらい、帰りがけに沢山の菓子パンをお土産に貰って、その店を出た。
外は既に真っ暗になっていた。もう六時半。急がないと、そろそろ千冬のパートが終わってしまう時間だ。
夜月は赤信号で車を停車させて、今までに貰ってきたメモの束を見つめた。一番上の最新のメモには、家から二十分程のフランス料理店の住所と男の名前が書いてある。
頑張ってみてはいるものの、いつまでこんな事をさせられるんだろうかと、彼は少し不安になっていた。いつまでたっても先が見えてこない。事は平行線を辿るばかりで、何の進展も見られない。
「やれやれ……」
夜月はそう声に出して言った。
信号が青に変わり、千冬の待つスーパーに向かった。
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