#10-5 合同訓練
「嵐! 止めろ!」
緊迫とした空気の中で声を上げたのは優斗だ。
彼は嵐の無機質な瞳に空と似た空気を感じ、思わず声を上げていた。
嵐は動かない。声を上げる事もない。無機質な瞳は空から外れる事なく、じっと彼を見据えていた。
嵐の雰囲気があまりにも普段と異なっている。あそこにいるのは本当に嵐なのか疑いたくなるほどだ。
首に刀を押し当てられている空は、地面に寝ころんだまま、嵐を見つめている。やがて、口を開いたのは空の方だ。
「……なんで、とどめを刺さないの?」
静かな声で空は、そう尋ねる。しかし、嵐は何も答えない。
「さっきだって、僕のお腹に打ち込んだのは刀の峰だった。刃の方を向けていれば確実に僕に致命傷を与えられたでしょ? なんでそうしなかったの?」
やはり嵐は何も答えない。だが、彼は空の首に押し当てていた切っ先を引き、刀身を鞘に納める。
嵐は目を閉じて、静かに息を吐き出す。そして、再び目を開けた時には、先程までの冷たく無機質な雰囲気など完全に霧散していた。
「……なんで、とどめを刺さなかったかって? そんなの決まってるだろ。オレは退鬼師であって、人殺しじゃないからな!」
ニッと笑って見せた嵐の笑顔は何時もと同じで、優斗達は安堵の息をこぼした。
一方で嵐の言葉に空は一瞬だけ目を見張り、それから嘲りの笑みを浮かべる。
「綺麗事だね。偽善者の仲間もやっぱり偽善者か。退鬼師も人殺しも変わらないって言うのにさ」
「どういう意味だ?」
「ほほっ、本気を出していなかったとはいえ、
不意に響いたのはこの場にいる誰のものでもない第三者の声。
「誰!?」
謎の人物の声に反応して、警戒しながら周囲を見渡した彼等が目にしたのは、いつからそこにいたのか全く分からない程、気配なく優斗と花音の後ろに立っていた少女の姿。
いや、この目で少女を認識しても彼女の気配というものが全く感じられない。完全に周囲の気配と同化していた。
肩まで伸びた青空のように透き通った空色の髪をツーサイドアップにした小柄な、小動物を彷彿とさせる少女。彼女は、髪と同じ空色の目で静かに状況を観察していた。
まるで幽霊のようだ。誰もがそう感じて息を呑む。
少女は周囲の驚きに動じた様子なく、手にしているジャムパンをもぐもぐと食べている。その様子から先程の台詞は本当に少女が言ったものかと考えてしまう。先程聞こえてきた口調と眼前の少女の容貌があまりにも不釣り合いだったからだ。
「き、君は……」
「ふむ、名乗るほどのものではない。が、名を聞かれたのならば名乗らぬのも失礼というものか。よかろう、
食べていたジャムパンを租借し終えた後にキメ顔でそう名乗った珠洲だが、その頬にジャムが付いていなければもう少し緊張感というものがあっただろう。
「口にジャム付いてるぞ」
「む? これはかたじけない。失礼をした」
豪快に自らの制服で口元を拭う珠洲。袖にイチゴジャムがついてしまったが、珠洲はそれを気にした様子なく再びジャムパンにかじり付く。
何故だろうか。愛らしい容姿とは裏腹に口を開けば何とも残念なこの感じは。
彼女の独特な空気に気が抜けてしまう。しかし、彼女がこのタイミングで現れたというのは、どうしても嫌な考えが過ぎってしまう。
「き、君も俺達の事を殺しにきたのか?」
「む、可笑しな事を言うな少年。
「え……っと、つまり?」
「お
その言葉は優斗達だけに向けられたものではない。珠洲が現れてからは彼女から一回も目を離さない空に向けられたものでもある。
「そっちにその気がなくても、こっちはあんたも殺る気だったんだけど?」
「ふむ、中々に面白い冗談だな小童。まあ、そのボロボロの体で出来るものなら、やってみると良い」
一瞬だけ彼女が見せた威圧感。
その場にいた誰もが彼女から距離を取り、警戒の色を見せた。しかし、珠洲は先程の威圧感は何かの見間違いかと思える程、既に彼女の気配は静かで周囲と完全に同化していた。
背中に冷や汗が流れるのを感じながら、優斗は珠洲を見つめる。彼女は四方から向けられる視線を気にする事なく、懐から新しいパンを取り出し、その袋を破り、焼きそばパンを頬張った。
頬一杯に詰め込むその姿は、リスを彷彿とさせる。やはり、見た目と言動のギャップがどこまでも激しい子だった。
皆が呆気に取られていると珠洲の背後で、彼女を警戒していた嵐が何の前触れもなく倒れた。
「嵐!?」
地面に倒れてしまった嵐の元に焦って駆け寄る優斗達。そして、間近で見た嵐の姿に息を呑んだ。
体中のあちこちにつけられた傷から、止まることなく流れ続ける鮮血が地面を染める。呼吸も小さく、意識も完全にないようだった。
よくこんな状態で戦えたものだ。いや、そもそも利き手を貫かれて、よく刀を振るえたものだ。生きているのが不思議なくらい、嵐の体は傷付いていた。
「と、とにかくすぐ病院へ」
「我が運ぼう」
「その前に止血をしないと」
「とりあえず、傷口を凍らせますか?」
「ええっと、それって大丈夫なのかな?」
最早彼等の目には、地面に横たわっている空もただ傍観しているだけの珠洲の姿も映っていなかった。
「ふむ」
食していた焼きそばパンを食べ終えた珠洲は小さく頷き、自然な動作で嵐に近寄る。あまりにも自然すぎる動作に誰もが反応に遅れてしまう。
全員が反応するより早く、嵐の元にたどり着いた珠洲は彼の上で手を翳す。次の瞬間、嵐の全身が水の膜によって包まれた。
シャボン玉のように空中に浮いた球状の水の膜。
「なっ!?」
「貴様、何をした?」
「そう逸るものではない。お主等は些か視野が狭いの」
突然の事に戦闘態勢をとった晴達だが、肝心の珠洲は新たに取り出したおにぎりを頬張る。やはり緊張感がない。
「ほれ、小童も病院に行くと良い。未だ立ち上がれぬ所を見ると、骨が折れているか、
「余計なお世話だよ。あんたの施しは受けな……っ!」
言葉の途中で空も水の膜に包み込まれる。半透明な水の膜の中で、空は何か文句を言っているが、その声は聞こえない。
珠洲はおにぎりを租借しながら、軽く指を鳴らす。その瞬間、嵐と空を包んだ水の球体は忽然と姿を消した。
「何をしたんですか? 答えによっては、このまま撃ちますよ」
「おい、幸太郎!?」
嵐達が消えた事に驚く面々の中、幸太郎は珠洲の背後から彼女の頭に銃口を押しつけていた。
銃口を押しつけられているというのに珠洲は相変わらずおにぎりを食べたまま。そもそも、そのおにぎりも三個目だ。
「……若いな少年。なに心配するでない。彼奴等は森の入口に運ばせた。あの若造が病院に連れて行くであろう」
「な、なら、あの水の膜は何だ?」
「あの中は吾輩の領域だ。我輩は癒しの効果を宿した水を生成する事ができるからの。故に彼奴等の体を保護しながら病院まで連れていけるという訳だ。特にあの少年はああでもしなければ、病院に行く前にお陀仏だったであろう」
「つ、つまり、水無月さんは嵐くんを助けてくれたって事でいいのかな?」
「好きに解釈すると良い。そもそもの原因は、うちの小童の暴走によるものである。礼は不要だ」
やるべき事は全て済ましたとでも言いたげに背を向けて歩き出す珠洲。
「あ、ありがとう。嵐を助けてくれて」
そんな珠洲に声を掛けたのは優斗だった。
珠洲は、ピタリと足を止めて、肩越しに振り返る。
「礼は不要と言った筈だが?」
「そうだけど、俺が言いたかったんだ」
幾ら嵐を助けたとはいえ、それは自らのチームメイトの不始末を片付けただけ。珠洲は優斗にとって敵対すべき相手の筈なのに全く敵意のない笑顔で彼女にお礼を言ったのだ。
打算でもなんでもない彼自身の心からのお礼。珠洲はその笑顔にどこか眩しそうに目を細め、小さく笑う。
「……お主は変わらぬな」
「え?」
「気を付ける事だ。今回は小童が慢心していたから運良く勝ちを拾えたものの、彼奴は本来得意とする属性を使わなかった。本気で来られたら、お主等は全員殺されていたであろう。その事をゆめ忘れるな」
最後に忠告を口にして、彼女は今度こそ振り返らずに森の中に消えていった。
珠洲の姿が完全に見えなくなると誰もが知らず知らず息を吐き出す。そこで、ある違和感に気付いた。
彼女の気配が周囲に同化していたのではない。いつの間にか優斗達が彼女の領域に支配されていたのだという事に。
その事実に気付いた彼等は、小動物を彷彿とさせる小柄な少女の異常に肝を冷やすのだった。
◇◆
「何故アイツ等を助けた?」
森の中を自然な足取りで歩いていた珠洲は、木に寄りかかっていた少女に声を掛けられて、動きを止めた。
そこいたのは長い黒髪をポニーテールにした少女。白い肌というよりは青白い肌に痩せ細った手足。あまり健康的とはいえない……いや、不健康という言葉が当てはまる少女は、その不健康さを感じさせないほど強い憎しみを込めた漆黒の瞳で珠洲を睨みつけている。
「ふむ、
「白々しい。どうせ気付いていたんでしょ」
「ほっほっ、それは買い被りというものよ。吾輩は全能ではないからの。それよりも其方、顔色が悪いの。どうせまた何も食べておらぬのだろう。ほれ、パンをやろう」
懐からまだ封を開けていないパンを取り出して、差し出してきた珠洲を睨みつけるだけで、少女は受け取ろうとしない。
「いらない」
「ふむ、ならば、握り飯もあるぞ?」
「いらない」
「ふむ、ならば、菓子もあるぞ?」
「いらない」
「……其方とは分かり合えそうにないの。吾輩、食べるものがないと死んでしまうからの」
差し出していたパンの袋を開けて、自らそれを食す珠洲。
少女は、そんな彼女の姿を苛立った様子で睨みつける。
「質問に答えろ。何故アイツ等を助けた? 何の得があって動いた?」
「そんなものはありはせぬよ。吾輩は『ちーむめいと』の不始末を片付けただけの事。そも、其方が他人を気にかけるなど珍しい事もあるものよな。……のう、
一瞬にして、綾乃と呼ばれた少女から殺気が膨れ上がる。
そんな彼女に向かって、一体の鬼が上空からの突然の奇襲。しかし、鬼の姿が見えていた珠洲は声を上げて危険を知らせる事などしない。
綾乃は鬼を見る事なく、珠洲だけを睨みつけている。そして、鬼の鋭い爪が彼女の頭に触れる直前、鬼の体が闇に包まれた。
突然黒い固まりに包まれ、身動きがとれなくなった鬼は拘束から逃れようともがくが、そのまま闇は広がっていく。やがて、鬼は完全に闇に包まれ、そして闇は地面の中へと消えていった。
「相も変わらず恐ろしいのう。これ以上、其方を怒らせて吾輩も闇に堕とされたくないからのう。
そんな言葉と共に逃げようとした珠洲を綾乃は愛用の薙刀で一閃する。だが、確かに手応えがあった筈の珠洲の体は直ぐに水に変わってしまう。
「容易く吾輩を殺せると思うなよ、小娘。だが、この場所では些か分が悪い。宣言通り、退かせてもらうぞ」
「……逃がしたか」
既に珠洲の気配を感じなくなった森の中、綾乃は忌々しげに舌打ちをしたのだった。
こうして、波乱に満ちた合同訓練は終わりを告げた。
結果は『5-45』と圧倒的な差をつけて、壱伽達のチームの勝利だった。
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