ロシアの戦争

ボストンP

I 開戦

「同志諸君!」

 兵舎に入ってきた軍曹が僕たちに言った。

「めでたい知らせである! ついに戦争が始まったのだ」

万歳ウラー!」

 僕以外の全員が叫び声を上げた。


 僕は隣にいた同僚の脇をひじでつついて真面目な顔で聞いた。

「なんでこんなに叫んでるの?」

「もちろん戦争が始まったからさ」


「それは良いことなの?」

 彼は少し考え込んだ。

「良い事じゃないかな。まあ、悪いことじゃないだろ」


 軍曹はベンチの上に立って、僕たちに向かって演説を始めていた。


「親愛なる諸君。自分は諸君らの度胸、勇気、そして大胆さは知っておる。そして、卑劣ひれつな敵に憎しみをぶつけるために、諸君らの心が一つになるであろうことも理解しておる。自分はここで、奴らを皆殺しに出来ると確信できた。

 自分は、諸君らがこんなことを言い出さないように願っている。『一体誰を憎まねばならないのですか』と」


「ああ、あのクソったれども」

「もちろん敵だ!」


「結構。『誰を』などという質問はないようだ。

 よろしいかな。自分はイタリア人やイギリス人への憎しみを抱いていたが、誤りであった。そして、彼らはタイミング良く自分たちの良き友となったのだ」

 僕は軍曹の怖い目つきに気づいて、震えながら聞いた。


「僕は憎みます。強く憎むと断言します。

 でも、僕は知りたいだけなんです。誰を憎めばいいのですか、軍曹殿!」


「これこそ……」

 おごそかに軍曹は言った。

「余計なことを考える兵士であり、何の役にも立たん。

 ここに壊れた車がある。さあ、貴様にはこの車の修理を命じる。二週間の営倉えいそう行きだ!」


 車はその日の内に修理に回された。でも、僕は七日で解放された。僕たちの部隊が戦場に行くことになったからだ。

 僕たちは何百もの列車に詰め込まれて出発した。車内は「万歳ウラー」と絶え間なく叫ぶ大声で満ちあふれていた。


 この時、僕は自分の心の状態を分析した。軍曹は炎のように強い憎しみが無ければならないと考えていたようだけれど、僕の心の中にそんなものはなかった。


「これ、戦いに向かってるんだよね?」

「もちろん」

 好戦的な声を出す一団の中に居た彼は、しわがれた声で答えた。

 僕は彼の方へ向き直った。


「なら、僕たちは誰と戦うんだろう?」

「誰と……。

 正直にいうと、俺、忙しくて聞いてなかったんだよね」

 僕たちは他の人達に聞いた。答えはすぐに分かった。ドイツと戦うことになるんだと。


「つまり、俺達が連中をぶちのめすんだな!」

 元気にそばかすの兵士が言った。

「何のために?」

「何のためって?」

 彼は、目をぱちぱちとさせてから考え込んでしまった。


「誰か知ってる人に聞いてみよう」

 僕は彼の肩を軽く叩きながら言った。

「気にしないで。多分、何かあいつらが僕らに嫌がらせをしてきたから、みんなが我慢できなくなったんだろう」


 戦争の理由を教えてくれる人にも、僕たちはすぐに出会えた。

「関税を上げたからだな」

「それで?」

「そう急かすんじゃないよ」

 答えてくれた兵士は僕たちに言って聞かせた後、


「戦争は、俺達が関税を上げたから始まったんだ」

「ドイツ人への、ですか?」

「ドイツ人への、だ」

 僕は離れてすみの方に座り、ドイツ人への自分の心の中の憎悪をあおり始めた。


「なるほど!」

 僕は考えた。


「奴らには払う気がない? 負担が増えることが気に食わない?

 なら……奴らは関税とは何かを思い知ることになるだろう。

 それはお前らにとって容易たやすいことではない。お前らは罰を受ける。税に抵抗するとはどんなことか思い知ることになるんだ」


 ああ僕の憎しみは、雨で湿ったたきぎのように勢い良く燃えてくれない。シューシューと音を立て、鎮火ちんかしてしまった。

 僕は確信した。もし敵のミスや罪が分かったとして、結局は僕の魂を激しく燃え上がらせることはないんだと。


 僕は、もっと身近なことを考えることに決めた。以前、僕に強い緊張を与えた二つの出来事だ。

 一つ目はドイツ人の時計屋。僕が修理に出した時計は、四日で直る予定だったのに一週間もかかってしまった。

 もう一つはアパートの女主人。ドイツ人の婆さんだ。家賃を滞納したからって、僕を追い出しやがった。


「時計は四日から一週間に延びた! それなのにアパートの方は、もう二、三ヶ月は待てなかったのか? お前らに部屋の時の恨みを思い知らせて叩きのめしてやる!

 時計のようにはいかないぞ。あー、忌々いまいましい!」


 そして僕はこう考えた。僕に憎しみを味合わせたドイツ人に出会った時には、腹に蹴りを入れるか、耳を引きちぎってやるだけだと。

 それ以外のことは何も無いのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る