第15話 丸腰のジェスターは牙をむく


 ※ ※ ※



 牧野真樹が、近江匡と出会ったのは、今から五年前のことだ。


 大学一年生だった真樹は、当時所属していたサークルで、連続傷害事件に巻き込まれた。


 幸いにも死者は出なかったものの、結果五人もの人間が病院に搬送された。

 それだけならば真樹にはそこまで関係のある話ではないのだが、犯人の目的は真樹への復讐だったのだ。

 被害者が出るたびに、犯人からメッセージが届いた。犯人からの要求はただ一つ。これ以上被害を広げたくなければ、真樹に自殺しろと要求してきていた。


 そんなことはできるわけがなかったが、次々と被害者が増えていくにつれて、真樹の精神は追い詰められていった。

 このとき、真樹は責められればまだよかったのかもしれない。

 しかし、サークルの誰もが真樹を守ろうとしてくれた。真樹も被害者だと、大事に大事に守ってくれた。だからこそ、みんな傷つけられ、命の危険にさらされた。


 自分がいるだけで関係のない人が傷ついていくことに耐えられなかった。

 生きているだけで罪であるということに、耐えられなかった。


 だから、いっそのこと死んだ方がましだと、そんな風に思った。


 そんな時だった。



「自分が死ぬ理由に、他人を使うんじゃねぇよ」



 近江匡に出会ったのだ。


 彼は不死身だった。

 どんなに犯人が策略を巡らそうと、彼はほとんど無傷で生還した。毒物を盛られようが、夜道に襲われようが、寝こみを狙われようが――挙句の果てに、爆発に巻き込まれようが、その時々で最善の行動をとり、無傷で乗り越えた。


 近江匡は傷つかない。

 その姿が、真樹に安心をくれた。


 結局、犯人は、当時真樹の直ぐ側に居た人物だった。恋人だった男と、親友だと思っていた女。二人から裏切られた真樹だったが、その傷はそこまで深くならずに住んだ。


 あの時から、彼は真樹にとってのヒーローだった。

 いや、むしろ、神様と言ってしまった方がいいかもしれない。


 彼を信じればすべてがうまくいく。そう信じ込んでしまうくらいには、近江匡と言う人間は完璧だった。


 どんなに苦しいときでも。どんなにつらいときでも。


 近江さんなら、助けてくれる。


 それまで、無自覚ながらお姫様扱いされて大切に守られてきた彼女は、おそらく初めて、自分から他者を求め、自分から他者に依存することとなった。


 近江匡と言う偶像に、心酔したのだった。




 ※ ※ ※



 クルーズ客船・サングローリー号。

 五階・ファイブグローリー。


 そのポーカーエリア第六テーブルにて、ひとつの勝負が終わり、ここに一人の男が現れた。


 上半身に男物のジャケットを羽織らされた真樹は、その人物を見上げながら半ば夢見心地に言った。


「おうみ、さん……」


 そのかすかな囁き声に、ちらりと一瞥をくれて、匡はニッと笑った。


「おう。そういうお前は、真樹ちゃんだな」


 いつもの安堵を与える笑みに比べると、どこか皮肉気な雰囲気があった。

 それはまだ、就職する前だった、出会った当初のやんちゃな匡が好んだ笑い方だった。懐かしい感覚に襲われて、胸が締め付けられるようだった。


「さて、と」

 見下すようにポーカー台に向き直り、匡はルシフルに目を向ける。


「まあ事情を聞くに、うちの真樹ちゃんが突っかかってったのがそもそもの原因みたいだし。その点はこちらが全面的に悪そうだから、そこんとこを踏み倒そうとは思わねェよ。んで? いくらなの、真樹ちゃん」

「えと、あの……」


 何も気負った様子のない匡の様子に、むしろ戦々恐々な真樹だった。

 おそらくはこの場でのお説教は後回しにしているだけなのだろうが、悪いことをしたという自覚があるだけに、真樹はしどろもどろになってしまう。



「困るなぁ。君」

 そこで、ルシフルが茶々を入れるように言った。

「これは私とそのお嬢さんの勝負だ。勝手に所有物宣言して、勝負をうやむやにしないでくれよ。それは、私だけではなく、この場全員の顔をつぶす行為だよ?」

「はん。女の子泣かして立てられる顔なんざ、とっとと潰れてしまえ」


 あっさりと言い返す匡に、さすがのルシフルも少しだけ気圧されたようだった。


「君――えっと、名前はなんていうのかな」

「近江匡」


 ごまかすことなく、堂々と言い切った匡は、にやりと笑いながら逆に問うた。


「さあ、こっちが名乗ったんだからてめぇも名乗りな。その立派な格好に似合うだけの大層な名前を期待してんぜ?」

「私か。ここではルシフルと名乗っているよ」

「ルシフル」


 その名前を口の中で何度か転がして、匡は「きひひ」と笑った。


「ルシフル――なるほど、ル・シッフル、ねぇ。きひひ、そりゃあまた大層なもん名乗ってんじゃねェか。キャラは全然違うがな。――そうだな。そんじゃあおれは、ジェームズ・ボンドとでも言おうかね。知ってるかい、敵役は主役には勝てないんだぜ?」


 どことなく楽しそうな匡だった。


 しかしその楽しそうな印象も一変し、急に冷めたような表情で、匡はポーカー台をねめつける。

 そこに拡げられている、フルハウスとロイヤルストレートフラッシュを見つめて、小馬鹿にするように言った。


「チップの差額は、三百ってところか? その分は保証してやんよ。ほれ」


 乱雑に、彼はディーラーにIDカードを渡した。ディーラーはそれを受け取って確認し、すぐにチップに清算する。


 三百万がテーブルに置かれた。

 真樹の負け分は、匡によって支払われたのだった。


 あっさりと解決してしまったために、何とも言えない微妙な空気が場に流れてしまう。一種興奮状態にあった場が、どうしていいかわからないでくすぶっている。


 その文句を代表するように、ルシフルが言う。




「お金の問題で済むんなら、世の中の娯楽は、こんなに多種多様になっていないよ、ミスター近江。そもそも我々は、三百万なんて言うはした金をどうこう言うほどに矮小な人間ではないのだけれどね」


「きひひ。そのはした金で、パンピーにストリップショーさせるような奴らが何言ってんだか。やくざだって堅気には手を出さないんだぜ?」


「ギャンブルに手を出した時点で、彼女は堅気と言えるのかな? 少なくとも、彼女は私のやり方が気にくわないから、勝負を持ちかけてきたんだ。負けたら同じ扱いを受けるのは、覚悟の上ではないかね?」


「世間知らずの若い女を捕まえて、覚悟だなんてほざいてんじゃねぇよ。ましてや、相応のリスクも負わないで言うのは、卑怯者のすることだ」


「卑怯者、か。その言葉は受け入れられないね。私はリスクを負わないんじゃない、リスクを負っても平気なだけだ。身分の違いをわきまえないで批難するのは、誰にでもできることだよ。王子様」


「なるほどね。つまりあんたは、自分が破産するリスクを負って、こんな小娘を裸に剥こうとしたわけだ。かはは、そりゃあいい。最っ高に下種野郎だな」




 互いに引かない様子に、周りの方が緊張感を増していった。

 そんな均衡状態を破ったのは、やはり匡の方だった。



「だったらよ、おれと勝負しろよ」

「うん? またどうして、そんな話になったのかな?」


 急に論点がずれたため、話についていけなくなったルシフルが怪訝な顔をする。

 しかし、気にした様子もない匡は、平然と言ってのけた。


「破産する覚悟してまで娯楽に興じたいんだろ? 娯楽ってんなら、もっと面白いもんを見せてやるって言ってんだよ。そうだな――内容は、真樹ちゃんがやったルールと同じでいいよ。この場で、同条件で勝負しよう」


 少し考えるようにして、匡は続きを語る。


「時間は五時間後、午後七時から。こちらは用意する。アンタにとってはちょっとしたリスクかもしんねぇが、そいつがなくなったらおれは文字通り破産だ。そん時は、この場で腹掻っ切って死んでやる。現代日本で、介錯なしで切腹してやるって言ってんだ。どうだ? お前ら好みじゃねぇか?」


 もう言っていることは無茶苦茶だった。

 何が何と等価になっているかもわからない交渉に、力があるとは思えない。しかし、匡のそのまくし立てるような口調と、発言の過激さが、周囲の冷静さを奪っていった。

 誰もが、ルシフルの言葉を待っていた。


「……そんなに時間を空けなくても、勝負だったら今この場でやってもいいんだけれど?」

「お? なんだ。随分気前がいいじゃねぇか。けどよ、アンタもうすでに二人と、三十戦以上してるだろ? そろそろ集中力きれてんじゃないか?」

「私の心配をしてくれているのかい? なんとも余裕だね」

「そりゃあ余裕さ。だって、なんだ」


 あっさりとそう言いながら、匡は無造作にポーカー台に手を伸ばす。


 彼が手に取ったのは、真樹のフルハウスだった。

 三枚のAと二枚のQを束ねて手に取り、軽くシャッフルした後で、すぐに裏向きでテーブルに広げる。


「どうせなら万全の状態で叩き潰して、プライドへしおってやるほうが楽しいに決まってるからな」


 にぃぃ、と。表情の筋肉がひきつるくらいに歪んだ笑みを浮かべる。

 そして、自らが拡げた五枚のカードを、一枚ずつ表にしていった。



 が、笑みを浮かべて表を向いた。



 その場にいる誰もが、目の前で起こったことに驚き感嘆を漏らした。


「ワイルドカードがありゃあ、ロイヤルだろうと蹴落とせるんだぜ?」


 大胆なパフォーマンスとともに、近江匡は宣戦布告した。

 

「く、くはは。いいだろう」

 そんな不敵な匡の態度がおかしかったのか、ルシフルはくぐもった笑いを漏らす。

「君のその大胆な提案に免じて、この場は許してあげるよ。ねえ、ミス牧野。みなさんも、それでよろしいかな?」



 ルシフルの答えに、ギャラリーはどよめきながらも、反論はしなかった。この場はルシフルを中心に動いている。

 彼は「よし」とうなずいて、確認した。


「なら、午後七時から、この場で勝負するとしよう。競技はドロウポーカー。君が負けた時の条件は、切腹と。ふふ。本当にできるものなら、見てみたいものだね」


 そんなわけで。

 紆余曲折を経て、近江匡とルシフルの直接対決がここに決定した。




 ※ ※ ※




 五階のカジノからすぐに出て、真樹たちは四階に移動していた。


 カジノルームを出るまでの間、匡は無言を貫いており、後ろからついていく真樹は、そんな彼の姿をびくびくとしながら見ていた。


 未だに真樹は、上半身が下着姿の上にジャケットを羽織っただけである。なんとなく着替えるタイミングを逃してしまったので、ここまでその格好で来てしまった。


 ついでに言うと、あと二人。


 一人は、真樹も知っている相手だった。榎本友乃恵と言う、占い師を語る奇妙な女だった。面識はあるものの、それはすべて匡を介した接点であり、それ以外で会話をしたことはなかった。

 どうして彼女がいるのかはわからないが、自然と匡の後についてきていた。何が楽しいのか、鼻歌交じりににやついている。


 そして、もう一人。

 そもそものきっかけとなった、半裸の女も一緒についてきていた。

 真樹が貸したカーディガンの裾を強く握りしめている。こちらは真樹よりも顔面蒼白で、この後自分がどうなるかわからずに震えている。



 七時からの勝負の内容が決まった後で、ルシフルが唐突に言ったのだった。


「それはそうと、そもそもの原因となったそこの女性の借金は、結局返せていないんだけれどね?」


 その言葉に、匡は固まった。


 どうやら彼女のことは予想外だったらしく、匡は困ったような表情を浮かべたのだった。彼女の借金の総額は七百二十万。彼女は、もし一千万を越えたら、ルシフル側に彼女のすべての権利がゆだねられるという条件で勝負の担保とされていた。そんな処遇の女を、さしもの匡も扱いに困ったらしい。


 少しだけ迷った挙句、匡は妥協案として、彼女のIDカードを担保に、身柄を引き受けることを提案した。

 彼女の借金分を返すことができれば、IDカードを返却。もしできなかった場合は、下船時に彼女を明け渡す、という条件だ。


「こ、このたびは。ご迷惑をおかけしまして」


 彼女は、名前を臼井美樹と言った。


 実際に賭けをしていた男は臼井晴雄と言い、彼女の弟らしい。元は、弟の借金でこの船に乗ることになり、結果、あのような目にあったのだという。


「その、私のことはもういいですから。勝負なんてやらないでも」

「気にすんなって、臼井さん。まあ乗りかかった船だし、おれらがことを大きくしたってのもあるからさ。ついでにアンタも救ってやるから安心しろ」


 そんな軽口をたたく匡は、安心させるように優しげな笑みを臼井に向けていた。

 真樹とは目を合わそうともしなかった。


「…………」


 怖い。


 何も言ってこない匡が、むしろ怖かった。


「まあアンタに関しちゃ、出来る限りのことはしようと思うけどよ。その連れの弟に関しては保証しねぇぜ。なにせここにいない。いない奴の面倒を見るわけにはいかないからな」

「……すみません」

「謝んなって。アンタんとこの家庭事情にまで口出ししようとは思わないから、きれいな体になってから好きにすりゃいいよ。――と、まあとりあえずだ」


 匡と真樹の二人の客室に着いたところで、臼井と榎本を迎え入れる。


「適当に着替えな。服は備え付けの寝間着でいいだろ。ついでにシャワーでも浴びてきていいぜ。――真樹ちゃんも。ほら、バスルームに行った行った」


 ようやく真樹に声をかけてくれたものの、追い立てるようにして匡は真樹と臼井の二人をバスルームに行かせた。



 ※ ※ ※



 そして、室内には匡と榎本の二人だけになった。

 バスルームにいる二人があがってくるまでに、話しておかなければいけないことがある。


「しっかし、また困った相手に喧嘩を売ったもんやな、匡君」

「なんだ? その様子なら、相手のこと知ってるのか?」

「知っとる知っとる。この船の中じゃ、ちょっとした有名人やで」


 口調は相変わらずだが、おちゃらけた様子は鳴りを潜め、真剣なまなざしで榎本は言葉を続ける。


「顔見知りなんかは、いくら仮面つけていようと分かるもんや。あの男は、五十嵐征治。投資ファンドの成り上がり御曹司で、自身も会社を経営しとる。この船に乗る人間の中じゃ、有名人の一人やで」

「はあん、それであんだけでかい顔してたわけか」


 いけ好かない奴だと思っていたが、何よりも資金力がものをいう世界での人間なのだと思うと、なるほどと納得してしまった。


「ファンドねぇ。だからポーカーってわけか」

「あと、もう一つ、あいつが有名な理由がある」


 壁に背をかけて、彼女は天井を見上げながら言う。


「あやつはな、この船の暗部とつながっとる。債務者から金を巻き上げて、そいつらを闇金の手に落とすのが、あいつの仕事や。そして、それは一種の見世物になっとる」

「へぇ。そりゃまた」


 榎本の言葉で、また一つ疑問が解消した。


 当初の予想通り、この船は債務者を斡旋し、その上で彼らをさらに借金まみれにして拘束することが目的だが、そう都合よく行く場合がどれだけあるのかという疑問があった。


 そもそも、そんな手間のかかることをなぜするのか、というのが一番の疑問だったのだが、榎本の言葉でようやく腑に落ちた。


 つまりは、陳腐な話、金持ちの道楽なのだ。借金まみれの人間が成功を求めて船に乗り、その果てに破産する。その過程を分かりやすい形で見せるというのが、ルシフルこと五十嵐征治の仕事なのだろう。


「せやから、あいつに正攻法で勝つんは難しいと思っとき。なにせ五十嵐は」

「イカサマしているから。だろ」


 あっさりと、匡はその言葉を口にした。


「直接見てはいねぇけど、決着になってたフルハウスとロイヤルストレートフラッシュは、いくらなんでもやり過ぎだ。あんな手役が出るのは、サマ以外の何もんでもねぇだろうよ。それも、ディーラーを抱え込んでいる可能性が高い」



 ポーカーに限らず、カードゲームにおけるイカサマは、大きく分けて二つある。

・カードの内容を知る。

・カードそのものをすり替える。


 本来出るはずのないようなカードの組み合わせができたとすれば、それは最初から仕組まれていたとしか考えられない。


「そりゃあ、素のゲームでフルハウスなんてハンドが入ってきたら、おれでも興奮するよ。全裸になってもいいから、賭け金の吊り上げするだろうな。だから、真樹ちゃんの気持ちはよくわかる」

「あの子に同情するのはええけど。実際、勝ち目はあるんか?」

「確実なもんはないな。ただ、五千万を超えて、一億レベルの勝負に持っていければ、不可能ではなくなる」


 平然とそんなことを言い放つ匡に、榎本が厳しい言葉をかける。


「そもそも、その五千万っちゅーのはどこから出てきたんや。まさかあんはん、そないな金もっとるわけやないよな? どこから持ってくるつもりや」

「んなもん、借りるに決まってんだろ」


 もはや驚くのも馬鹿らしいほどに、堂々と匡は言い切った。


 いつもは振り回す側であるはずの榎本も、この時ばかりは頭痛を覚えて頭を押さえる。こうした大胆なところが近江匡らしいところであるが、毎度のことながら本当に大丈夫なのかと不安になる。


「借りるったって、どこからや」

「ちょうど、この船で知り合った金貸しがいる」

「そんなん下っ端やろ。融資してくれたとしてもせいぜい一千万くらいや。五千万なんて大金、そうそう貸すわけあらへん。そりゃあ、あんはんは若いし健康体やから、全身売り物にすれば五千万どころか一億くらいは余裕で払えるやろけど……」


 空恐ろしいことを平然と言う榎本だったが、もはやそのレベルの問題は、この船においては当たり前のものと化していた。


 眉をひそめている榎本に、匡はにやりと笑った。


「だから、担保として情報を一つ加える。そうしたら、どうなる?」

「どうなるって、なんの話や」


 一拍間をおいて、匡は余裕を持って答えた。


「森口敏和の弱み」

「……はぁ!?」


 意図せず素に戻ってしまうほどに、榎本は驚き声をあげた。


「ちょ、森口って、あの森口さんか? あの、森口組の」

「そう。正真正銘、森口敏和だ。――あまり乱用はできないが、あの人に条件を飲ませることのできる秘密を、ひとつだけ知っている」



 森口の名が交渉材料にできるほどの効力があるのには、ちょっとした理由がある。


 八年前。双龍会内部で抗争があり、その裏に中国マフィアの影があった。そのことを嗅ぎ付けたのが、当時一介の組の若頭だった森口だったのだが、彼だけが内紛から身を置き、その時点で信頼のおける組員を集めて事態の収拾に当たった。


 その時の功績が認められ、騒動が収まった後に彼は新たに組を立ち上げることとなった。ただ、この抗争の中で、彼は組内の情報を余すことなく把握することになり、その結果、双龍会内部では、誰もが彼に手出しできない状況となっていた。

 また、内部抗争を解決した男として、彼を慕う者も多く、結果、構成員三十人程度の組の組長であるにも関わらず、多くの人脈と権力を持った男となっているのだ。


 しかし、向上心が低いのか、森口は組長になったのちは勢力の拡大や下剋上を図ることなく、静かにしのぎを続けている。

 ただし、少しでも彼の逆鱗に触れることがあれば、その組織は痛手をこうむるということで有名だった。


 実際、匡も一年半前、その力を余すことなく見ている。真樹とともに携わった案件で海外マフィアに追われることになった時に、森口に助けを求めたところ、ものの見事にその海外マフィアを壊滅に追い込んだのだ。


「その海外マフィアとのいざこざは、完全におれらの失態で、森口さんとはまったく関係のないことだった。それを助けてもらえたってだけでも、信用性はあるだろ」

「……にわかには信じられへんけど、そりゃたしかにすごいな。せやけど、あんはんの話やったら、森口さんこの船に乗っとるんやろ? 大丈夫か、そんな遠回しな自殺みたいなことして」

「もちろんこれを売ったらおれの命がねぇ。だから、もし返済できない状況に陥れば、どちらにしろおれは死ぬしかないってわけだ」


 きひひ、と楽しげに笑う匡。


 ちょっとしたスリルジャンキーのようだったが、しかし匡の内面は冷め切っていて、現状からどう動くかをしっかりと見極めようとしていた。


「それで、だ。榎本。勝負が終わるまでの間、あの女――臼井って子を、預かってもらいたいんだけど」

「ふぅん。そりゃまたどうして」

「はっきり言って勝負の邪魔だ」


 バッサリと切り捨てるように、匡は言い切った。


「助けるとは言ったが、情はほとんどないに等しいから、勝負の要素に入ってこられると面倒だ。おれは真樹ちゃんと、そしておれ自身のために戦うってスタンスが、一番いい」

「まあそれくらいやったらええけど。うちの部屋であずかればええんか?」

「ああ。頼む」

「けど、保障はしきれへんで」


 乗り気しないように、榎本は言う。


「なにせ、弟さんは逃げてる最中やろ? 五十嵐との勝負はお預けになっとるけど、そもそも奴が借りた金の回収が来たら、素直に渡すしかあらへん。うちだって、危ない目にはあいたくないからな」

「そうなったら仕方ねぇさ。そこまで義理を負うつもりはない」


 冷酷とも言えるセリフであるが、そもそも、彼自身人にかまっている余裕はそれほどないのだ。

 一千万を超える勝負。

 それでも、あの男の牙城を崩すのは容易では無いだろう。やるべきは、この船でのあの男の失墜。そのために、策を練らないといけない。



 と、それを考える前に、一つ訪ねておかないといけないことがる。



「それと――こっちは純粋な疑問なんだが」

「ん? まだ何かあるんか?」

「いや。これからの勝負とは関係ない。少し話が戻るんだが」


 そこで、少しだけ躊躇うような仕草を見せて、匡は口を開いた。


「あの女――龍光寺紗彩ってのは、いったいなんなんだ?」


 龍光寺紗彩。


 デッキで話していた匡と榎本の前に突然現れた彼女は、匡に「早く五階に行け」とだけ告げて、そのままふらりとどこかに消えた。


 彼女の言葉のおかげでこうして真樹の窮地に間に合うことができたのだが、しかし奇妙な話だった。彼女はいったい、何のために匡を呼びに来たのか。


「あー。そうやった。あの子のこと忘れとったな」

 頭をかく仕草をしながら、榎本は言う。


「そういえば話の続きやったんやけど、今の匡くんに話すんは、ちょっと気が引けるんよ。ただ、あの子のことでうちからも相談がある、っちゅーことだけは言っておくわ。後の話は、勝負の後でってことでどうや?」

「お前がそういうんなら、それでいいけど」


 少しだけぼかすような言い方に気になったが、ここで無理に聞き出す必要はないと判断した彼は、そこで話をしめた。


 シャワーから出てきた臼井を榎本に預け、それから匡は、真樹が出てくるのを静かに待った。




 ※ ※ ※




 さて。


「で、真樹ちゃん。おれに何か言うことはない?」


 両腕を組んで椅子に腰を下ろしている匡が、バスローブ姿で立ちすくんでいる真樹に対して、開口一番そんな言葉をかけた。


 怖い。


 表情はあくまで普段と変わらない。

 目つきも、ただまっすぐに真樹を見つめているだけで、別に睨んでいるわけではない。

 けれど、怖かった。

 言葉にできない重圧が真樹に対してかけられている。


「えっと。その……」

「ここでさぁ」


 わざとらしいほどの声色で、匡は真樹の言葉を遮る。


「真樹ちゃんの口から、『私は悪くないもん』くらいの可愛げのある返答があれば、思わず赦しちゃうかもしんないけどなぁ」

「……………」


 怒ってる。

 絶対に怒ってる。


「あの……ほんとごめんなさい。この通りです。許してください」


 もはや真樹に許されるのは、ひたすら平謝りするだけだった。


「ごめんなさいって、何が?」

「その。迷惑かけちゃって。私の所為で、近江さんが勝負することになっちゃって」

「…………」


 真樹は頭を下げたまま、匡の冷徹な視線を甘んじて受けた。もうこうなってしまったからには、どんな叱責も耐えるしかない。匡を怒らせるようなことは初めてなだけに、いったいどんな手痛い言葉が飛んでくるかと、緊張しながら待っていた。


 匡が立ち上がるのが見えた。


 びくり、と体を震わせるが、頭を下げたまま動かないで耐える。

 匡の手が真樹の頭に伸びてくるのを察した。ああ、たたかれるのかな、と覚悟した時だった。


 優しく頭を撫でられた。


「そうじゃないでしょ。真樹ちゃん」


 予想外の事態に、真樹は呆然とする。

 そんな彼女に、匡は静かに言葉を重ねていく。


「迷惑なのが問題じゃない。そんなことで怒るんなら、そもそもおれは真樹ちゃんをこんなところに連れてきたりはしてないよ。危険な目に合わせたくないってだけなら、安曇さんに頼んで会社にでも軟禁してる」


 何気に物騒なことを言っている。

 撫でていた手を離して、匡はしゃがみこんで頭を下げていた真樹と目を合わせるようにして言う。


「真樹ちゃんはさ。おれを心配で殺したいの?」

「……お、近江、さん」

「めちゃくちゃ焦ったんだからな。……ほんと、おれの所為で酷い目に合わせたなんて、思わせないでくれよ」


 意外なほどに憔悴しきった匡の言葉に、真樹は、ポーカー勝負の場に匡が駆けつけてきた時にこぼし損ねた涙を、ついにこぼしてしまった。


 泣いちゃだめだ、と思っても、嗚咽をこらえることができなかった。せめてもの抵抗として、目に浮かぶ涙をすぐにぬぐう。湧き上がる涙を、いつまでも匡に見せないために、必死で心を落ち着けるのに努めた。




 五分ほどののち。

 ひとまず落ち着いてから、二人は再度向き直った。


「そんで、だ」


 仕切りなおすようにして、匡は元の泰然とした様子を取り戻しながら、真樹を見る。


「もう責めたりはしないから、何があったかを聞かせてもらおうか」


 匡のその言葉に、真樹は少し涸れてしまった喉で、尋ねる。


「あの。その前に一つ。どうして近江さんは、あの時駆けつけてこれたんですか?」

「ん? ああ、ちょっと親切な奴がいてな。そいつに関してはおれもよく知らないから、あとで榎本に聞かなきゃいけないんだが」


 歯切れの悪い様子で匡が言う。

 と、そこで、急に何かを思い出したように匡は顔色を変える。


「思い出した。まずこれを言わなきゃ。一応、あらかた勝負の状況だけは『そいつ』に聞いたんだが、一つ言わせてくれ」

「ええと。なんでしょう」

「真樹ちゃんは馬鹿なの?」


 もう責めないという前言を撤回して、匡は言い連ねた。


「アンティ五十万の勝負で、しかも相手の資金状況が分からない状態で、軍資金三百万ちょいで勝負にでるなんて、大馬鹿にもほどがあるだろ。何考えてんだよ」

「あ、あは。あはは」


 笑うしかない真樹であった。


 今思えば大変無茶な話である。

 そもそも、ポーカーが資金力がものをいうということくらいはちゃんと知っていたのに、それでも無謀に立ち向かってしまったのだ。

 というか、ヒズミから思いがけなく三百万も借りれたため、それで気にしなくなってしまったというのが正しい。


「結局、真樹ちゃんの負け分払うので、軍資金で用意した分はほとんどなくなったから、マジで次のポーカー勝負、勝てないとやばい。一応、それだけは覚えておいてね」

「……う。ごめんなさい」


 冗談交じりではあるが、現状をはっきりと言われ、脅された。

 それくらい、切羽詰っている状態ってことだろう。


「そもそも、勝負するきっかけになった三百万だって、誰かから借りたって聞いたんだけど? そのあたりも含めて、どうしてそんなことになったのか、話してもらおうか」

「も、もちろんです。はい」


 さすがにごまかすわけにはいかないということで、真樹は素直に話すことにした。


「もともとは私、四階のルーレットをやっていたんですけど」


 そこから、奇妙な男の子に会ったこと。

 彼が匡を探しているということ。

 匡は五階にいるということを伝えたら、一緒に行こうと誘われたこと。


 そして、ポーカーエリアの個人卓で臼井姉が服を脱ぐ場面を目撃し、激情して喧嘩を売ってしまったことまでを、洗いざらい話した。


「ふぅん。見知らぬガキにのこのこついて行って、そんで見知らぬ女のためにブチ切れて、実力も資金力も分からん相手にケンカ売ったと」


 半目で真樹を見ながら、嫌味っぽく状況を説明してから。

 匡は怪訝そうな顔をした。


「しかし、おれを探しているだ?」

「はい。そんな風に言っていました。えっと、彼、って言って」


 真樹としては、何気なくその名を言っただけだった。


「……なんだと?」


 匡の様子が目に見えて変わった。


 あまりの豹変に、真樹はびくりと身を震わせる。今は責められているわけでもないのに、その匡の様子におびえてしまった。

 そんな真樹に構わず、匡は尋ねる。


「その男の子の名前、もう一回行ってくれないか?」

「あ、はい」


 迫力に押されるようにしながら、真樹は伝え聞いたその名を告げた。


「彼、遠山ヒズミって言っていました」



 その名前に、匡は目を丸くして固まった。



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