第29話 近江匡の人生



 ※ ※ ※




「とりあえず謝らせてくれ。妹が面倒をやらかした。すまねぇ」


 初めに、遠山ヒズミと名乗った彼は、深く頭を下げてきた。


 深々と頭を下げるその姿はどう見ても龍光寺紗彩にしか見えず、それが別人であるといっても、誰も信じはしないだろう。

 ましてや、それが死した彼女の兄であると、誰が思うだろうか。



「なんつーか、不思議な気分だな」


 少女の姿を眺めながら、匡は聞いた。


「んーと。つまり、お前は本物の龍光寺比澄ってことで、いいんだよな?」

「おうよ。あと、出来ればその呼び方はやめてくれ。オレには、龍光寺の名で呼ばれる資格がない。ヒズミって呼んでほしい」


 何かこだわりがあるのだろうか。少なくとも、名前呼びをすることに抵抗はないので、匡はその頼みを快諾した。


 ヒズミは、興味深そうに、匡を観察する。


「いやあ、しっかし、アンタが近江匡ねぇ。ふぅん。なかなかどうして、鋭い感じだなぁおい。榎本が言うだけのことはあるわ」

「榎本はなんて言っていたんだ?」

「オレを倒せる、唯一の男だってよ」


 けひひ、と。

 ヒズミは可笑しそうに笑う。


「まあ、さっきの紗彩との戦いを見ていたら、あながち間違いでもなかったかもしれねぇな。少なくとも、勝利が分からない戦いは、出来たかもしんねェ」

「……紗彩ちゃんの記憶を、お前は持っているのか」

「おうよ。あー、そのあたりから説明した方がいいのか?」


 彼は頭をかきながら、整理するように言う。


「えっとだな。まあオレは、現実的な言葉に言い換えると解離性人格ってやつだな。あんま使われ過ぎてて野暮になってるから、この言葉は使いたくないんだけどよォ。どっちかってーと、念が憑りついた怨霊とでも思っていろよ。妹可愛さに、ずっと守ってんだ」

「おいおい。それじゃあ守護霊じゃねぇか。随分と、妹離れできない兄貴だな」

「はは。まあ、オレってば生前はシスコンで通ってたからな。実際、紗彩がオレの真似し始めた時も、大多数の人間は驚かなかったくらいだぜ?」


 そんなヒズミの軽口に少しだけ笑った後、匡は真剣な表情になって尋ねる。


「……紗彩ちゃんは、お前のことを知っているのか?」

「いんや。知らねェよ。オレの方はあいつの行動全部見てるし、多少関与できるけど、あいつ側は、オレのことを知りもしない」



 記憶の欠落はあったのだ。


 龍光寺紗彩の症状は、榎本が予想したよりもずっと重かった。

 解離性障害が、確固たる別人格を生むまでに深いということは、よほどの『乖離』が行われている証拠だ。



 匡はじっと、ヒズミに視線を向けながら言う。


「龍光寺晴孝が言っていたのは、お前のことか?」

「いや。晴孝さんが除霊しようとしていたのは、紗彩の演技人格の方だよ。オレじゃない。そもそも、オレはあの人の前に出なかったからな」



 もし出たら、一発でばれただろうから、とヒズミは言った。



「晴孝さんが躍起になって紗彩を治療しようとしたのは、一人娘が死んだ男の真似を必死で続けているのが、見ていて痛々しかったからだよ。まさかそのために、榎本まで呼び出すとは思わなかったがな。あの人にとっても、オレの死はショックだったみたいだから、オレが出てやったら、ちったぁ喜んでくれたかもしんねェけど。さすがに合わす顔がなかった」

「榎本の前に、極力出ないようにしてたのも、それが理由か」

「あー。そっちはちっと違う。アレは何つーか、オレの方の未練だ。だってほら」


 そこで、ヒズミはにやりと笑って言う。


「あいつ、いい女じゃん?」

「……くく。そりゃ、いい理由だ」



 そこで、匡は本格的に目の前の存在を龍光寺紗彩から切り離した。



 龍光寺比澄。

 いや、遠山ヒズミと名乗る単一の人間として、接することに決めた。



「お前、おれを探していたんだってな」


 匡は探りを入れるように、彼に向けて言った。


「奇遇にも、おれも龍光寺比澄を探してここに来たんだよ。まあ、その結果見つけたのは偽物で、肩透かしを食らったところなんだがな」

「そこはまあ、勘弁してやってくれ。紗彩だって、まさかお前みたいな化け物が出てくるとは思ってなかったみたいなんだ。まさか、オレと同等の化け物がいるなんて、な」

「化け物、ね」


 そこで、匡は目を細めてヒズミを見る。



「六分の五のロシアンルーレットを、外したな」



 あれが、紗彩の所業でないことは確実だ。

 紗彩では無理だと判断したからこそ、土壇場でヒズミが出てきたのだ。そうして、彼について回る『天運』が、少女の体を守った。


 追い求めていた、自分を負かすかもしれない『天運』。


 それが目の前にあるかもしれないという、淡い期待が胸にともる。

 それは、一度失望した後に抱いたものであるがゆえに、悲痛なものがある。



 しかし。



「あー。勝負だったらやめとけ」


 匡が何かを言おうとする前に、ヒズミが手をあげて静止を促した。

 勢い込んでいた匡からすると、肩透かしを食らったようなものである。不満を表現するように、匡は反論する。



「どうしてだ。あのロシアンルーレットは、間違いなく比澄本人じゃないとできないものだ。おれは、お前の天運と戦いに来たんだ。偽物の天運なんかじゃない。技術の入り込まない、さしの勝負をしに来たんだ。どうしてここで、御預けするようなまねをする」

「お預けっつったら、オレの方だってそうだよ」


 少し不機嫌を前に出しながら、ヒズミは言う。


「オレだって、本当はお前と戦いたいと思っていた。近江匡。お前さんが、オレを倒せる唯一の奴だと思っていた。だから、ここで勝負すんのも、本当はやぶさかじゃないんだ。だが――」



 ヒズミは、両手をあげる。

 少女の身体を借りた男は、今の自分の境遇を嘲るように、言う。



「オレはもう、死んでる」

「……だが!」

「今のオレは、紗彩の身体を借りている状態なんだ」



 匡の言葉を遮るように、ヒズミは言う。



「いくら人格がオレだろうと、現実で行ったことは、全部紗彩の行いだし、全てが紗彩に反映される。オレが何やったって、それは全部、紗彩のポテンシャルでできることなんだよ。――それに、お前が言ったんだろうが」



 その時のヒズミの表情は、皮肉気で、どこか自嘲的だった。



「成人男性と、十四歳の少女じゃあ、長期的に見て勝負は見えている」



 紗彩を危険な目に合わせるわけにはいかねェよ、と。

 ヒズミは慈愛に満ちた瞳で、つぶやいた。


「……だったら、またなのか」


 納得がいかないのは匡の方である。


 ここまで来たのに。


 目の前には、伝説にすらなったギャンブラーがいる。

 自分が追い求めてようやくたどり着いた、自分を負かせてくれる男がいるというのに、またここで、終わってしまうのか。


 勝ち逃げ――してしまうのか。



「出会うのが遅すぎたんだよ。オレたちは」



 追いすがるような、未練たらしいそんな匡の心情を、すっぱりと断ち切ったのは、ヒズミの次一言だった。



「本当はもっと早く、それこそ、こんなに追い詰められる前に出会うべきだったんだ。オレは天運で、お前は技術で、競い合うためには、遅すぎたんだ。――まあ、なんだ」



 にやりと、ニヒルに、少女の可愛らしい顔をゆがめて、彼は言った。




んだよ。オレたちには」




 その一言は、ほかでもない、天運に望まれた彼が言うからこそ、どうしようもないほどに匡を納得させた。


「ああ。なるほどな」


 匡はそこで、はっきりと悟ってしまった。


 ある意味で、匡は勝っていたのだ。


 天運を味方に付けた男に、運がなかったとまで言わせるほどに、近江匡は、どうしようもないほどに、龍光寺比澄に、勝っていた。



 こうして、戦わずして、ギャンブルクルーズ最後の勝負は幕を下ろした。






 ※ ※ ※






 人生とは達成感を得る旅のようなものだ。


 それを否定することは、生きる喜びを否定することに等しい。

 人は自分が思っている以上に、何かを成し遂げたいと思っているものだし、何よりも満足感を欲している。

 一度満足したら、それで終わりではない。

 際限なく、次の満足を求めて、人は何かしらの行動を起こす。


 その満足値は、大抵の人間はそこそこの値を保っている。

 それは生活水準が上がったり、価値観が変わったりすることで変動することはあるが、あくまで当人にとって絶妙な位置にあるのが、普通だ。


 しかしここに、簡単に目的を達成してしまう人間がいるとする。


 その人間は、満足するためにするべき努力を、たやすく踏み越えて結果を手に入れる。苦労をしない。頑張らずとも手が届く。

 彼が行う努力は、頑張るなどと言う言葉からは程遠い、たやすく行える作業でしかないのだから。



 そんな人間にとって、人生とはなんだろうか?



 たやすく達成できる目的に、満足なんてできようもない。

 自然と彼は、より困難な課題を探す。

 そしてそれを踏み越えるたびに、彼の満足は消えていく。達成感がなくなっていく。作業が本当の意味での作業になる。



 喜びのない苦労が、永遠と続く。




 例えば――彼は、女を作った。


 恋愛は、自分一人の努力でどうにかなるものではない。

 相手と心を交わし、相手を尊重し、共に認め合わなければならないものだ。

 傲慢な態度で挑んで達成できるものでは決してない。それは、彼にとっては未知の挑戦といえた。


 相手は敢えて難しい女を選んだ。

 世渡りが上手で、これまで何人もの男と付き合い、多くの男を振ってきたような女。プライドが高いのに媚を売るのがうまく、男を喜ばせる自分の見せ方をよくわかっているような女だった。そして、何よりも理想が高い。


 それは久しぶりにやりがいのある挑戦だった。


 まず、彼女に振り向いてもらうことから考えた。

 こちらからがっつくような真似はしなかった。初めはちょっとした会話から始まり、あくまで自然と仲良くなった。共通の話題を探し、共通の趣味を持ち、相手が欲することを次第に学んだ。少しずつ親密になり、そして付き合い始めるまでに、一か月くらいだった。


 それから一か月と掛からず、彼女は陥落した。


 それまで恋愛に本気になったことがなかった女は、彼に惚れこんで、依存したのだ。

 高かったプライドが災いしたのか、依存した後の彼女は、別人のように従順になった。何人もの男を従わせてきた彼女は、彼の言葉に簡単に従った。彼の一挙一動を気にするようになり、彼の機嫌をうかがうようになり、やがては、実生活のすべてを彼のために使うようになった。

 豹変とも言うべき変わりようで、女は彼に依存した。



 彼は、恐ろしくなった。



 彼はただ、彼女に好かれようとしただけである。

 それがどうしてこうなったのか。

 心が通うなんてとんでもない。ただ一方的に好意を抱かれ、一方的に迫られるだけだった。

 そして、そう仕向けたのは、他でもない自分なのだから、手におえない。



 結局彼は、まったく、彼女のことを好きにはならなかった。

 好きになる努力をしても、その全ては、彼女の『好き』に上塗りされていった。



 別れのプロセスは、付き合うまでの逆をいく形になった。

 時間をかけて、順序良く彼女の『好意』を削っていった。些細な諍いを起こし、彼女の望まぬことを行い、彼女を精神的に追い詰めた。それとともに、新たな依存対象となる男を用意し、距離を縮めさせた。

 始まりの時と同じように、スムーズな進行だった。

 そうやって二か月かけて下準備をした後に、彼女に別れを告げた。


 彼女は傷ついただろうが、その傷は新たな依存対象によって癒されることだろう。



 そして彼は、一人になった。



 それからの人生も、変わらないものだった。

 彼を求める者は多い。恋愛対象として近寄ってくる者もいれば、仕事として近づいてくる者もいる。

 初めてがあれば、率先して挑戦した。多くの場合は、行き過ぎた結果を得ることとなった。

 彼ほど、利用した時の見返りが多い人間はいなかった。

 やがて彼は、自分の楽しみを得るために、利用されつくす方向へとシフトしていった。



 そうやって生きてきた。


 決して満足しない心を満たすためだけに、生きてきた。



 二十六年。

 あるいは、十年。



 生きて生きて生きて、

 挑んで挑んで挑んで、

 勝って勝って勝って――



 むなしくなって。

 埋めるようにもがいて。

 死にたいくらい嫌気が差して。

 それでも――希望を捨てきれなくて。



 楽しくないことでも、それが難しいのならば挑むようになって、やがては困難に挑戦することだけが目的になった。

 それでも勝ってきたのだから、手におえない。



 それが、彼の人生。

 それが、近江匡の、人生――




 榎本友乃絵は、その人生の一端を、語って聞かせた。



 話を聞くにつれて、真樹は目から光を失っていった。


 近江匡のこと。


 彼のことを何も知らなかったことは、分かっていた。

 知らなくてもいいと、思っていた。

 だって、自分が知っている近江匡は、今目の前にいる男なのだから、と。



 間違いだった。



 そんな偶像を尊敬して、神様のようにあがめていたことは、大きな間違いだ。

 だって、彼は。


「ただ出来過ぎるだけの、普通の若者なんだから」


 榎本の声が、辛辣に響く。



「匡君の不幸なところは、その高すぎるスペックに見合うだけの精神的な成長ができなかったことだよ。彼には、師と呼べる人間がいなかった。彼を導いてくれて、彼に道を教えてくれる人間がいなかった。厳密には一人居たけれど、でも、彼女も、彼に教えられなかったことがある」


 それは、誰だって知っていることだった。

 人生には、不可能なことがあるという、たった一つの真理を、近江匡は誰からも教わることができなかったのだ。


「人間にできることなら匡君にできないことはない。たとえその時点でできなくても、必ず彼は習得する。それだけの学習能力を彼は持っている。彼が嫌だと思っても、その学習能力は、強制的に彼に不可能を習得させる」



 だから彼に、挫折はない。

 だから彼に、失敗はない。


 彼は負けないのではない。

 負けられないのだ。



「あなたはね、牧野さん」


 榎本の怒りは収まっていなかった。

 ここまで淡々と言葉を連ねてきたのは、ただこの一言を言うためだけに、積み重ねられていたのだ。



「そんな普通の男を、残酷にも、神様扱いしていたんだよ」



 崇められて嬉しいのは、自分を評価してほしいと思っている人間だけだ。

 評価を不要だと思っている人間。

 それも、自分を毛嫌いしているような人間が、自分を崇められたら、どう思うだろうか?


 本当は失敗したいと思っているのに、成功するたびに褒められる。

 本当は負けたいと思っているのに、勝つたびに賞賛を受ける。


 なまじ、それがプラス方面に向いているのがやっかいだ。

 成功者は、自己の成功をないがしろにしてはならない。

 だってそれは、成功できなかったすべての人間の想いを踏みにじることになるのだから。


 だから、成功者はふてぶてしく構えなければいけないのだ。


 叫びだしたいほどの苦しみを胸の内に押さえつけて、人の上に立ち続ける。

 そのストレスは、計り知れない。



「わ、た。しは」



 自分の罪深さを嫌と言うほど思い知らされた真樹の心は、これ以上傷つくことはないというくらいにぼろぼろだった。

 もはやいつ気絶してもおかしくないほどに擦り切れた精神を、ただ懺悔の想いだけでまとめ上げて、真樹は尋ねる。



「私は、どう、すれば、いいんですか」



 近江匡に。

 彼にどうすれば、報いることができるのか。


 ひどいことをした。

 彼のずっとそばにいながら、一番彼を傷つけたのは自分だ。

 本当はただ、認めてもらいたかっただけなのだ。ほんのちょっと、彼のそばにいられて、彼に目をかけてもらえれば、それでよかっただけなのだ。


 どこで間違ってしまったのか。

 その間違いは、どうすれば精算できるのか。

 答えが欲しかった。

 それなのに。



「そないなこと、うちが知るかいな」



 無情な一言が真樹の願いを両断した。


 いつのまにか、榎本の口調は関西弁に戻っていた。

 おそらくは、それ以上真樹を攻め立てる必要はないと思ったのだろう。見下ろす視線は、どこかばつの悪そうに揺れている。



「ちょっと、言い過ぎたかもしれへん。けど、それを考えるんは、あんはんの仕事や」

「わたし、の」

「彼を救うには、彼を負けさせなければあかん。どんな形でもええ。彼に、『負けた』って思わせるしか、ないんや」


 そして、それができるのは真樹だけだ。


「え?」


 榎本のかすかなつぶやきに、真樹は目を丸くする。

 そんな真樹をしり目に、榎本はさっさとその場から去ろうとする。


「ほな、すまんかったな。突然押しかけて、嬲るようなまねして。もうこんなことはしぃへんから、堪忍な」

「……榎本、さん」

「さいなら」



 すがる言葉を聞こうともせずに、彼女は扉を開け、部屋から出て行った。



 真樹は一人残された。

 ぼろぼろになった心を抱えて、自分の罪を深いところで抱いて。



「う、あ、ああ」



 嗚咽が漏れる。


 涙は出てこなかった。

 ただ、どうしようもないほどの衝動が胸の内にある。

 それは爆発させたいのに、中身のない空っぽの憤りだった。


「あ、ぁあ。ああああああ」


 真樹は哭いた。


 涙を流すこともなく、ただ声だけを悲痛に響かせて、しばらくの間、獣のように哭いたのだった。




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