2「ユウ、旅を始める」

 アルーンという巨大鳥に乗せてもらって、風を切って空を駆けて行く。

 しきりに頬を叩く上空の空気はひんやりと冷たく、しっかり着込んでいても肌寒く感じるほどだった。

 目の前でこの鳥を操っている赤髪の少女は、ふとこちらへ振り向くと。

 右手の人差し指と中指、二本の指を合わせて伸ばし、差し出してきた。


「あたしはアリス。アリス・ラックインよ。よかったらあなたの名前も教えてくれない?」

「……ユウ」


 別に名字までは名乗らなくてもいいだろう。この世界だと浮きそうだしな。

 アリスはややしばらくにこにこと二本指を突き出していたが、もしやここの挨拶か何かなのだろうか。

 確信が持てなかった俺がいつまでも応じようとしなかったので、彼女は少し寂しそうにすごすごと指を引っ込めた。

 代わりに、愛想笑いを浮かべて言ってくる。


「何だか女の子みたいな名前ね」

「実際女にもよく付けられる名前だよ」


 確か優れた子供に育つようにって付けられたんだったかな。まあ名前なんてどうでも良いことだけど。


「へえ。偶然だけど、あなたも結構な女顔よね。もし女の子だったらちやほやされそう」

「それらしい変装をすれば、女に見えなくもないだろうね」


 仕事を終えて逃げる途中、女装して追手の目を誤魔化したこともあったな。


「…………」

「…………」


 それから、会話が続かなかった。

 年は近そうだけど、共通の話題もない初対面の異性ではそうそう話すことも見つからない。

 単にこんな俺だから話しかけにくいだけなのかもしれないが。

 ところで、さっきからどうにも気になる点があった。

 それは、この子の言葉がなぜか普通にわかるということだ。

 彼女が話す言葉が勝手に日本語になって聞こえてくるし、俺が話した言葉も普通に通じているらしい。

 まさか、異世界でも日本語が使われているということもないだろうし。

 これがエーナが言っていた、フェバルとかいう奴の能力の一端なのだろうか。

 一体、どうなってるんだろうな。

 試しだ。頭の中で想定している言語を英語に切り替えてみる。

 やがて、彼女は気が付いたように言ってきた。


「Now, don't you feel cold?(ところであなた、寒くないかしら?)」


 なるほど。どうやら自分が考えている通りの言語に自動で翻訳されているらしい。

 逆に自分が英語で言っても通じるのだろうか。


「Well, I'm feeling a little.(まあ少し寒いかな)」


 と言ってから、すぐに想定を日本語に戻す。


「やっぱり。その恰好じゃそうだと思ったわ」


 黒ずくめのジャージとベストに身を固めた俺を見回して、アリスはうんうんと頷いた。

 この服装は日本の秋空には快適なものだったが、さすがに寒空の旅には心許ない。

 彼女は最初から空を行くための服装をしており、もこもこした厚着をしていた。ピンクのマフラーがチャームポイントだ。

 ともかく、通じている。自分が発した言葉も勝手に翻訳されて伝わっているようだ。

 そこで彼女は、俺の思ってもいなかった台詞を発したのだった。


「あたし、これでも火魔法が得意なのよ。温めてあげるわね」

「火魔法?」


 魔法だと。

 驚く間もなく、彼女は俺に手をかざして、いかにも物々しい口調で宣言した。


「熱よ。かの者を凍てつく冷気より遠ざけん。《ボルエイク》」


 瞬間、嘘のように肌寒さが消え失せてしまった。温かい空気の膜が身を包んでいる。

 さすがに驚きを隠し切れず、俺は尋ねた。


「一体何をやったんだ?」


 彼女は誰がどう贔屓目に見てもぺったんこな胸を、えっへんと得意気に張った。


「魔法だってば。……って、なによその微妙な反応。まさか、魔法を知らないの?」

「ああ。知らない」


 概念としてなら知ってるが、実際のものとして当然俺はそんなものなど見たこともない。

 よほど意外だったのか、彼女はきょとんとして俺の目を見つめた。


「今時そんな人、初めて見たわ。あたしね。これからサークリス魔法学校って有名な所に入学する予定の魔法使いの卵なの」

「へえ。魔法、ね」


 まさかそんな言葉をさも当たり前のように真顔で言われる日が来るとは思わなかったな。

 俺の驚きを感心したものと受け取ったのか、彼女はすっかり気分を良くしたようだ。

 再び明るい顔になって、続ける。


「さっきユウにかけたのはとっても地味なやつだけど、例えばこんなこともできるわよ」


 火球よ。《ボルケット》


 彼女の掌から拳大の火球が生じた。

 それはかなりのスピードで飛び出して、空の向こうへと真っ直ぐ飛んでいった。

 俺は目を丸くした。

 何もない所から、火が生じた。

 そんなものをまざまざと見せつけられてしまうと、もう疑いようがなかった。

 この世界には、魔法と呼ばれる超常的な力が確かに存在するようだ。

 言葉を失っていた俺に、彼女はドヤ顔で微笑みかけてきた。


「ま、こんなものよ。すごいでしょ」


 ――面白い。


 俺はここ数年で初めて、心の奥底からそんな感情が湧き上がってくるのを感じていた。

 異世界。ここにはまるで俺の知らない世界が広がっている。

 下らない世の中だと思っていた。何もないと思っていた。

 皮肉な笑みが漏れる。

 世の中だと。この歳で何を知った気になっていたんだ。

 宇宙はこんなにも広くて。世界はこんなにも未知に満ちていて。

 星の数だけあるというんだ。こんなことが。素晴らしいじゃないか。


 ふと、エーナの言っていた言葉が過ぎる。

 あらゆる世界情報を『心の世界』に完全記憶し、そのすべてを利用できる。

 本当ならば――やってみるか。

 らしくもなく、俺は人を疑いなく信じてみる気になった。


 目を瞑ると、今や夢に出てきていた自分の『心の世界』なるものをはっきりと認識することができた。

 真っ暗闇の宇宙のような空間には、溜め込んだあらゆる世界情報が混沌としたままで満ちている。

 それらの情報を利用するためには、使う情報を個別に認識してやれば良い。

 やり方は、どうしてか何となくわかった。

 いや、最初から知っていた。自分があのとき何をしたのかが、ただはっきりしただけだ。


 そうだったな。未熟な俺はこの力を暴走させて、親戚共を殺してしまったんだったな。

 ……もう過ぎてしまったことだ。どうしようもない。


 とにかく力を使うためには、記憶を引き寄せて、そこから使うべき情報を取り出してやればいい。

 先ほどアリスが放った魔法の記憶を意識して念じてみると、真っ暗闇の中から、ふっと記憶のかけらが浮かび上がる。

 引き出された記憶は、淡く白い光を放っている。

 そいつに手を触れたとき――俺の中に、何とも言えない未知の力が湧き上がるのを感じた。

 全身をふわりと満たす温かな何か。

 それを外界に練り出してやれば、きっと魔法というものになるのだろう。

 何となくそう理解して、現実世界に意識を戻す。

 目を開けて、俺は未知なる力の赴くままにそれを解き放った。


《ボルケット》


 俺の掌から、火球が生じた。彼女が生成したものと寸分の違いもない。

 横目で見やると、今度はアリスがぎょっとする番だった。

 火球はイメージ通りの軌道で飛んで行き、空の果てへと消えていった。


「……できたな」


 自分でやっておきながら、夢でも見ているような心地でぽつりと呟いた俺に。

 アリスは仰天し頭を抱えて、喚き立てた。


「えー!? うそでしょ!? あれを一発で成功させるなんて……」


 よほどショックだったのか、その場にへたり込んでしまう。アルーンの背中にびっしりと生えている羽毛にぺたりと手をついている。

 そのまましばらく落ち込んでいるかと思いきや――もうほとんど次の瞬間にはすくっと立ち直って、勢い良くこちらの手を握ってきた。

 大袈裟なくらいに感激し、まるで我が事のように嬉しそうな顔で。


「あなた、すごい才能よ! 何も知らなかったのに、ちょっと見ただけで魔法を覚えちゃうなんて!」

「そ、そうか」


 やや気圧されてしまうが、彼女はさらにこう続ける。


「あなたもぜひサークリス魔法学校で学ぶべきよ! この才能を伸ばして活かさないのは勿体ないわ!」

「…………」


 俺は手にしたのだろう。世界という枠を、飛び越える力を。

 きっと誰もが一度は夢に描いては、そんなことはあり得ないと現実に投げ捨てた可能性を。

 そして俺は手にしたのだろう。

 世界という条理を覆すだけの恐ろしい力を。取り入れたあらゆる世界情報を支配する力を。

 代わりにきっと、俺は手にしてしまったのだろう。

 終わらない旅の運命を。死すら許されない呪われた運命を。

 これからの旅で、俺は次第に変わっていくのだろう。

 地球にいたままでは掴めなかった何かを、掴むことができるのかもしれない。そして代わりに何かを失っていくのかもしれない。

 この力があれば。この力があるゆえに。

 とにかく、始まってしまったんだ。俺の旅は。


 無邪気にはしゃぐアリスの横で、俺は静かに壮大な運命の始まりを感じていた。

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