第4話 古い言い伝え
次の日も、朝早くから依子が家にやって来て、夜月は彼女に千冬を任せて仕事に出掛けた。
昨日と同じで、今朝も天気が良い。いつもどこから薫ってきているのか良く分からないが、金木犀の香りが辺りの空気中に漂っていて、その匂いが心を内側から綺麗にしてくれるような気がする。清々しい朝の街中を歩きながら、一体どうすれば千冬を完全に彼女の暗闇から救い出してやれるのだろうかと、彼は考え続けていた。
千冬に出会う以前から、心理学には興味があったので、彼は千冬と知り合ってからは、相当突っ込んで勉強してみたのだが、分かったのは、所詮は学問が千冬を助けてくれることなどないという事実だけだった。
心理学とは、夜月自身の心証で言えば、過去の症例を体系的にまとめただけの、単なる病状の寄せ集めでしかなかった。
例を挙げるならば、感情の喜怒哀楽が乏しくなり、話しの内容が支離滅裂で、本人の頭の中で考えが上手くまとまっていないようだと感じられたら、それは破瓜型の分裂病であるとか、いつまでも子供でいたいという願望があり、大人になり切れずに、社会に上手く適応することが出来ていないというような生活態度が認められたなら、それはピーター・パン・シンドロームであるとか、その人に現れている行動や態度などから判断される一応の診断基準みたいなものがあるにはあるが、それはあくまで過去の経験則から見てそういう結果だと言える場合が多いという意味に過ぎず、患者の全員にそうした診断がきっちり当てはまる訳ではない。また、ロールシャッハテストやTAT、Y・G性格検査など、深層心理を探る性格テストには数多くの種類のものがあり、それらを使って治療に成功を収めている例も沢山あるのだが、これらにしても、テスト結果の確証には個人差がある。これこれのテストで、こういう結果が出たら、ある種の傾向が強い、といったような診断が可能であるというに過ぎない。
だから、どれだけ有能な心理療法士であろうとも、千差万別の全ての患者の治療に必ずしも対応できる訳ではないのである。
実際、心理学にどれだけ造形が深くなろうとも、結局のところ夜月は、千冬を彼女の過去から解放してやることは出来なかった。
夜月は、これ以上どうしてやればいいのか良く分からなかった。いわば、手詰まりの状態。
考え得る最良の方法としては、多大なる愛情を千冬に注ぎ続けることだけだったが、あれだけ夜月が千冬に愛情を注いできて、それでもまだ千冬が死を望むというのであれば、もはや万策尽きた感があった。
「あと、考えられるのは、人の心を癒せるような超能力ぐらいのものだな……」
夜月は歩きながら、一人でそう呟いてみた。
しかしながら、夜月には、もう一つだけ希望があった。
最後の一縷の望み……。
それは、ずっと昔からこの町に伝わっている、ある古い言い伝えにあった。
一体誰が言い出したのか?
そして、それは本当のことなのか?
まだ誰も知らない……。
――『赤い鞄』の中には、何かが入っている。
それが、夜月の生まれ育ってきた町に伝わってきた言い伝えであった。
言い伝えによれば、『赤い鞄』の中には何かが入っていて、それを手にすることの出来た人は、必ず幸せになれるのだとされていた。
けれども、町の人間にとって、その言い伝えは、例えば口裂け女や足の速い老婆などの世間一般に通俗的に噂されているものと、なんら変わりのないものであった。所詮、言い伝えは言い伝え。単なるゴシップ。それ以上のものでは有り得なかった。今では、その辺のおじさんやおばさん達の会話中の冗談として、「赤い鞄でも見付かればなあ……」といった様に、困った時の慣用句として使われているのみだった。赤い鞄とは、そんな風にこの町の特徴的な表現方法として存在しているに過ぎなかった。
だがしかし、夜月は何故か昔から、半ば本気でその言い伝えを信じていた。本当にそれが周りの人間が言うようなただの噂であれば、この町だけでなくとも、どこの町にもあったっていい噂の筈である。他の町の人間が、赤い鞄の慣用句を口にしているのを聞いたためしがなく、赤い鞄の噂が夜月の町だけに限定されて伝わっているというのが、夜月には、実際にそこに何かがある証拠のような気がしてならなかった。
千冬の心の中を探り、その闇の深さに触れる度に、彼は段々と、「赤い鞄さえ見つかれば……」と本気で思うようになっていた。それは、夜月が弱気になっていたせいもあるのだが、最近では、千冬を救うには最早そういった奇跡的な力のようなものに縋るしかないように思えたからだ。
いつの頃からか夜月は、在るとも知れないその赤い鞄に、千冬の未来を託すようになっていた。そして、近い内に本気で赤い鞄を探してみようかと思っていた。そんな世迷い言を信じていると知れたら、みんなには馬鹿にされるかもしれないが。
半年ほど前に、スーパーの客が赤い鞄の噂をしているのを耳にする機会があった。その話しによると、赤い鞄について良く知っている人間がこの町のどこかにいるということだった。もしあれが本当だったのなら、ぜひその人に会ってみたいと思う。
職場に到着して、また相も変わらぬ一日が始まった。
赤い鞄……。
一日中、夜月はそのことばかり考えていた。
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