EX 運び屋の一日 1/3

 霧の立ち込めるロック・シティ


 朝でありながら、人や車がまばらに往来する中心街から遥かに離れた場所には廃墟に等しい人気ひとけのない建物がずらりと並んでいる。


 その中にポツンと佇むガレージの中、締め切られた一階のシャッターの奥では一人の男が懸垂けんすいをしていた。


 鉄骨部分に指を引っ掛けて重力に逆らう男は黒いズボンに上半身は裸という出で立ちで黙々と重力に逆らっている。

 その汗で濡れた剥き出しの肌にはしなやかでありながら逞しい筋肉が浮かんでいる。


 彼の朝は早く、かれこれ一時間以上も続けている朝のトレーニングも大詰めだった。


「ベックさん、そろそろご飯ですよ」


 見計らったかのように上方へと続く階段から声が聞こえ、特殊外部捜査官トランスポーターであるベック・オーウェルは最後の一回を終えてから手を放して着地する。


 ゆっくりと身を立ち上がると螺旋階段で二階へと移動。

 奥まった場所にあるシャワールームで簡単に汗を流してからズボンを履き替える。


 タオルで短く切り揃えた髪の水気を拭き取りながら事務所に戻ると、助手のジュリア・ベルトハインがエプロン姿で配膳をしていた。


 彼女は半年ほど前から住み込みでベックの下で働くようになったのだが、仕事で役に立ったと思えることはまだない。


 だが料理の腕だけは一人前なので、食事に関してベックは彼女にすべて任せている。


 そんな彼女はシャワールームから出てきたベックの姿を見ると、驚いたような表情をしてからプイッと顔をそむけた。


「トレーニングするのは構いませんけど、ちゃんと服ぐらい着てください」

「他人の脳みそは平気なのに、男の体はダメなのか?」

「それとこれとは話は別です」


 頬を染めながらジュリアは言う。


 その初心うぶな反応に苦笑しながら手に持っていたシャツを羽織り、自分のデスクの椅子にどっかりと腰を据えて書類だらけのデスクの隙間に置かれたコーヒーをすすった。


 こちらがシャツを着たのを確認してから、ジュリアはエプロンを外して自分のデスクに座って用意した食事に手をつける。


 そして小動物のようにちまちまと食事を口に運びながらチラリとベックのほうを見た。


「今日、私は大学に行きますけど、本当に朝はコーヒーだけでいいんですか?」


 普通なら、この時間のベックのデスクにはジュリアと同じようにトーストや片面焼きサニーサイドアップの目玉焼きなどが用意されているのだが、今日はコーヒーだけだ。


 嫌がらせではなく、ベックが事前に朝食が要らないことを伝えていただけのことである。


「いいんだ。俺も今日は外出だし、夕方までには戻る」


 端的に答えると、コーヒーを一気に飲み干して上着を手にとって螺旋階段を降りていく。

 その背中をジュリアが呼び止める。


「え? もう出るんですか!? 私は何を――」

「今回は何もしなくていい。

 君にとって勉学は大事だろう。

 それに、君がいない方が仕事は早く終わるんだよ。ワトソン君」


 茶化すようにそう言って、ベックはガレージに降りて不釣り合いな黒に赤の添えられた愛車――クロスラインに乗り込んでエンジンを入れ、中心街のほうへと走らせた。



―――――



 住まいであるガレージを出たベックは飲食店の立ち並ぶ通りにクロスラインを停車させ、ダイナーで食事をしていた。


 朝日が東の方向から顔を出してまだ二時間も経っていないが、店は朝から繁盛しており、人がひっきりなしに出たり入ったりを繰り返している。


 それをぼんやりと眺めながらカウンターに座り、ベックは注文したダイナー定番の朝のセットメニューのスクランブルエッグをつついていた。


 すると隣に擦り切れ薄汚れた衣服を纏ったホームレスのようなみすぼらしい男が座る。


「人間は目標を追い求める動物である。目標へ到達しようと努力することによってのみ――」

「――人生が意味あるものとなる。

 ……アリストテレスか」

「ほう。どうせ答えられんだろうと思っていたが、今時の人間から迷いなくその名が出てくるとは意外だな」


 ベックが男の呟いた引用を引き継ぐと、愉快そうに男はケタケタと笑う。


「これでも昔は文学青年だったんだ。

 友達の数より本の数の方が多かったし、大学の図書館の蔵書も七割がたは読み切った」

「それがまた、どうして運び屋トランスポーターなんぞに身を落とすかねぇ」

「どうしても聞きたいっていうなら教えてやっても構わないが、高くつくぞ。

 人間、触れられたくない過去に関してはどんな反応を返すがどうか分かったもんじゃないからな」

「ならやめておくよ。

 ただでさえこんな稼業なんだ。短い命をさらに縮めるつもりはないよ。

 まぁ、何の見返りも無しに話してくれるなら構わないがね。こう見えて口は固いんだ」


 そう言って肩をすくめる男を一瞥し、ベックは話を切り替える。


「さぁ、合言葉は言ったんだ。さっさと仕事の話をしないか情報屋。

 目標の予定は手に入ったのか?」


 まるで空気と話しているかのように男のほうを一瞥もせず、ベックは仕事の話をする。


 男はそんな彼の様子に肩を竦めると、懐から小さな封筒を取り出してベックとの間に置いた。


「言われなくてもちゃんと手に入れたよ。アンタためにわざわざ紙に印刷してやったんだ。感謝しろよ」


 軽い嫌味を言う情報屋に対し、ベックは封筒を受け取ると代わりにチップを差し出し、中身を確認する。


「確かに受け取った。これで奴らのところに踏み込める。ご苦労だったな」

「いいや。これぐらいなら大したことはない。

 これからも用があったら遠慮なく頼んでくれ。安くしといてやる」

「その代わりチップは多めに、だろ?」


 ベックは情報屋にそう言って代金を置いて立ち上がり、店を出てクロスラインに再び乗り込む。


 情報屋はわかってるじゃないかとばかりにニヤリと笑った。

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