35「この手にかける」

 俺が手を触れると、止まった世界の中でアリスだけが動き出した。

 彼女は突然、目の前に俺が来ていたことに驚く。

 二、三歩後ずさり、辺りを見回して。

 俺以外のすべてのものが動きを止めている異常に気付いたのだろう。

 悲しさよりも戸惑いが勝ったのか、すすり泣く声を止めていた。

 恐る恐る尋ねてくる。


「どうなってるの? それに、あの男は……?」

「あいつは殺した」


 ぴくりと彼女の眉が動いた。


「今は俺の力で時間を止めている。苦しくないだろう」


 君を苦しめている技の効果も、今は止めている。

 普通に話ができる状態のはずだ。

 彼女は自分の身体を確かめるように抱き締めた。


「熱さが消えてる」

「この場で動けるのは、俺と君だけだ」


 君を動けるようにしたのは。言葉だけは伝えておきたかったからだ。

 だがいざとなって、それを口にするのは躊躇われた。

 アリスはそんな俺の様子をじっと窺い、真っ直ぐ瞳を覗き込んでくる。

 今も時間停止を維持するために、心の力を解放したままだ。

 全身はどす黒いオーラに包まれている。

 この状態の俺に向き合うのは、怖いだろうに。

 彼女は一度何かを振り払うように首を振り、毅然として俺に歩み寄る。


「言って。言いたいこと、あるんでしょ?」

「……すまない。君を助けられなかった」


 やっぱりという顔で、彼女は暗く視線を落とす。

 ヴィッターヴァイツの口から、既に自分の運命を聞かされていたからだろうか。

 取り乱すことはしなかった。


「もう一度時が動き出せば――君は死ぬ。世界を巻き込んで」


 言いながら、自分でもひどく声の調子が冷たいことに気付いていた。


「それで……どうするの?」


 尋ねる形ではあったが、彼女にはもうわかっているはずだ。

 俺は告げた。


「俺は。君を殺さなくちゃならない」


 一度発動した奴の技は、もう俺にも止めることはできない。

 そしてこのまま時間が動き出せば。

 彼女は最も不幸な形で死を迎えることになる。この世界を道連れにして。

 それを止められるのは俺しかいない。今この場で君を殺せるのは俺しかいない。

 だから。俺は……俺は……。

 左手をゆっくりと上げて、彼女に向ける。

 そうして、見つめ合った。

 あとは、この手にほんの少し力を込めるだけで。終わる。

 アリスは黙って俺を見つめている。俺の決断を待っている。

 今にも泣き喚いてもおかしくないほど、恐ろしいはずなのに。

 死ぬんだぞ。

 強い人だ。君は。本当に。

 なのに、俺は……。


 ――何をしている。いつまでも躊躇っていてどうする。


 アリスは強がっているだけだ。肩が震えている。

 本当は怖いんだ。当たり前じゃないか。


 ――やれよ。やらなければいけないんだ。


 アリスを。君を。


 俺は……。


 アリスは目を瞑り、深く溜め息を吐いた。

 再び目を開けたとき、彼女はもう俺に恐れを向けてはいなかった。憎しみの気持ちもなかった。

 彼女はふっと穏やかな表情を浮かべて。さらにもう一歩踏み込んできたのだ。

 身体が触れそうな距離にまで。

 困惑する俺の左手を、温かく包み込んで。

 そして、微笑んだ。


「手、震えてるよ」


 自分でもまったく気付かなかった。

 あっと口を開けた俺の頬に、彼女の手がそっと触れる。


「ユウは。やっぱりあたしの思った通りの人だった」


 まだ微笑んでいる。

 君はなぜ、そんな顔を――。


「わかってる。ほんとは繊細で、打たれ弱くて、優しい人」

「そんなこと」

「だって。ずっと泣きそうな顔してる」


 ああ。どうして君は。

 そんなにも。真っ直ぐ俺の心に入り込んでくるんだ。

 こんなときにも。土足でずかずかと。

 抑えようとしていたのに。押し殺そうとしていたのに。

 ダメだよ。そんなこと。

 手が震えて、狙いが定められない。

 アリス。

 俺の頬を撫でるのは、憎悪に泣き咽ぶ無力な少女ではなかった。

 いつも俺とミリアの側で笑ってくれた君だ。君がそこにいる。


 …………。


 君は結局。どこまでいっても、俺を突き放してはくれなかったんだな。


 君だけじゃない。みんなそうだ。

 救いようもない馬鹿だよ。

 俺なんか、恐れてくれればよかったのに。憎んでくれればよかったのに。

 放っておいてくれればよかったのに。


 目の奥から、熱いものが込み上げてくる。

 まただ。もう隠す気にもなれなかった。

 震える手は、もう彼女を傷付けることができなかった。

 代わりに、強く抱き締めていた。

 情けなく縋り付いて、込み上げる熱いものをそのままぶつけていた。


「俺は……俺はっ……!」


 アリスも背中に腕を回して、抱擁を受け止める。

 俺は絞り出すように、嗚咽を上げていた。


「みんなを、助けたかったんだ……」

「うん」

「助けたかった。君も。ミリアも。イネアも。アーガスも。カルラも……!」

「うん」


 自分より一回り小さく、か弱い身体。

 今は感じる彼女の温もりが。こんなにも儚い。


「敵わなかったっ……! 犠牲は仕方ないって……割り切るしか……!」

「うん」


 この腕を離せば、永遠に消えてなくなってしまう。

 誰もいなくなる。


「この町、だって……本当はっ……!」

「うん」


 怖い。嫌だ。

 こんな苦しみを、どうしてまた味わわなければならない!


「みんな。大切な仲間だった……友達だった……!」

「やっと友達って言ってくれたね」


 はっと顔を上げた俺に。

 アリスは目にいっぱいの涙を溜めて。

 切なげに笑った。


「嬉しい」


 彼女は目をこすって、腕を引き離した。

 戸惑う俺に、心から優しく言ってくれる。


「もういいよ。十分だよ」


 その先はわかる。聞きたくない。

 だが君は。

 自分の胸に手を当てて、言った。


「あたしを、殺して」


 不意に、あのときのことが脳裏に被る。

 自ら命を差し出すことが、どれほど悔しいことか。

 彼女には未来があった。君にもそれがあったはずだ。

 本当なら、みんなと歩む明るい未来があったはずだ。

 それを、俺が奪ってしまった。これから奪ってしまう。

 だが。

 君の言葉を聞いて、不思議と決意は固まった。

 同じことだ。あのときと同じことをするだけだと。

 言い聞かせる。

 これ以上、君を苦しませてはいけない。

 俺の優柔不断に、付き合わせてはいけない。


「綺麗だね」


 アリスの視線を追って振り返ると、悠然と空に浮かぶ美しい島が映った。

 エデルの姿だ。

 あんなもののために。どれほどの者が犠牲になったのか。

 でも……確かに綺麗だった。憎たらしいほどに綺麗だった。


 ――そうだ。奴が言っていた究極の時空魔法。


《クロルエンダー》


 与太話にしか思えない。

 しかしそんなものが本当にあるならば。今は心から縋りたい気分だった。


「なあ。もし違う未来があるとしたら……どうしたい?」


 突然そんなことを聞いたのが、不思議だったのだろう。

 アリスは首を傾げたが、答えてくれた。


「そうね……。お願い。もし違う未来があるなら、みんなを幸せにしてあげて」

「ああ。わかった。約束だ」


 仮にそんなものが本当にあって、過去を変えられたとしても。

 君たちを救えなかった事実に変わりはない。

 それでも。もしそんな素敵な未来があるならば。

 違う運命があるならば。そう願わずにはいられなかった。


 意を決して、もう一度手をかざす。

 ずっと手は震えていた。


「アリス。君が友達で、本当に良かった」

「あたしもよ。ユウ」


 俺は無理に笑った。アリスも笑顔を返す。


 ――せめて。苦しむことのないように。


「ごめんな」


 俺は、アリスをこの手にかけた。

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