隣国からの訪問者10

 脱走王女の異名を取る彼女の名は宮殿に仕える者の中に知れ渡っている。どこからか耳に入ってもおかしくはないのだ。

「ええそうですわ」

 メイリーアはおずおずと箱をノイリスの前に差し出した。

 ノイリスが興味深そうに見つめる。

「中身はなんですか」

「お菓子、です。ルイーシャ達へのお土産なの」

 そう言ってメイリーアは小箱を開けて見せた。中にはちょっと形が崩れてしまっている焼き菓子が数種類型身を寄せ合うように詰まっていた。宮殿への侵入するときにうっかりして振動を加えてしまったのだ。形は悪いけれど味は折り紙つきなのだ。

「へえ、美味しそうですね。姫のお気に入りでしょうか」

 ノイリスはしげしげと覗きこんだ。もしかして彼もお菓子に興味があるのだろうか。今日まで数日間何度か過ごす機会はあったけれど、そんなこと一言も言っていなかった。別に隠すことでもないはずなのに。

「ええ、まあ…。とっても美味しいんですのよ。ノイリス殿下もおひとついかがですか」

「いいんですか」

 なんとなく話の流れでメイリーアは目の前の王子に『空色』のお菓子を勧めた。美味しいのは確かなのだからいいのだけれど、自分も関わっている店の商品だと思うとなんとなくだけれど気恥かしい。

 ノイリスが素直に箱の中に手を伸ばそうとしたのでメイリーアはおや、っと意外に思った。一応こちらから提案したことだったけれど、王族が易々と市井で売られているものに手をつけようと思うとは思わなかったのだ。自分のことは棚に上げて感心した。

 しかし、箱の中のクッキーに手をつけるか、つけないかといった瞬間第三者の声が割り込んだ。

「殿下…」

 それまで影のように気配をひそめていたノイリスの騎士であった。金茶髪のノイリスとは違って灰色がかった暗い色の髪を短く刈り込んだ騎士はメイリーアの持つ箱を注視していた。その瞳は箱を射抜かんとしているようだった。

 メイリーアは成り行きを不思議に思って眺めていたが、ふいに思い当って慌てて口を開いた。

「あっ、ごめんなさい。一国の王太子殿下に無闇に市井の物を勧めるなんて。ええと、その何も悪いものは入っていないんですけれど、配慮が足りませんでしたわ」

 ノイリスの騎士が何を警戒しているのかを察したメイリーアは大急ぎで弁解をした。『空色』の商品に悪い物なんて入っていないし、もちろん食べてお腹を壊すこともない。これが他の人間ならメイリーアだってそういう疑いを持たれて腹を立てたかもしれないが、相手は一国の王太子だ。護衛が細心の注意を払うのは当然のことだし、いくら一国の姫が勧めたものであっても出どころが不明のものを見過ごすわけにはいかないのだろう。

「グレイアス、いい。さがれ」

 ノイリスは短く言葉を発して傍らの騎士を下がらせた。その言葉にグレイアスと呼ばれた騎士は不満を持ったのか、そのまま微動だにしなかった。

 主人を守る騎士としては当然だろう。

 ノイリスはメイリーアに対するのとは全く違う、厳しい視線を投げた。しばしそのまま二人とも沈黙を保ったままであったがノイリスはふう、と息を吐いてメイリーアの方へ一歩足を踏み出した。思いがけず近しい距離になってメイリーアの方が少しだけ身を引いた。やっぱりまだ男性と近しい距離というのは慣れないのだ。

 ノイリスはゆるりと笑みをこぼしておもむろに小箱の中から三日月の形をしたクッキーをつまんで、そのまま口の中に入れた。

 グレイアスが止める間もなくあっという間の出来事で、メイリーアも面食らってしまいそのままノイリスが呑気に咀嚼する様を眺めた。

「美味しい…」

 ぼそりと呟かれた言葉は誰に聞かせるというものではなく、彼自身の中から自然に湧いて出たようなものだった。ノイリスは何かを確認するかのように焼き菓子を持っていた手を凝視していた。

反対にこの一言でメイリーアはノイリスへ好感を持った。

「本当ですか?」

 それでも疑り深く尋ねてしまうのは、差し出したお菓子が宮廷付菓子職人の手製のものではなく市井で調達してきたものだからだ。王家御用達の店ではなく下町の菓子店の品物であるからなおさらだった。もちろん美味しいのは折り紙つきだったが隣国の王子様の口には合わないかもしれないという思いがほんの少しだけ頭の中に有ったのも事実だ。

「本当ですよ。なんだか懐かしい味がします。この三日月の形をしたクッキーはガルトバイデンではごく当たり前というか、定番の菓子なんですよ」

 今ノイリスが口の中に入れたのは白い色をした焼き菓子で、三日月の形をしたものだった。小麦ではなく木の実を粉末状にしたもので生地を作るからか、口の中に入れるとほろほろと解けるような食感を持っている。そして少しの衝撃でも崩れやすいのでメイリーアの中の扱いにくいお菓子上位一位の座に君臨している。あくまで売り子目線であるけれど。

「そうなんですか。確かに他のお店では見たことがなかったな、と思っていましたわ」

 メイリーアは得心がいった。

「ええ、あまり王宮ではだされないですが、私もこの菓子は知っています。ガルトバイデンではクレースセットと呼ばれて親しまれているんです。まさかトリステリアで見ることになるとは思わなかったな。どちらでこれを?」

 ノイリスは感慨深げに呟いた。見知らぬ土地で思いがけず出身国の食べ物に出会って感動しているようだった。

 そして今度はメイリーアが困る番でもある。何しろ自分が売り子をしている店の商品だ。店名など伝えられるはずもない。王女と売り子の二重生活は誰にも知られるわけにはいかないのだ。

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