とにもかくにも売り子デビュー4
『空色』の午後は割と平和だ。
数十年前の製糖技術の発達により従来よりも安価で砂糖が出回るようになったことに加えて近年それまで貴族や王族に召し抱えられていた菓子職人が街に独立店舗を持つようになった。そういった人物たちの台頭により菓子は大衆にも広がりを見せている。
お菓子が一部の特権階級の者たちが楽しむものではなくなり、幅広い階級に日常的に甘いものを楽しむという習慣が身につきつつあるが、それでもやはりぜいたく品であることに変わりはない。
とくに『空色』が店を構えているのは下町だ。活気はあるけれどもここに居を構える人間の収入はあまり豊かとはいえない。旧市街と呼ばれる入り組んだ細い路地が縦横無尽に連なっている細い通りの片隅に『空色』は店を出している。
今では迷わずに店に通えているメイリーアであるが出勤当日はフリッツに書いてもらった手製の地図を頼りに歩いても途中何度か道に迷った。当然その分出勤時間が遅くなりアーシュにいやみを言われたのだが。
今日もメイリーアが店に姿を見せてから来店した客はほんの十人を少し越えたくらいの人数だ。いつも通っていた王都の人気店は人がひっきりなしに訪れていたので、メイリーアは菓子店というものはいつでも商売繁盛来客万来だと思っていたのだけれど、実際は少し違ったようだ。
「いらっしゃいませ」
カランと扉に取りつけたベルが鳴って一人の老人が店に入ってきた。
「やあやあ、今日も元気に失敗しているかね」
白い髪の毛にたっぷりのあごひげを蓄えた老人は軽快に尋ねてきた。
「別にいつも元気に失敗はしていません」
メイリーアは笑顔を保ったまま返した。
「そうかいそうかい。それにしてもあの短気な青年の元でよく続いているな、と感心しているんだよ。あれに対処できるのはフリッツくらいかと思っていたわ」
そう言って老人は人好きのする笑みを浮かべた。メイリーアが働き始めてこの老人に出くわすのは数回目だ。もちろん諸々失敗だらけの黒歴史も彼には知られている。
名前を出されたフリッツは、いやあと笑って見せた。
今店頭にいるのはメイリーアとフリッツの二人で、ルイーシャは厨房でひきつった顔をしながらアーシュの手伝いをしている。
最初は二人とも店番を任されていたのだが、あまりの素人っぷりにアーシュとフリッツが引きつり監督代わりに男女の組み合わせで表と裏で仕事をすることに決まったのだ。
「そんなことないわよ。確かに怒られている方が多いけれどここで負けるわけにはいかないわ。お姉さまもいつも言っているもの、女には戦わなくちゃいけないときがあるのよ、って」
「ははあ。それはずいぶんと強気なお姉さんだね。」
「へえ、メイリーアさんにはお姉さんがいるんですね」
「え…まあ、ね」
うっかり口を滑らせてしまった。メイリーアは内心冷や汗をかいた。こんなことで素性がばれることはないだろうけれど、あまり家族のことに触れない方がいいかもしれない。
「わしはこの店が出来たころから良く通っているんだけどね。最初のころは売り子もいたんだけど、ほら、あの職人の兄ちゃん。顔はいいのに怒ると怖いし怒鳴るしで。あれ目当てで店に入ってきた女の子たちも大体すぐに夢から覚めて逃げ出すんだよ」
「たしかに。よぉくみると顔はカッコいいのに長い前髪に隠れちゃっているのよね。あといっつも機嫌悪そうに眉間に眉を寄せているのよ。ああいうの良くないとおもうわ。でもここで逃げ出すわたしじゃないのよ」
メイリーアは前半で雇い主アーシュをこき下ろして、後半部分でえへんと胸を張った。
「あはは。師匠は黙っていれば顔だけはいいですからね。口と目付きが悪いのがたまに傷で」
フリッツも面白そうにメイリーアに同調した。長い付き合いなのか、この二人は師匠と弟子というよりどちらかというと気心の知れた友人といった体なのだ。
「そうだのう。黙っていればの、なんとかじゃね。良く最初のころは見てくれの良さに目を付けた付近の女たちがコロコロと騙されていたもんじゃ」
そう言ってお爺さんは昔の様子を思い出したのか、からりと笑った。
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