隣国からの訪問者3
「別にあれはたまたまよ…。いつも道草しているわけじゃないのよ」
「ま、いいさ。それよりもこれ」
そう言って作業台の上に置かれた皿をメイリーアの方に差し出した。普段は作業台の役割も担っている厨房の真ん中に置かれた大きな机の上にはほくほくと湯気を立てた、見知らぬ一品が置かれていた。
ちょうど入ってきたルイーシャも物珍しそうに差し出された調理済みの食べ物を見降ろした。
「なあに、これ?とってもいい香り。美味しそうね」
「あーあれだ。さっきレオンの言っていたトリスティ・ブレッド」
どことなくきまり悪そうな顔をしてアーシュが髪をかき上げた。
「これがそうなの?こういうの初めて見るわ。ルイーシャはどう。見たことある?」
メイリーアは物珍しそうに皿の方に顔を近づけて、すぐ隣で同じようにトリスティ・ブレッドを興味深そうに眺めるルイーシャに尋ねた。
「いいえ。初めてです。これはどういった料理なんでしょうか」
「名前の通り、トリステリアの庶民料理ってところかな。俺もこっちにきて知ったんだけど。固くなったパンを食べる時にさ、卵とか牛乳とか砂糖とか混ぜた種にこうしてパンを浸けておいてしみ込ませるだろ。それをバターを溶かしたフライパンで焼くんだよ、こんがりと。で、お好みで蜂蜜とかかけて食べるっていう。ま、おやつみたいなもんだな」
アーシュは説明しながら戸棚の方から蜂蜜の入った壺を取りだして作業台の上に置いた。皿の上には厚切りされたパンがふた切れ。その表面は黄色く染まっていて、きつね色に焼けている。たしかにこれの上に蜂蜜を掛けて食べたら絶対に美味しい。
メイリーアはごくりと唾を飲み込んだ。
「これ、わたしたちが食べてもいいの?」
「ああ。レオンのやつが作ったのより絶対こっちのうまいからな。なんせ現役の職人の手製だぜ」
差し出されたナイフとフォークをありがたく受け取って、蜂蜜を垂らしてみると、もう我慢の限界だった。
「いただきます」
一口大に切り分けて二人同時に口の中にそれを放り込んだ。あつあつのパンはたっぷりと卵種を吸いこんでいて、独特の食感を生んでいる。甘い生地をさらに蜂蜜の甘さが包み込んでぎゅっと噛めば噛むほど天国へと誘ってくれるかのようだ。程よくこんがりとしたカリカリ感もアクセントになっていてちょうどよい。
「んんんん~~っ。美味しいわ。こんなにもおいしいなんて、わたしは今まで随分と損をしていたのね」
「本当、美味しいですね。メイリーア様」
メイリーアとルイーシャは美味しいと口々に言いながらあっという間に平らげてしまった。お城のお茶の時間に出してもいいくらいに美味しかった。こんなお菓子があるなんて今まで知らなかったし、グランヒールの菓子店には何度も通ったが少なくともメイリーアが訪れた店のメニューにトリスティ・ブレッドはなかったはずだ。
「そう言ってもらえると職人冥利に尽きるよ。ま、俺の作る菓子は全部美味しいんだけどな」
「まぁた、そんな大口たたいちゃって。でも悔しいことに本当にアーシュのお菓子って美味しいのよね」
「そうか」
メイリーアは素直に認めるとアーシュは照れたように頬を少し赤くして目を和らげるのだ。なんだか子供みたいで、メイリーアはそういうアーシュを見ると心がざわざわするのだ。いつもの、怒っていたり機嫌悪そうなアーシュとは全然違っていて、なんだかこっちまで照れてしまう。
アーシュは機嫌よさそうに先ほどのフライパンにバターを滑らせてボウルから浸けこんだ種を流し込んだ。ジュワっという音とバターと卵の合わさったような良い香りが充満する。つい今しがた満足した胃袋がまたお代りを要求するようにきゅっとなる。
それにしてもずいぶんと機嫌がよさそうだ。先週から何度かきちんと代金を払い、彼の作ったお菓子をお土産に買って帰って、食べた感想を伝えているがそのときもメイリーアが褒めるとアーシュは少し驚いた顔をしてみせ、それから相好を崩すのだ。
職人は自分の作ったものを称賛されるとあんなにも喜ぶものなのね、メイリーアはアーシュのそんな表情を眺めながら、今度一度宮殿の菓子担当にお礼を述べに行こうかと思ったのだ。
両面ともきつね色の焼き目をつけたトリスティ・ブレッドが一つ、空になった皿の上に提供された。
「晩飯もあるんだから二人であとひとつな。仲良く分けろよ」
「ありがとうっ」
メイリーアの礼にアーシュは鷹揚に頷いてから店の方に声をかけた。
声にこたえるようにフリッツが顔をのぞかせた。
「お前も食うか?」
「いえ、僕はいつも師匠の手料理というかお菓子の味見とかしていますから。今回は遠慮しておきます」
なるほど、二人は一緒に上の階に住んでいるとのことだから普段から色々と作ってもらっているんだろう。それはそれでうらやましいな、と思うメイリーアなのだ。アーシュのお菓子食べ放題という生活も悪くない。それくらいアーシュのお菓子は美味しいのだ。
まあメイリーアにとってはよっぽどのことがない限りたいていのお菓子は美味しい部類に入るのだけれど。
「だったらこれ、隣に届けてくれ。このあいだも残り物のチーズ分けてもらったしな」
「ああ、そうですね。ミレーヌさん喜びますよ」
『空色』の隣はチーズ店でよく売り物にならない半端もののチーズをおすそ分けしてもら間柄らしい。フリッツは皿に盛ったそれを片手で持ってするりと店から出て行った。
「美味しかったわ。アーシュありがとう」
「ごちそうさまです」
ルイーシャが食べ終わった皿を洗い場の方へ持っていきそのまま洗おうとしたがアーシュが制した。
「いいよ。後でまとめてやっておくから」
「ありがとうございます」
働き始めてから一月弱。当初とは違い随分と丸くなったものである。
そういえば今日は何かを伝える予定だったような…、メイリーアは頭の中をひっくり返した。
「どうしたんだ。そんな難しい顔して」
「思い出したわ!わたしアーシュに伝えないといけないことがあったの」
メイリーアは突然大きな声を上げた。大切なことだったのに、『空色』が楽しすぎてすっかり忘れていた。ついでに言うならあんまりよいことではないのでこのまま記憶を風金しておきたかったがそうも言ってはいられない。
「伝えること?なんだそれ。ああ待て、そのうちフリッツも帰ってくるからそのあとな」
「ええ、分かったわ」
ほどなくしてフリッツも手土産としてチーズを持って帰ってきたのでメイリーアはしばらく家の事情で忙しくなりあまり『空色』に来られなくなることを説明した。いまだに本当の正体は秘密にしてあるので、当たり障りのないことだけ伝えたのだ。さすがに隣国の王子様がやってきてその相手をする羽目になったとは言えない。
「ふうん。年末に向けて客が来て、家族からそいつらの接待係を命じられたから適度に相手しないといけないってことか」
貰って来たチーズをナイフで削って口に運びながらアーシュがメイリーアの説明を簡潔にまとめた。ナイフで直接チーズを削いで口に運ぶなんてお行儀が悪い…と思うのだけれどアーシュがやると不思議と粗野な印象にはならないのだ。なぜだろう。
「そうなの。だからこれからしばらくはあまり顔をだせなくなるの」
メイリーアとしても辛いところなのだ。これから頑張って店の仕事を覚えようというときによく知りもしない人物の相手をしないといけないのだから。
「ま、しょうがねえんじゃないの。貴族にも色々と付き合いってもんがあるだろ。うちは別に困らないから。好きなだけ相手してやれ」
アーシュは意に介したこと風でもなくさらりと言ってのけた。まるで明日は晴れるのか、そうか、といったような世間話のような体だった。別に大げさに嘆けとは言わないがもう少し残念そうにしてくれたっていいのではないだろうか。おまえが来ないとさみしいな、くらいあってもいいのに。別にさみしがれとは思っていないけれどこうも相手にされないとそれはそれで悔しいのだ。
「なによ、もうちょっと感情こめなさいよ。まるでわたしたちが店にいなくても全然平気見たいな言い方じゃない」
さすがにカチンときてメイリーアはつい口調を強めて反論した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます