>>the second term

――#9

1.「僕にとってはね」

 九月一日、

 夏休みの終わりを告げる朝の第一声は、呆れるほどにいつも通りだった。


「モーニンッ」


 佐伯さんの元気な声。


 半覚醒の状態ですでに瞼の向こうに朝の光を感じていた僕は、その声で完全に目を覚ます。

 目を開ければ、とびきりの美少女が僕を真っ直ぐ見下ろしていた。


「……おはようございます。もうそんな時間ですか」

「うん、おはよう。朝ごはんできてるよ」


 僕が上体を起こすと、それに連動して覆いかぶさるようにしていた佐伯さんが退く。


「君は朝から元気ですね。今日は特に、夏休みが終わったというのに」

「でも、そこはそれ、頭を切り替えないとだから」


 彼女はベッドの端に座った。


「それに九月はイベントが目白押しです」

「何かありましたっけ?」

「弓月くんの誕生日でしょ。うちの両親が帰ってくるでしょ。それに、学園祭」


 あぁ、そんなのもあったな。というか、学校がらみのイベントのほうが少なくないか? ついでに僕も、さっそく明日イベントがあることを思い出した。


「だから、学校は学校で楽しみがあると思うしね」

「まぁ、僕も学校は嫌いではありませんが。でも、一般的な感覚として、やっぱり家でダラダラしているほうがいいです」

「家にはわたしがいるし?」


 彼女はいたずらっぽい笑みで問うてくる。


「さて、頭を切り替えましょう。ほら、出て行ってください。着替えますから」

「もうっ」


 彼女は足を踏み鳴らすようにして立ち上がると、頬を膨らませながら部屋から出ていった。


「……」


 佐伯さんの姿が消えたドアを見つめる僕。

 まぁ、確かに、夏休みは一日中一緒にいたことが多かったな。去年には考えもしなかったことだ。





 佐伯さんと一緒に朝食を取り、それぞれ自室で登校の準備を整える。当然のことながら、リビングに出ていったのは僕が先だった。


 スラックスに半袖のカッターシャツ。制服に身を包むのも久しぶりだな、と思っていたら、佐伯さんの私室のドアが開き、彼女が姿を現した。丈を詰めた赤いチェックのスカートに、半袖のブラウス。


「お待たせー。……どう?」


 と、佐伯さん。


「どう、とは?」

「久しぶりの制服です。超ミニにナマ足。……ぐっとくる?」

「きませんよ。何せ僕は君より一年早く水の森に通ってるんですから。制服なんて見慣れてます」

「むー」


 その返事がお気に召さなかったのか、彼女は、


「突然ですが、わたしの夢を聞いてください」

「嫌です」


 僕はきっぱりと断る。ついこの間、同じパターンで呆れる夢を聞かされたばかりだ。


「学校の図書室で制服プレ――」

「だから、いらないと言ってるでしょうが」


 僕は佐伯さんの言葉に、自分の発音を重ねる。断ったはずなのだが。


「おかげで朝起きてからベッドの上で、枕に顔を埋めてバタバタしちゃった」

「……」


 今朝見た夢の話かよ。


「どうしてこんなの見たんだろ? 久しぶりの学校だから?」

「……知りませんよ」


 いくら学校が楽しみでも、普通はそんな夢を見たりはしない。


 いつまでも莫迦な話につき合っていられないので、僕は登校すべく玄関へ足を向けた。佐伯さんも後をついてくる。


 順に靴を履いて玄関を出た。


 マンションの外に出ると、一気に体感温度が上がった。僕の横では佐伯さんも、体を撫でる熱気に「うわ」と小さな声をもらす。盆前後に比べたら朝晩の気温が少しはマシになったが、それでもまだまだ暑い。夏の勢いはもうしばらく続くようだ。


 制服と同じく、この時間に家を出るのは久しぶりだ。


 住宅地を抜ける。

 間、僕らに会話がなかったのは、この暑さに辟易していたせいだろうか。大きな道路に出ると街路樹が多くあるため、今までも聞こえていたセミの声が、いっそう大きくなった。


「あーあ、やっぱり家のほうがよかったかも」


 道路に沿って歩道を歩きはじめたところで、ようやく佐伯さんが口を開いた。


「どうしました? 暑さが堪えますか」


 家を出てここまで三、四分といったところだが、僕も背中が少し汗ばんできている。今日は始業式とホームルームだけでも、明日のイベントを経て、明後日からはさっそく通常授業。体育があればもっと暑い時間でもグラウンドに出なくてはいけない。それを思うと嫌になるのも当然だ。


「や、夏休みって新婚生活の予行演習みたいでよかったなと思って」

「ほう。そんな予定がありましたか。相手はいったいどこのどなた……でっ!?」


 その言葉が終わるのを待たずして、佐伯さんの肘が僕の脇腹に突き刺さった。


「わたし、あんなことしたのもこんなことされたのも、みーんな弓月くんが初めてなんですけどもー」

「……」


 反省の余地がおおいにあるな。


 僕たちの前に、学園都市の駅と水の森高校を結ぶ道路が見えてきた。さて、人に聞かせられない話はこのあたりにしておこう。





 蒸し風呂のような体育館で始業式をこなした後は、教室でホームルーム。


「夏休み前にも言ったが、二年生と三年生は、明日は実力テストだ」


 我らが担任、加茂先生が告げる。


 その言葉通り、夏休み前からわかっていたことだが、それでも文句が口をついて出るのが生徒の心情というもの。「えー」「やだー」「いらねー」などなど、教室のあちこちから悲鳴じみた声が上がった。


 さらに明日の流れについての説明が続く。


「矢神、勉強してますか?」


 僕は体を前傾させ、前の席に座る友人に聞いた。


「ひと通りは」


 矢神は逆に、体を反らすようにして答える。


「弓月君は?」

「もちろん、してますよ」


 慌てない程度には。


 実力テストは勉強などせず、そのときの実力で受けるものだ、などという莫迦な発想もないわけではないが、そんなものは勉強をしたくないものの言い分で、予めわかっているなら備えておくのが高校生の正しいあり方だろう。





 僕も夏休みのうちからこつこつと明日のために勉強してきたが、だからと言って、前日に何もしなくていいわけではなく。学校から帰って佐伯さんと昼食を食べた後、自室で軽く流すようにして最後のまとめをはじめた。


 しかし、教科が多い。何せ明日一日で5科目ほどをやってしまうのだ。勉強は夕食をはさんで夜まで続き、


「どうしたの。帰ってから篭りっきりだけど」


 午後九時、今日何度目かのコーヒーを取りに部屋を出ると、リビングにいた佐伯さんに問われた。座イスに腰を下ろしている彼女は、僕を見上げる。


「篭りっきりというわけではないのですが」


 区切り区切りでリビングに出てきて休憩をしたりしているのだが、ちょうどそのタイミングで彼女が自分の部屋に入っているのだ。おかげで昼食と夕食のときしか顔を合わせていない気がする。


 僕がマグカップを持ってキッチンへ向かうと、佐伯さんも座イスの回転機能を使って追いかけるように体の向きを変えた。


「明日、二、三年生は実力テストなんですよ」

「あ、そう言えば、そんなこと言ってたような? 休み時間が十五分になって、予鈴が鳴るとか」


 そのあたりの変則的な時間割りは、テストがない一年生にも影響する。


 保温ポットからマグカップへコーヒーを注ぐ。ちょうど一杯分で空になった。これが本日の最後の一杯のようだ。


「まだするの?」

「そのつもりです」

「そっか。……あ、ポット、わたしが洗っとくからおいといて」


 佐伯さんが立ち上がり、こちらに小走りに寄ってきた。僕だってコーヒーメーカーの保温ポットを洗うくらいのことはするのだが、今日のところは厚意に甘えておくことにしよう。お願いします、と彼女にポットを手渡す。


「他に何かすることある? 夜食とか」

「大丈夫です。今日はそこまでするつもりはありませんので」


 そのためにこつこつやってきたのだから。


「そう。でも、必要なら言って。わたしもまだ起きてるし。鍋焼きうどんでも何でもするから」

「この夏のさなかに何の嫌がらせですか」


 受験生じゃあるまいし。というか、冬の受験生でもそんなベタはしないのではなかろうか。


「気持ちだけ受け取っておきますよ」


 とは言え、僕のために何かしてくれようとする気持ちは本当なのだろう。ありがたい話だ。僕は微笑む佐伯さんに見送られ、マグカップを持って部屋に戻った。





 次に僕が部屋から出てきたのが午後十一時前。


 するとリビングのテーブルで、自分の腕を枕に突っ伏して眠っている佐伯さんがいた。本当に僕がいつ何を言ってきてもいいように、起きていたのだろう。実際にはこうして力尽きてしまってはいるが。


「佐伯さん、そんなところで寝ていると風邪をひきますよ」


 ひと声かけてから僕は一旦キッチンへ向かった。シンクにマグカップを置いてから振り返る。


「……」


 と、彼女はまださっきと同じ構造のままだった。寝入ってしまっている――ということなのだろう。


「これはつまり、僕に部屋まで運べということでしょうか」


 わざわざ発音してみる。ほんのわずか、彼女が反応を示したような気がしないでもない。


 ふむ。


 次に僕は、佐伯さんの不思議な色の髪をすくい、後ろに流すようにして梳いてみた。


「ん……」


 彼女の口からかすかな声がもれる。


 あいかわらず繊細で滑らかな手触りだ。いつまでも触れていたいが、そうもいかない。今、僕の前には、髪を何度か梳いて露になった、かたちのよい彼女の耳があった。


 それを軽くつまんでみる。


「ひゃっ」


 今度ははっきりと悲鳴を上げ、佐伯さんが飛び上がるようにして起きた。


「むりっ。耳はむりだってば」

「やっぱり起きてましたね」


 そんなことだろうと思った。


「うーん、バレてたか。弓月くんがベッドに運んでくれるんだと思ったら、顔がにやけるのが我慢できなかったからなぁ」


 彼女は自分の頬をさすりながら、ばつが悪そうに笑う。


「もう。髪と耳は弱いのに」

「わかってますよ。だからやったんです」

「弓月くんも、いい感じにぇろくなってきた?」


 意地悪そうな笑顔の佐伯さん。期待がこもっているように聞こえるのは気のせいか。


「そんなつもりはありませんけどね」


 というか、耳が痛い言葉だ。夏休み中、自制心が利かず、魔がさしたからな。


「君、僕につき合って今まで起きていたんでしょう? すいません。僕はこれでシャワーを浴びて寝るつもりですから、佐伯さんももう寝てください」

「ん、わかった。そうする」


 答えて佐伯さんが腰を浮かし、僕は着替えを取りに部屋へ足を向ける。


 と、


「ねぇ」


 呼ばれて振り返れば、そこにすっと佐伯さんが距離を詰めてきた。ほとんど零距離で相対し、彼女は真下から僕を見上げてくる。


 どこか、誘うような視線。


「いい点が取れるおまじない、してあげようか?」

「……」


 僕とてここで、それはどんなのですか、と問うほど鈍くはないつもりだ。


 でも、


「せっかくですが遠慮しておきます。覚えたことをぜんぶ忘れそうですから」

「あ、そんなに威力あるんだ」


 少しびっくりしたように、佐伯さんは目を丸くする。


「僕にとってはね」

「そっか。じゃあ、やめとく」


 再び僕らの距離がひらく。

 まるで何ごともなかったかのように。


「おやすみ、弓月くん」

「おやすみなさい」


 彼女はやわらかい笑みをひとつ残して、ドアの向こうに消えていった。


「……」


 僕は安堵のため息を吐く。

 ひとまず今日の僕には合格点をあげてもいいだろうか。

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