2-5 馴れ合い

 皆が散開した後。アルベルトは再びトラックの後方に来ていた。

 トラックの荷台には、まだコンドルが乗ったまま幕がかけられている。

 だがアルベルトのコンドルは、いつ修理されるか分からない。稼働自体に問題はないものの、砲が大破した状態ではあまり戦いたいたくはないものだと思う。


 なぜアルベルトがここに来たのかといえば、周りに集まっている兵士たちの様子を見るためだ。まだ警戒レベルが高く、いつ出撃命令がかかるとも分からないからである。

 自室で待機していると、確実にキリが来る。その前に逃げようと思ったというのも理由の一つでもある。


 うまい具合に、トラックの向こうから『少尉』だの『女』だのという単語を拾うことができた。この中隊で少尉といえばアルベルトしかいない。

 早足で近づき、助手席側のドア前に立った。


「今、俺の話をしていたな?」

「少尉っ!?」

 地面に腰を下ろしていた三人の兵士たちは立ち上がり、背筋を伸ばし敬礼する。汚れている尻を払う余裕すらなかったようだ。


 年はアルベルトよりも少しだけ若く、十代後半か二十代入り立ての者達ばかりだった。士官学校を出たアルベルトと違い、中学卒あたりから軍に来たはずである。

 士官学校に限らず大学出なら、少尉から始めることができる。


 三人は、いたずらをしていたところを見られたような子どものように、ばつの悪い顔だ。

 アルベルトとしても学生時代、先輩の話をしているところに当人に現れられたときには気まずかったものだと当時を思い出す。だが、やる側になってみて初めて面白いことが分かった。

 笑いたい衝動を顔面に伝えることを必死でこらえながら、アルベルトは続ける。


「とりあえず俺のことはいい。さっき皆にも紹介したが、あのキリ=フィレシェットのことをどう思う?」

 単刀直入に聞く。本当はキリが余計なことを言っていた影響を、アルベルトとしては一番知りたいところだったが。

 もっとも、兵士たちにとって上官相手には答えにくいのかもしれない。


「少尉。よろしいですか?」

 手を上げたのはゴードンだった。目をやり、先をうながす。

「あの娘が本当にフィレシェットなのでしょうか?」

「間違いない。俺がこの目で見た」

「では、幻影戦車ファントム・パンツァーはどこにあるのでしょうか?」


 兵士にとって、やはり最初に出てくる疑問はそこだろうとアルベルトはうなずく。

 とは言え、キリが自分からフィレシェットと名乗ったこととは違い、幻影戦車ファントム・パンツァーについては明かしていいかどうかは分からない。


「近くにいる、とだけ言っておこう。それ以上は俺の口からは言えないな」

 聞いた彼らの顔が不安そうに曇るのを見て、ただし、と言葉を継ぐ。


「急に現れることはあっても、そのときは味方だ。それは俺が保証しよう」

 兵たちは目配せをしあっているが、アルベルトの断言に真っ向から異を唱えようとはしないようである。


「では、あのフィレシェット、さんと、少尉殿はどういうご関係なのでしょう? 親しげだとお見受けしたのですが」

 別の兵が質問する。こちらはゴードンよりも若い。


 アルベルトはあごに手をやった。まさか『拾われた犬』のような関係などとは口が裂けても言えない。とは言え、恋人関係などという風評はできればここで断ち切りたい。


「俺とキリとはお前たちが思っているような関係じゃない。あいつは軍隊、というより階級が嫌いなだけだ。あの呼び方にも深い意味はないだろう」

「では、フィレシェットさんと少尉とは……」

「将軍の命令でここまで連れてきた。それだけだ。それから、あいつのことはフィレシェットではなくキリと呼んでやれ。多分、本人も喜ぶだろう」

 そう言ったとき、不思議と腹部の鈍痛がぶり返したような気がした。前に、キリに起こされた時に肘をもらった部分だ。


「では、我々にもチャンスがあるということなのでしょうか?」

「チャンス?」

「はい」

 うなずく面々を、腹をさすりながら見る。やがて、

「やめておけ」

 なぜ自然と口からそんな言葉が出てきたのか、アルベルトは自分でも分からなかった。

「なぜでありましょうか?」

 一番若い兵が食い下がる。確か、車の整備をしている兵だ。


「あいつをよく見ろ。体型なんて子どもだろ? どこがいいのか俺には全く分からん。それに乱暴でがさつだ。すぐに手を出してくる」

「そうなんですか」

 早口になったアルベルトに、皆の頬が引きつる。ゴードンなどは青ざめてさえいる。

 よく分からない反応の意味を察することなく、アルベルトは先を続ける。


「あれならまだ、獅子の方が可愛げがある」

「アル。それはどういう意味かしら?」

 背に固いものが押し当てられ、事態が容易ならざる所にまで行き着いていることにようやく気づかされる。


 目を横にずらし助手席側のフロントガラスを見ると、アルベルトの背後に立つキリの姿がうっすらと確認できた。

 その手にしているものも。


「ずっと探してたのよ? アル」

「少尉! 我々は失礼してもよろしいでしょうか?」

 ゴードンが大声で言う。しかし、許可を与える言葉を発するだけでも命に関わりかねない。

 背伸びしたらしいキリの息が耳元にかかったかと思うと。


「アルのバカ!」

 鼓膜を直撃する女性特有の甲高い怒声を浴びせられる。そして、キリはどこかへ走り去ってしまっていた。

 その後ろ姿を呆然と見つめるアルベルトと三人の兵がその場に取り残される。


 アルベルトは鼻をかきながら何か言おうとしたが、場は微妙な空気に包まれていた。

 新しい話題を切り出すのに、しばらくの時間を必要とした。



 夕方。

 乱暴にブリキのバケツを叩く音でアルベルトは目覚めた。

 食事の合図だ。


 幸いなことに、前に立ち寄った村と同じで、ここではテントではなく宿舎が与えられることになっていた。民家を接収できるというのは、かなり大きい。

 もっとも、ベッドも部屋も人数分ちょうどあるわけなどなく、アルベルトが上半身を起こしているのは野営時に使う折りたたみ仮設ベッドだ。


 ちなみに、中隊内で一人部屋なのはオズマとキリだけらしい。無用のトラブルを防ぐためには妥当なところだろう。

 もっとも、キリはアルベルトとの相部屋を希望するという非常に困ることをしてくれたのだが。


「行くぜ、アルちゃん」

 そう言ってブレストが部屋から出ていく。覚悟していたとはいえ、あまり気分のいいことではない。

 目指すのはエース。女とじゃれ合う気も時間もないのだ。

 と、今はそういうことにしておく。


 同僚であり階級が下のブレストからもこの仕打ちということは、兵士からは面と向かっては言われないまでも、『アル少尉』ぐらいに呼ばれているのは想像に難くない。

 ため息を一つついてから、アルベルトは重い腰を上げた。


 食事をとるところはすぐ分かる。この民家から出てすぐ、天幕のある兵士たちが集まっているところだ。

 同じところで、同じ食事をとる。兵士も士官も関係なく。

 これがグレイゴースト中隊の不文律だ。


 しかし、なにやら今日は静かに思える。

 飯というものは、娯楽が極端に少ない前線において、心休まる数少ないとき。自然と口もゆるみ、いろんな話が飛び交うものなのだが。


「何かあったのか?」

「いや、まあ……」

 最後尾にいたゴードンは、変な笑みを浮かべて列の先を指した。


 そこには、深い皿にスープをよそう者の姿があったのだが。

 白いエプロンをつけ、同じく白いスカーフのような物で長い髪をまとめたその姿は。


「キリ?」

「ええ、そうなんです」

「それがどうしてこんな葬式みたいなことになる?」

「多分、少尉が……」

「俺がどうした?」

「行ってみられれば分かるかと」


 首をかしげながら、アルベルトはキリに近づく。

 そして、ようやくゴードンの言った意味が分かった。

 終始無言なのだ。皿を取ってからスープを入れ、それを渡すという一連の動作で。


 普通なら、上品とは言えない冗談の混じった軽口、量が少ないとかいう文句などが交わされるものなのだが。キリの冷徹なまでの無表情がそれを拒んでいる。


 その上、これみよがしに銃を背負った状態というのも一因だろう。

 AK74カラシニコフ。紛争地ではメジャーな銃だ。

 普通、警備の者を除いて基地内では銃を持たないことになっている。キリの場合、没収するだけ無駄なので持たせているのだが。


 一緒に給仕をしているジャンが大きな体を縮めてしまっているようでは、どうにもしようがない。

 こういう場面で殺気を出すというのも、ある意味芸当なのかもしれないが。

 アルベルトはずかずかと列の前まで進む。


「すまん。ちょっとキリこいつを借りるぞ」

 横のジャンに許可を求めると、ホッとしたような顔で何度もうなずく。

 だが、

「どうして? これが終わってからじゃダメなの?」

 話しながらも、目の前の椀に機械的によそいながら、キリ。


「それじゃ手遅れだ」

「手遅れ? 仕方ないわね」

 オタマを置いて、アルベルトについて行く。


「一体あれは何だ?」

 トラックの陰、普通に声を出しても皆には聞こえないような所まで連れ出してから、アルベルトは訊ねる。


「あれって?」

「ついさっきまで、お前があそこでしていたことだ」

「給仕だけど?」

「それくらいは分かる」


 とぼけているのか天然なのか。真剣な目からは前者には見えないが。

 アルベルトは学生時代に雑貨屋でアルバイトをしたことがあるが、キリのような接客態度なら間違いなくクビだ。


「給仕ってのはサービスだ。ただ皿に盛ってればそれでいいというわけじゃない。

 プーマじゃ、こんなこともしないのか?」

「したことぐらいあるわよ。

 プーマでは主に小麦粉が配給される。それを個人で調理するの。

 あたしは単独行動が多かったけど、一緒に食べるときぐらいは配膳したことはあるわ。それがどうかした?」

 どうやら、問題は文化の違いではないようだ。


「もしかしてさっきのこと、怒ってるのか?」

「当たり前でしょう?」

 と、キリは細い腰に手を当てる。アルベルトはため息をついた。


「さっきのことは謝る。俺も言いすぎた」

「でも、あれがアルの本心なんでしょう?」

 言われ、アルベルトは返事に詰まる。

 『なぜだか分からないが口が勝手に動いていた』では通用しないだろう。だが。


「いい加減にしろ。謝ったから、もういいだろう?」

「ダメ。誠意が足りない!」

「あんなところで、何を言えば良いっていうんだ。間違っても褒められるわけがないだろう。それくらい分かれ!」


 ついにアルベルトは髪をかきむしる。まるで価値観の合わない相手との会話は、精神的にかなり疲れると思い知らされる。

「なるほど、ね」

 キリの眉間からシワが消えた。


「じゃあ、こうしましょう。あたしを獅子以外の何かに例えること。うまくできたら許してあげる」

 前にかがむようにして首を前に出し、下からアルベルトに細くした目で見上げる。

 何か……。

 アルベルトは少しだけ間をおいて口を開く。


「キリ、お前は……」

 首を縦に二度振り、キリは期待の大きさを示してくる。


「子熊みたいで可愛い」

 肩から崩れ落ちた。


「大丈夫か?」

「アル。何か例えるものが間違ってない?」

「熊は嫌いなのか?」

「悪くはないけど、強さは獅子とあんまり……。

 まあ、アルにしては頑張ったから許してあげる」

 と、キリは顔をほころばせる。


「それだ!」

「それって何?」

 いぶかしがるキリに、そうじゃないとアルベルトは言う。


「今、笑っただろう? その表情を崩さず、戻って給仕をするんだ」

「いきなり話を戻すのね。まあいいわ。こうやって笑ってればいいのね?」

「そう。それでいい。あと、銃は消しておけ。基地内にゲリラはいない」

「了解」

 言うと同時に銃が消える。何度見ても器用なものだ。


「用はそれだけだ。頑張ってくれ」

「言われなくても」

 キリはアルベルトに背を向け、スープの方へ走っていく。

 これでなんとか機嫌も直ったに違いない。

 世話が焼けると思いながら、アルベルトも列に並び直すため戻る。


 はたして、アルベルトがスープを受け取るまではなんとかキリの笑顔は保っていたらしい。もっとも、無言で差し出すという行為は変わらなかったが。

 それでも、銃と殺気がなくなった分は進歩したと言えるだろう。


 天幕の下は微妙な空気だった。キリをフィレシェットとして見るか、それとも女として見るか、くっきり二つに別れているように感じられた。


 全員に配り終えた後。周りの雰囲気を気にするそぶりすら見せず、キリは当然のようにアルベルトの横に座る。

 この基地内で、唯一、女性と同席できるという特権だ。

 だが、アルベルトにとってはあまりうれしいものではない。キリを異性として認識できるかと言えば、微妙なところだ。


 なにぶん、見た目からしても幼いだろうから、というのが主だった理由だろう。そんな風にアルベルトは自分を分析していた。

 そもそも愛称で人を呼ぶところなどは、少し苦手だ。


「ねぇ、アル。年っていくつだっけ?」

「俺のか? ……今年で二十四だ」

「じゃあ、今まで結構戦ってきたの?」

「いや。実戦に参加したのは最近だ」


 パイロットとして士官学校を卒業。

 一年ほどは後方基地で訓練を行いながら警備などを担当し、モブロフとの戦闘が始まったために前線に投入されたわけだ。

 ゲリラごときに高価なAWVを使うのはもったいない、というのが理由ではある。しかしAWV否定派の横槍というのも、あり得る話であった。


「じゃあ、あたしの方が先輩なのね」

「そうみたいだな」

 あまり気のないふうにアルベルト。年数などというものを張り合うつもりはない。

 だが。


「そういえば、お前はいくつなんだ?」

「気になる? やっぱり?」

「……いや、別にそこまで……」

「あたしは十六よ。

 なぜかすましたように、背筋を伸ばしてキリは言う。


「多分?」

「サバを読んでるわけじゃないわよ?

 モブロフだと孤児だったから、大体の年齢しか分からないの」

「確かモブロフに居たとか言ってたな。

 あそこってどんなところだ?」

「……そうね。孤児院の中と町は知ってるけど。この国のマルスって町の方が、よっぽど大きくて楽しいかな。

 あとは軍の施設しか知らないから」


「そうか。すまんな」

「いいえ。あたしこそ、気の利いたこと知らなくて。

 アルは外国に興味あるの?」

「外国にというより、敵国に、だ。

 俺はあまりにもものを知らないからな」

「お固いのね。もっと気楽に。気晴らしに行ってみたいとか。

 そういうことは考えないの?」

「この国が平和になるか、俺が定年で除隊するか。どっちにしろ、暇と金に余裕があったら考えてみるよ」

 めんどくさい気持ちと一緒に、アルベルトはパンを飲み込む。


「そんな先じゃなくって。ほら、昨日ロボット撃破したじゃない。あれで特別に休暇とか報酬とかもらえないの?」

「撃破?」

 少し高い声を上げたかと思うと、アルベルトは顔を伏せ眉間を中指で押さえた。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」


 口ではそう言ったものの。大事なことを忘れていたことに今、気付かされた。

 それは報告書の提出だ。これは当日の行動記録のみならず、戦果の記録にもなる。その場に居合わせた兵たちの記録をまとめ、実際の戦果が計上されるのである。


 報告書は中隊レベルで作成されるが、今回は戦闘に参加したのはジャンとアルベルトだけだ。上官に当たるアルベルトが、取りまとめをしないといけない。


 これは、昇進に重要な影響を与える資料となる。ただでさえ評価判定は遅いのに、今回のように複雑な場合はなおさら急がなければならない。


 立とうしたアルベルトの袖を、キリは引っ張って止める。

「どこ行くの?」

「仕事だ」

 ぶっきらぼうに言うと、キリの手をふりほどき食器を持って立ち上がる。そのまま、返却台の方へ持って行く。


 キリはアルベルトを追おうとしたが、イスにつまずき足がつっかえたようだ。そこに、先ほどから機会をうかがっていた数名が、アルベルトとの間に割り込むかのようにキリの前に現れる。


「あたしに何か用?」

「これです」

 気丈に面々を見渡すキリに、ゴードンがカメラを取り出してみせる。


「あたしに撮って欲しいと?」

「いえ、ちがいますよ。キリさんに俺らと一緒に映って欲しいんで」

「あたしが映る? それになんの意味があるの? あ、ちょっとアル。これってどういう事?」

「いいから映ってやれよ。さっきの笑顔を忘れずにな」


 様子を見に戻ってきたアルベルトは、そう言ってやる。ゴードンはちゃんとアルベルトの意向をくんでくれたようだ。

 写真を撮るということも、娯楽としては人気がある。特にこの禁欲的な空間では、キリは格好の被写体に違いない。


「待ってよ、アル!」

「じっとしてやれって。でないとブレるだろ?」

 アルベルトは高らかに笑いながらキリに背を向け、手を上げる。キリはよく状況を分かっていないようだが、隊に溶け込むには格好の機会だ。


「アル。もう! 分かったわよ。分かったから! でも、あたしにさわったら撃つからね!?」

 物騒な言葉が聞こえてくるが、腹をくくったようだ。

 宣言通りにキリには身を守るための力を十二分に持っている。多分、使ったりはしないだろうが。


「はーい。キリさん。目線こっちに」

「プリーズ、スマイル」

「次は俺と映ってくれ!」

「いや、俺だ!」


 シャッターの切られる音を縫うように、あさましい男どもの声が聞こえてくる。これが中隊のあるべき姿というものだ。

 だが、キリを囲む兵たちを見て、心の中に妙なモヤが生まれるのを感じる。その正体が何なのか、アルベルトには分からなかった。


 その後、部屋で報告書のまとめに入ったのだが、撮影を終えたキリがまとわりついてきたため、消灯時間になっても書き終えることは出来なかった。



 事務用のデスクにも似た金属製の青い机には、三台の薄型モニタが乗っかっていた。一番右側のモニタは、黒をバックに緑の文字列が目にも止まらぬ早さで下から上に流れている。こまやかな振動が、モニタを揺らしていた。


 それを前にし、白衣の男がキーボードを叩いている。

 今やっているのは、ソースコードのチェックだ。新しく組み込んだ部分が正しいか、目で文字を追っている。

 にやついたまま作業ができるというのは、心底、楽しんでやってからなのだろう。


 やがて全箇所を見終わった後、エンターキーを叩く。

 すると、左の画面にも文字が流れ始めた。中央のモニタには3Dの三角錐が現れ、頂点を中心とし色を様々に変えながら横転を始めている。


 しばらく満足げにそれを眺めた後、足元にあるタワー型のパソコン本体から光ディスクを取り出した。

 これは業務用ではなくホームユース用だ。だが、スパコン並みの性能は必要ない。

 最近では中央演算装置が複数個積まれており、市販品のパソコンでも十分なのだ。


 男に助手はいない。研究についてこられる程の頭脳を持つのは彼自身しかいないからだ。

 と本人は言っているが、彼と折り合いのつく人間は滅多に居ないというのが正しいところである。


 ディスクをケースに入れ、男が立ちあがったときに部屋全体が跳ねた。おそらく石でも踏んだのだろう。男はあごの無精ひげをなでる。


「やっぱり舗装されていない道路は嫌ですね」

 男の感想はそんな程度だ。コンピュータを始め各設備は固定されており、多少の振動でどうこうなるものではない。ディスクを入れる場所にしても、しきりのある金属の棚の中である。


 この移動研究所はトラックのコンテナを改造し、キャンピングカーのようにしたもの。天井こそ低いが、幅は両手を広げてもまだ余裕はあるし、入り口から見たときに一番奥に置いてあるモニタに映るウインドウが、何のウインドウか判別できないぐらいに遠くにある。


 紙媒体をまるで使わない男にとっては、生活をしてパソコンをいじるには十二分なスペースがある。

 こういうものを作ってまで、研究する気に溢れているのだ。


 やっていることといえば、過去のデータ解析から得られた情報を利用した新製品の開発。重要な情報源であるフィレシェットがいないため、新しいデータでの研究はできないのだ。


 それも、もうすぐ解決する。この研究さえうまくいけば。


「後は君だけです。愛していますよ、フィレシェット」

 男はコーヒーポットからカップに黒い液体を注いだ。そして、ぼんやりと灰色の天井を見つめる。

 そこにはニコリともしていないキリのバストアップ写真が、大きく引き伸ばされて貼られてあった。

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