5 告白


「…………い! …………おい!」


 誰かが自分を呼ぶ。目を開ければ、そこに心配そうなライゴウの顔があった。


「……無事なようだな。いったい何を考えている、死ぬ気か!?」

「いいえ。あなたが守ってくださると信じていました」

「…………何をバカなことを」


 ライゴウが呆れたように吐き捨てる。二人で檻の外に出ると、そこはどうやら森の中であるらしかった。

 夜空を見上げる。何があったか天を圧するガガンの威容はそこに無く、しかし飛行する術を持つ者たちが辺りを飛び回っている。彼らはまだ追撃を諦めてなどいないのだ。


「ライゴウ様、追手が迫っています。逃げましょう」

「……なぜお前がここにいる」


 答えず、ライゴウが慈乃を見る。その目には咎めるような色があった。


「樹海で別れたはずだ。俺を、不死を巡って争いが起きていることくらい分かるだろう。なぜまた俺につきまとう。そんなに死にたいのか!」

「やはり、私を案じてくださったのですね。嬉しいです」

「質問に答えろ! お前は何を考えている」

「私の考えていることなど単純です。あなたの側にいたい、あなたの力になりたい」


 ライゴウの手を両手で包む。戸惑う彼の顔を見上げて、慈乃は想いを告げた。


「あなたが好きです」


 返事は無かった。ややあって、ライゴウが恐ろしいものでも見たように目を逸らせる。

 そんな彼の全てを愛おしいと感じながら、慈乃は口を開いた。


「あなたと別れてから、冥界に行ってまいりました」

「何……?」

「船に乗って川を越え、白い砂漠に到着し、ひたすら進んだ先に冥王がおりました。彼は教えてくれました……あなたの犯した罪を、あなたに与えられた罰を」


「……ならば分かるだろう、俺はその程度の人間だ。誰かに愛されるような資格など」

「それは違います。なぜなら、今ここにいる私が、あなたを愛しているからです。あなたが御自身をどう思われようとも、私の気持ちは変わりません。少なくとも、ここに一人、あなたを心から愛する者がいます」


「……ふざけた話だ」

「悪ふざけでこのようなことが言えるほど、私は勇敢ではありませんよ」


 ライゴウの手を導き、己の胸に触れさせる……その早鐘のような鼓動が、彼に伝わる。


「……ね? 嫌われてしまったらどうしようと、本当は恐怖で震えているのです」

「…………」

「あなたが私を拒むというなら、それで構いません。あなたが私を愛せないというなら、それも構いません。あなたの側にいられる、それだけで私は満足です。でも」


 ライゴウを見る。彼の顔を見据えて、力強く言い切る。


「あなたがなお死を望むなら、死ぬ術を探したいのなら、私はもうそれを手伝いません」

「……なぜ?」

「あなたに生きてほしいからです。生きて、そして幸せになってほしいからです」

「…………」


「初めて会った頃、あなたは言いましたね。生きることの本質は絶望だと。希望があればこそ、それに立ち向かうこともできると。私はまだ、その言葉の全てが分かっているわけではありません。ですが、これだけは言えます。私にとっての希望は、あなたなのです」

「俺が……お前の、希望だと……?」


「あなたといると勇気が出ます。あなたがいないと不安になります。あなたと一緒なら、なんでもできる気がします。あなたが哀しいと、私も泣きたくなります」

「……、…………」


「生きる希望を奪われたあなたならば、私があなたを失うことをどれだけ恐れているか、分かっていただけると信じています。他には何も望みません……生きてください」


 手を振り払われる。ライゴウがこちらに背を向ける。頭を抱えて沈黙する。


「……急にそう言われても分かるものか」

「今すぐ分かってくれとは言いません。私がこれからそうするというだけです」


 ガサガサと茂みを掻き分ける音が近づく。慈乃とライゴウの顔に緊張が走った。


「のんびりし過ぎたか」

「ライゴウ様、この剣を!」


 用意していたものを手渡す。イーブリーに見立ててもった、クオンツァの名刀である。


「これは?」

「ザンの剣が粗悪だと嘆いていらっしゃったので、あなたに使っていただこうと買い求めました」

「買った? お前が? どうやってそんな金を工面した」

「クアンプールのカジノで、ドカンと大金を稼いだのです」

「……そうか……いや、うん、いいんだが」


 ライゴウが刀を抜く。二度、三度と振り、構え、鞘に戻す。


「銘は雷轟、あなたと同じ名の刀です。気に入っていただけましたか?」

「……まぁ、悪くないな」


 ライゴウが答える。まんざらでもない、とその顔に書いてあった。


「いたぞ!」


 茂みを突き破り、追手が現れる!

 慈乃は杖を構えた。ライゴウは己と同じ名の刀を抜いた。


「突っ切るぞ! 援護しろ、慈乃!」

「はい!」


 ――初めて、名前を呼んでもらった。




   ○   ○   ○




 追撃者たちは、執拗に襲ってきた。

 野を駆け、森を抜け、山を走り、二人は追手と戦い続けた。


 彼に守ってもらえることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

 彼を見た。名を呼んだ。後を追いかけた。


 この日、慈乃は希望を手に入れた。






 目を開ける。いつの間にか疲れ果て、木の幹に身を預けて眠ってしまっていたらしい。


「ライゴウ様……?」


 姿が見えない。どこに行ったのだろう。


 慌てて視線を巡らせ――すぐに見つける。

 こちらに背を向けて、ライゴウは日の光を浴びて輝く東の稜線を見詰めていた。


「……朝だ」

「はい、朝です。おはようございます」

「ああ」


 返事はするが、ライゴウは食い入るように朝日を見詰めて動かなかった。


「美しいな……美しい! 世界というのは、こんなに美しかったんだな」

「はい。これから綺麗なものをたくさん見に行きましょう。どこまでもお供致します」


 ライゴウの隣に駆け寄る。気づいて、彼がどこかはにかんだ様子で頬を掻いた。


「……昨日、お前が言っていたことを考えてみた」

「はい」

「突然過ぎて、すぐに答えは出せないが……お前が俺のことを希望だと言ってくれた時、多分……いや、きっと俺は嬉しかったのだ」

「……はい」


「いつか、お前がそう思ってくれていることを、俺自身も希望だと思えるようになったなら……全てに答えを出せると思う」

「待ちます。五年でも、十年でも、ずっと」


 彼の手を取り、その顔を見上げる。精一杯胸を張って笑顔を浮かべる。


「……ありがとう、慈乃」


 そう言うライゴウは笑っていた。




 きっと、心の底から笑っていた。





 ライゴウの体が砂になって崩れた。

 風に溶けて流れて消えていった。

 着ていた服と、彼と同じ名の刀と、僅かな砂の山だけが、その場に残っていた。





「……ライゴウ様?」


 彼の名を呼ぶ。何が起きたのか、分からなかった。

 一瞬前までライゴウのいた場所に、今は砂の山だけが残っていた。


「…………」


 辺りを見回した。どこかに隠れているのではないかと思った。

 誰もいなかった。何も無かった。


 ライゴウ=ガシュマールは、砂になって、死んだ。


「…………っ!?」


 風が優しく山肌を撫でる。ほんの少し前まで彼だった砂をそれが運んでいくのを見て、慈乃は慌てて砂の上に飛び付いた。

 我が子を守る母のように体を丸めて、風がやむのを待つ。


「…………」


 ようやっと風がやむと、知られてはまずい秘密を抱えているように辺りをきょろきょろと見回した。どうしてそんなことをしたのか自分でも分からない。

 立ち上がる。測量道具を取り出す。浄文陣を描く。


「大丈夫……死体が無くても、魂の存在さえ覚えている者がいれば……私が……だから、きっと……!」


 浄文陣が完成する。ガクガクと震えつつ、もはや自分の一部になっている呪文を紡ぐ。


わがまえのゆうとむよ

 ひよつきよゆめようつつよ

 とわなるせつなる

 よろずをなすちょうじんよ

 畏々かしこみかしこみもうしそうろう


 浄文陣の周囲で光が踊るが、何かおかしい……いつもよりずっと光が少ない。


われうれうはもうじゃのなげき

 われこばむはしせるつらなり

 われもとめるはゆきさるたましい

 われみちびくはおのれとうつしみ

 われうたうはいのちのよろこび


 焦燥が背を撫でる。恐怖が臓物を握る。希望と絶望が目の前を乱舞する。


めいかいのもんのはざまより

 はかなきみたまよめぐりてかえれ

 あまつちのことわりをこえて

 かみなるいりょくをあらわしたもう

 しんにしんにねがいたてまつる


 呪文を唱え終わる。何も起こらない。


 何も起こらない。


 ライゴウが生き返らない。ライゴウが生き返らない。


「……っ……じょ、浄文陣が少し歪んでいましたか。それとも呪文を間違えたのでしょうか」


 浄文陣を調べる……これでいいはずだ。


 ということは、やはり、呪文が間違っていたのだ。呪文が間違っていたのだ。

 大丈夫だ。生き返る。生き返らせられる。何も問題は無い。


「違うぞ。呪文が違う」


 横合いから声がかかる。聞いたことのない……いや、聞き覚えのある声。


「復活の呪文なんかいらない。ただ『安らかに眠れ』とだけ言ってやればいいんだ」


 黒渦がそこにいた。女の声が聞こえた。


「……………………ぅ、ぁ……」


 ようやく、慈乃は。


「…………ぁ…………あ、ぁあ……!」


 何が起きたのかを、何をされていたのかを……要するに、全てを悟った。


「ああああああああああああああああっ!」


 叫んだ。吼えた。杖を手に取った。


「お、おまっ……お前があああああっ!」


 風を絡ませた。突撃した。振り回した。


「お前が! お前が! ライゴウ様を殺したのか! お、おま……お前があああっ!」


 打った。突いた。薙いだ。叩いた。


「やっと笑ってくれたのに! 嬉しかったと言ってくれたのに! くれた、のにぃい!」


 殴った殴った殴った殴った殴った殴った。


「私の大切な人を! 私の愛する人をっ! お前が! お前が殺したのかああああっ!」


 黙って打たれ続けていた黒渦が倒れる。

 杖を捨てて、懐に残っていたありったけの符を虚空に並べる。


「神! 罰! 顕! 現!」


 胸の前で両の手を打ち合わせる。もっとも小さい粒と粒を融合、零れた力の全てを一方へと導く。そして放つは真白の波動、極限の熱量、地上にて顕現する日輪の欠片!


「……破魔ァ! 閃ッ! 光ォオオオッ!」


 大気が乱れ草花が舞い飛び、大地が抉れて気化して爆ぜる。山体を貫き、雲を突き抜け朝焼けの空を灼いた光の奔流は、凄絶な破壊の痕跡だけを残して虚空へと消えていった。


 万象滅却の激熱光波。ラトリウム史上発動三回成功二回という超高難度の禁術。対黒渦の奥の手……というより、あの魔物を倒すとなるとこれくらいしか思いつかなかった。

 保険のつもりで用意したが、正直なところ使う気も扱える自信も無かった。何しろ本来なら数十人がかりで編み上げる代物なのだ。限界を超えて酷使した脳が悲鳴を上げ、視界は暗く染まり――押し寄せる膨大な感情の波が、それでも意識を手放すことを許さない。


「うあああああああああああああっ!」


 肺の中の空気が無くなるまで叫び続けて、そして膝から崩れ落ちる。震える手で顔面を掻き毟り、かつて黒渦と呼ばれていた存在を糾弾する。


「全てはお前の企みか……何もかもお前の掌の上か……私も、ライゴウ様も……全部!」

「…………」

「答えろ……答えろッ! ……ユキナ=エウクレイデス!」


 黒渦だったモノの中から、一人の女が姿を現していた。


 白い髪と赤い瞳をした女だった。幾度も夢で見た、エウクレイデス王国の姫だった。

 ライゴウを愛し、彼に愛され、そして最後に見捨てた女だった。


「……お前の想像している通りだ。これ以上何を付け加える必要がある?」


 空を見上げて、女は言った。そのまま永遠に眠ってしまうのではないかと思うほどに、その声は疲れ果てていた。


「私の最大の罪は、白の魔王となって世界を滅ぼしかけたことでも、そこから逃げたことでもなかった。私のために、世界の全てを裏切ってくれたライゴウを、私自身が見捨てたことだった。どれほどの罪、どれほどの苦痛であろうと、私は生きなければならなかったんだ。私だけを生きる希望としてくれた、私がそこまで追い込んでしまった彼のために」


 頭の中で女の声がわんわんと響く。なのにまるで理解できない。

 巨大な喪失と、莫大な感情を処理するのに必死で、頭がまるで動かない。働かない。


「そのライゴウを見続けること、それが私に与えられた罰だった。死に場所を求めてさまよう彼を、私はずっと見ていた。何一つしてやれずに、私のせいで苦しみ続けるライゴウを。ある時、私は冥王に懇願した。彼を救いたいと。冥王は答えた――生きる義務を放棄したから死ぬ権利を失った。ライゴウがもう一度生きたいと望めば、生きる義務を果たせば、彼は死ぬことができると。そしてこの姿を与えられ、話すことも触れることもできずに、二百年彼を見詰め続けた。愛を失った傷を癒すのは、愛しかない……そう思った」

「…………」


「……一つだけ。お前のライゴウへの恋心はまやかしのものだ。私の記憶を追体験させることで彼への関心を増やし、この状況を作り出すためのな。きっとすぐに忘れ――」

「違うっ! 違う……私は、初めて会った時から…………あの時から!」


 頭を振って泣きじゃくって、ユキナの言葉を否定する。それは、その言葉だけは、何がどうあろうと認めるわけにはいかない。己の全てと引き換えにしてでも許容できない。


「………………」


 ユキナはそんな慈乃を静かに見詰めていたが、やがてフッと笑った。


「どうやら私たちは思っていたよりもずっと似ていたようだな……あの女ったらしめ」

「…………」

「私が憎いだろう。許せないだろう。だが、それでも私はお前に言いたい。この二百年、お前のような者をどれだけ待ったか……お前に会えた時、どれほど嬉しかったか……!」


 ユキナの体がボロボロと崩れ始める。ライゴウのように、砂になって消えていく。


「……ありがとう、慈乃」


 彼と同じ言葉を残して、ユキナは逝った。砂になって、風に溶けて、消えた。


「…………違う」


 力無く否定する。違うのだ。そうではないのだ。

 憎んでなんかいないのだ。いきなりそんなこと言われたって、憎めるわけがないのだ。


「私は……私はただライゴウ様に……」




 ――あの人に幸せになってほしかった。




 慈乃は泣いた。泣き続けた。









 一晩中イーブリーから逃げ回っていたザンは、偶然見つけたそんな一部始終を、無言のまま見詰めていた。


「……勝ち逃げかよ、クソッタレ」


 砂になったライゴウを見る。悔しかった。ただひたすらに悔しかった。

 慈乃の慟哭が耳に響く。あの涙を、生涯、忘れまいと誓った。

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