第2話 月下秋乃の赦免


「ねぇ秋乃、知ってる。夏になるとよく海で電気クラゲに刺されれて人が溺死できししたって話聞くじゃない。だけどあれって電気クラゲの毒で身体が麻痺まひしておぼれるんじゃないの。本当は刺されたときに感じる激痛に驚いて溺れるそうよ」


「へえ、じゃあクラゲに刺されたとしても冷静に対処すれば溺れはしないんだ」


「うん、でも電気クラゲに刺されるとかなり痛いらしいから、知ってたとしても冷静でいるのは無理な話だと思うよ。驚きみたいな反射行動は意思じゃどうにもならないから」


 場所は学校の教室。時間は昼休み。わたしと日嗣はコンビニ弁当を食べながら世間話に興じている。日嗣はわざわざわたしと向かい合わせになるように椅子を机の正面へ移動させていた。  


 わたしはハンバーグ弁当のかなめであるハンバーグの最後の一口を咀嚼そしゃくし終えると改まって日嗣に顔を向ける。日嗣はミートソースいっぱいのスパゲッティをプラスティック製のフォークにこれでもかと巻きつけることに集中していた。


「そのさ、日嗣‥‥‥言いにくいんだけど‥‥‥」


「ん、どうしたの。私は何を言われてもかまわないよ」


「もしかしてわたしに役に立つか立たないかよくわからない豆知識を披露ひろうするためだけに、四限目終了五分前に学校に来た訳じゃあないよね。そんでもって、そのこってりしたミートソーススパゲッティを食べ終えたら帰ろうなんて思ってないよね」


「何言ってるの、勿論もちろんそうに決まってるじゃない。わたし、基本的に学校嫌いだもの。というか学校好きな人なんてこの世にいるの。もしいるなら会ってそいつの意見を論破してやりたいものね」


 綺麗なんだ声でさも当然のようにそう発言する日嗣ひつぎの姿からは、昨日公園で見たあの美しい獣の様相ようそうは想像出来なかった。そこにいたのは、ありえないほど美人な引きこもりの少女だった。


「日嗣、悪いけど言わせてもらう。あなた何で学校に来たの」


「酷いね、秋乃あきの。学校って普通みんなが行かないといけない所じゃないの」


「日嗣がそれを言うと違和感しか感じられないよ」


 口ではこう言うものの、普段クラスに話し相手がいないわたしは内心、密かにこの会話を楽しく感じていた。クラスで弁当を食べながらこうして女子同士で話し合うなんて高校に入学してから初めてではないだろうか。伸元のぶちかや部長とは、クラスが違うので一緒に昼食を食べることはなかった。しばらく体験していなかった楽しさから自然とほほが緩むのを感じた。


「そんなこと言わないでよ。別に昨日テレビで知った豆知識だけを話に来た訳じゃないの。一応、貴女とじっくり話をしたくて来たのよ」


 正面きって真顔でそう言われて、恥ずかしさから思わず目を背けてしまう。わたしと話すためにわざわざ嫌いな学校まで来たのか。そう思うと嬉しいものがあった。


「ええっと、 じっくり話すって何のことを」


「昨晩の続きの話よ。いくつかきたいことがある」


 その一言で心拍数がぐんと上がる。学校で、夢から覚めたこの場所でその話をするのはわたしが最も避けてきたことだった。


「やめてよ、日嗣。今は嫌」


 今までのよろこびに満ちた声とは遥かにに違う、自分が思っていた声よりも数段低い声でわたしはそう言った。


「どうして。昨日の夜はあんなに話してくれたじゃない。それにいつつか質問するだけよ」


「それでも、わたしは嫌」


 そうして、無言で睨み合う。そんな中でも、日嗣はいつもの微笑を浮かべていた。その瞳の奥に昨晩の獣が身を潜めているのが分かる。それでも、わたしにも譲れないものがあった。あの家を忘れられるこの場所で、父の影を感じるのは絶対に嫌だった。


「まあいいわ。貴女の問題なんだし。私がとやかく言うのは間違ってるだろうしね」


 実際の何倍にも感じられた数秒間の後に、日嗣はそう言って視線をらした。


「ごめんね。でも本当にここで父の話をするのは嫌なの」


 かすかに感じる罪悪感からそう言うと日嗣は首を横に振る。


「いいの。言ったとおりこれは貴女自身の問題なんだから。だけどそう思うなら一つだけ質問させて。別にそう身構えなくていいわ。多分大したことじゃないから。これくらいの質問、誰だってするだろうし。それに、昨日も言ったけど私の質問には答えたくなければ答えなくてもいいのよ」


「まあ、そう言うならいいよ」


 わたしは渋々そう返事する。


「よし、じゃあ聞くけど、秋乃の父さんっていったいどれくらいお酒を飲むの」


「もちろん結構飲むよ。三日に一度は近所のコンビニに買いに行ってるくらい。ほら、あの公園の近くにコンビニあるよね。あそこに夜買いに行くんだ」


 もちろん、その夜中の買出しには、母が一生懸命仕事で稼いだお金が使われていることは、今は口にしなかった。


「そう、大変だね」


 含みのある言い方で日嗣はそう言うと、フォークに巻きつけたミートソーススパゲッティの塊に食らいついた。唇についたミートソースを買ったとき一緒に付いてきたお手拭きで上品にき取ると、残り少ないスパゲッティをフォークに巻きつけていく作業に戻る。


「‥‥‥ねえ、わたしは昨日公園で」


「どうかしたの」


「いや、やっぱりいいよ。なんでもない」


 わたしは公園であなたの質問に何と答えたのとは聞けなかった。それはただの恐怖心からか。ひょっとするとわたしは日嗣が父を殺してくれることを心の奥底では望んでいたのかもしれない。


 日嗣はうなずくと、スパゲッティの最後の一巻きを名残惜しそうに食べきった。


「そうそう、秋乃って部活とかやっているの」


 すると、いきなりなんの脈絡みゃくらくもなくそう聞いてくる。


「やってるよ。文芸部。あんまり部員はいないけど楽しいよ」


「意外だな。てっきりそういうことはしないタイプだと思ってたよ。私と同じで極力面倒な事は避けるタイプだって」


 ずいぶんと失礼な第一印象だと思う。もっとも大方当たってはいるが。


「いや、日嗣の見立て通りだよ。わたしも面倒な事は嫌い。だけどあの家にはあんまり居たくなくて。それに、やってみると案外楽しいもんだよ。とは言っても特に何もしていなくて、ずっと話してるだけだけどね」


「それでもいいじゃん。そういうの青春ぽくてさ」


 そう言って日嗣は笑う。


「青春か‥‥‥これがそうなら普段のわたしの人生はどれだけつまらないものなんだよ」


 こんな暮らしが青春ってものならそれ以外の人生はどれだけ堕落するのだろうか。それじゃあ、人生の大半が恵まれないなんて言葉じゃ言い表せないほど不幸なものになってしまう。


 「いけない、もうこんな時間だ。確かあと五分で五限目の授業始まるんだったよね」


 日嗣が自分の腕時計を見て言う。その様子はわたしに不思議の国にいる白ウサギを連想させた。


「おお、よく普段から学校に来てないのに時間分かるね」


 わたしが悪戯いたずらにそう返す。


「昨日来たとき時計は見ておいたからね。午後の授業の時間配分は知ってるよ。午前はさっぱりだけど」


 そう言いながらテキパキと素早く弁当のゴミと荷物をまとめていく。


「日嗣、本当に帰るつもりなの」


 驚きに満ちた声でわたしがそうたずねる。


「もちろんだよ。私は嘘を吐かない。嘘を言うくらいだったら初めからそんな話はしないのがコツだよ」


「いや、別にコツはいいよ。それよりこのシチュエーションでそんな自信有りな顔しないでよ」


 そう話している間に日嗣は身支度みじたくし終えたようだった。何が入っているのか重そうな鞄を肩にかずく。机の正面にあった椅子を机に戻すすとわたしに向き直る。


「じゃあね、秋乃。いつか気が向いたらまた会おう。ひょっとするとまたあの公園で会うかもしれないけどね。私はそうならないことを祈ってるよ」


 わたしが大きく溜息を吐く。


「じゃあね。わたしもそう祈ってるよ」


 返事を聞くと日嗣は足早に教室を後にした。その綺麗な長髪をはためかせて。


 残されたわたしに集まる好奇の目線は実に気持ちの悪いものだった。あと数分後の授業開始時間を、これほどまで待ちわびたことは一度としてなかっただろう。チャイムが鳴りクラスメイト皆が席につくその時まで、心の中でわたしを孤独に戻した日嗣に恨みごとを言い続けた。

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