妖怪百面相、花火を見る
怪獣とびすけ
第一章 ぬりもめっぱ
第一話
ある朝、百枝通が目覚めると、自分が家の外壁に変わってしまっているのに気が付いた。
などと、カフカの変身を真似ている場合ではない。
どうやら今日ははずれを引いたらしい。存外に視野は広いが、壁なので当然ながら手足はなく身動きが取れやしない。先週の入内雀を超える大物だ。
目を開いてすぐさま自分が壁だと気付いたわけじゃない。
あらん限りの力を眼に(実際に眼はないが)凝縮させて、きょろきょろと辺りの様子を探った結果、まず、ここが我が家の庭先だと知れた。妹が理科の課題で植えたアジサイの花壇が視界の左隅に入っていたからだ。
記憶が確かならば、アジサイの花壇は縁側の右脇にあった。それが視界の左隅にあるということは、俺の位置はそこからさらに右。視線の高さは普段の俺の身長より高いくらいだ。そんな場所には足場も何もない。壁面しかない。
最初は壁に張り付くことのできる虫か何かになったのかと思った。
先週の入内雀だって、まぁ、壁のすり抜けができるだけで、あとはただの雀だ。妖怪にはそう詳しくはないが、蜘蛛やイモリみたいな外見の妖怪だってそりゃあいるだろう。
けれど、俺は身動きが取れなかった。手足を動かせなかった。体を縛られているわけでもない。となれば、俺はおそらく生き物の姿をしているわけじゃない。
無機物。物体に過ぎないのでは?
その考えに至ればあとは簡単。この場にある無機物は一つだ。
俺=壁。シンプルな答えに辿り着く。
証明終了。
……だからといって、問題が解決されたことにはならないけどな。
「茂登子ちゃん茂登子ちゃん、今日のお弁当のおかずなーに?」
「もー、げんちゃん、お弁当の時間まではひーみつーだよー☆」
塀の向こうからバカップルの会話が聞こえてくる。
あれは同じクラスの伊本玄二と浅木茂登子だな。そういえば先月末から付き合い始めたとかって報告をしていた。
のんきな会話は微笑ましく映ることもあるが、今の俺には苛立ちを加速させるものでしかない。
というか、あいつらが揃って歩いているということは、もう登校時刻だってことじゃねえか。
まずいな。ただでさえ最近は授業をサボりがちなんだ。そろそろ担任の怒りも閾値に達す。
とはいえ、妹はすでに小学校へ向かっているだろうし、両親は仕事の身支度で忙しい。
そもそも妖怪の存在がばれるから家族を頼ることはできないのだ。思い出せ。
腕一本、足一本さえ動けば、自力で妖解もできただろうが、いかんせん壁だ。そんなものはない。
となれば、最後の手段。
二度寝である。
転換すれば、さすがに壁よりはマシな何かになれるだろう。
次に目覚めるのはいつになるのか、登校の時間がどんどん遅れていくだけなのではないかという不安もあるが、他に手はない。やるしかないだろう。
さて、それでは、おやすみなさい。
――なんて、俺が諦めかけた瞬間に、いつだって救世主は現れる。
まず視界に入ったのは、我が校指定の鞄である。それが塀の向こうから飛んできた。
次に、癖の強いはねっ毛。さらにぱっつんと切られた前髪がのぞき、長いまつげに、異様な輝きの灯った瞳、うっすらと陰鬱な隈。そして、整った鼻と唇。
我が校の制服に身を包み、腰には水筒。
「塗り壁」
スカートの中が見えないよう器用に塀を乗り越え、彼女は我が家の庭先へ降り立つ。
「福岡県遠賀群の海岸沿いに発生するとされる。夜道を歩いていると、突然に目前へ壁が出現するようになり、どこへも進めなくなる。対処法は、壁の下部を棒で払うこと。一般的には、小さな目玉と手足のついた、灰色の壁の姿をした妖怪として知られるが、創作に過ぎない。三ツ目の白犬の姿をしているという説もあり、たびたび論争が起こる」
長々と妖怪の概要を並べ立てながらも、相棒は俺へと歩み寄ってくる。
一歩一歩、足を進める度に、踏みしめた雑草が音を立てた。
「なんでわかったんだ?」
俺はこいつに助けなんて求めていないのだから居場所など把握できないはず。ましてや、妖怪の種類なんてわかるわけがないだろう。
「まったく、やれやれだよ。声を出せるのなら初めからそうしてくれれば、もっと早く済んだのにね。百枝くんが私に朝の定期連絡を入れられない状態になっている。姿を変えて私の前へ現れる気配もない。百枝邸の周囲を探っても普段となんら変わりない。だとしたら百枝くんは今現在どういう状況なのか? 消去法だよ」
「だからって一つの妖怪までは絞れないだろ」
「自分の姿が見えないようだから教えてあげよう。百枝くんが同化している部分だけ、壁が少しだけ白く変色しているよ。壁に人影が浮かび上がっていると言い換えても良い」
言葉通りの姿を頭に思い浮かべてみる。
なるほど、先に俺の家族に見つかっていたら大騒ぎになっていただろうな。
「さて、下部を棒で払えば消えるらしいが、もしかしたら百枝くんごと消えるかもしれないね。ここはいつもの方法にしておこうか?」
「それ訊く意味あんの?」
「よろしい。えーっと、塗り壁は――――うん、これか」
腰に吊した水筒の中から一枚のお札を取り出す。お札には確かに草書体で『塗壁』と書かれているようだった。彼女はそれを右拳へ乗せる。
「頭はこの辺りかな」
額の辺りを左手で優しく撫でられ、次の瞬間には、
「とおらあっ!」
後方に振りかぶられた右拳が俺の額に直撃した。
「ぐぅ……っ」
電流が走ったように、鋭い痛みが全身に広がる。叫び声も上げられない。怖気が走り背中から冷や汗が垂れているようだ。神経を痛みに集中させなければ耐えられそうにない。
「ひゅー……ひゅー……ふ…………」
アフリカの恵まれない子供たちのことを考えながら五分も痛みに耐えていると、ようやく相棒に恨み言を呟く余裕が出てきた。
「お……お前……いつもいつも……もうちょっと……やりようがあるんじゃ……」
「無事に人間へ戻れたようでなによりじゃないか」
「……はー……ふ……ん……?」
視線を動かす。左右には腕、下を見ればジャージを穿いた俺の足があった。
立ち上がり、両手を握って開いて、右足を振る。違和感はない。
おお、戻っている。
「あれ、もしかして、まだどこか具合が悪いのかな? 大変だね。よし、もう一発いってみよう!」
「迅速な救援をありがとうこの恩は忘れねえぜ」
「よろしい」
俺の返事を聞き、満足げに微笑む。
彼女が身を翻すと、我が校の女子生徒にしては少し長めのスカートが、風に舞い綺麗な円を描いた。
それに示し合わせたように、満開の季節を過ぎ青々と茂った桜の木から、数枚の葉が落ち、宙を踊る。
「では私は先に学校へ行くよ。放課後までには塗り壁の力について概要をまとめておくように」
先ほど自分で投げ込んでいた鞄を拾い、ぱんぱんと土を払う。
塀をよじ登り、来た時と同じようにスカートを押さえて乗り越え、向こう側の歩道へ消えて行く。
直後に、塀の向こうからは「え……ちょ、ちょいちょい、なんで? なんで春鳥さんが百枝君の家から出てくるの?」という声があった。
あれは近所に住む愛宕のものだろう。
春鳥の返事はない。
愛宕の存在など気にも留めず、彼女はすたすたと学校へ向かっていっただろうことが推測される。
……少し自由すぎませんか。
しかし、これが俺の相棒。
名を春鳥奈散という。
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