4 追撃
朝日を感じて目を開ける。体を起こす――一晩とはいえゆっくり休めたからか、薬草茶が効いたのか、万全とはいえないまでも慈乃の体調はかなり良くなっていた。
身だしなみを整えて、荷物をまとめて部屋を出る。廊下に出て最初に目についたのは、扉のすぐ横に座りこんで眠りこけているザンの姿だった。
「ザン?」
「ん……なんだ、もう朝かよ。ちっとは元気になったか、御嬢」
「お陰さまでそれなりには。こんなところで何をしていたのです?」
「何って、見りゃ分かるだろうが」
身軽に跳ね起きてニッと笑う。もしかして護衛でもしてくれていたのだろうか。
「ライゴウが来るんじゃねェかと思って待ち伏せてた」
「はい?」
「分かるか? 御嬢をごっちゃんするためにだな、ライゴウが来るんじゃねェかと思って待ち伏せしてた。乳繰り合ってる最中ってのは、どんなヤツも隙だらけだからな」
「……何を言わんとするのかいまいち分かりかねますが、ライゴウ様が私に会いに来るということはありえませんよ。あの方の目は、今を見てはいません」
「そうか? 結構気にかけてるように見えるんだがなぁ……あ、でも御嬢じゃちっと色気が足んねェか! オレがもっとでっかくしてやろうか? ぐげげげげっ!」
「失礼なことを言われているくらい、分かります! 神子とはいえ神に仕える者に対してなんなのですか、その態度は!」
軽く成敗してやろうと杖を振るうが、あっさり避けてゲラゲラ笑いながら廊下の奥へと消える。まったくふざけた男である。いつか本格的に成敗しようと心に誓った。
気を取り直して城の中を歩く。体調も回復したし、ライゴウと合流して……一応ザンも回収して……樹海を突破しなければ。多くの追手がここで足踏みしている今が好機だ。
(……ライゴウ様はどちらでしょうか)
城の内部を見ていく中で、夢の記憶がどんどん蘇っていく。塔の上から見た限り、城下町の形状までも完全に一致する。ライゴウとユキナが初めて出会った広場や、二人が稽古に明け暮れ、キスを交わした小高い丘。
間違いない。自分が見ているのはユキナ=エウクレイデスの記憶であり、ここは彼女が生まれたエウクレイデス王国がかつてあった場所なのだ。
「もう起きて大丈夫なの?」
階段の上から声が掛かる。見上げた先に、こちらを見下ろすキリィの姿があった。
「……お世話になりました。言いたくはありませんが、ありがとうございます」
「聖職者に礼を言われるのは初めてね。ここはどういたしましてと言っておこうかしら」
「本当はあなたを成敗しなければなりませんが、助けていただいた恩があります。早々に立ち去りますので、お互いに二度と会わないことを祈りましょう」
「ユニークな子ね。あなたのような者ばかりなら、人間ともう少し仲良くなれたかしら」
「それは慣れ合いというのです。生者が死霊の魔物と手を取り合うなど、ぞっとします」
「聡明なわりには頑固なのね。ねぇ、あなた……ライゴウのことが好きなのでしょう?」
不意にそう問われる。意味を理解して――一瞬で顔が火照る。
「なっ……何、を……!?」
いきなり何を言い出すのだ、この魔物は!
自分はユートムの神子なのだ。終生清い身であることが義務なのだ。
ライゴウに同行しているのは、渚が案じた世界の混乱を回避するためなのだ。そのために一刻も早くクオンツァまで向かわなければならないのだ。
そうだ、否定する材料ならいくらでもある……なのに。
「わ、私は……つまり、神子として……神官長が!」
自分で思う以上に混乱しているのか、説明しようとすると言葉にならない。呆然と立ち尽くして口をパクパクと動かす慈乃を前に、キリィは嫣然と微笑んだ。
「育ちか、性根か、それとも幼さかしら? まだ自分の気持ちと向き合うのは怖いのね」
「ち、違います! 私はその、そのような、不純な気持ちでここにいるわけでは……」
「少しだけアドバイスをしてあげる。彼から目を離さないで。側で支えてあげて。そして心しておきなさい。ユキナは手強いわよ……わたしでも勝てなかったのだから」
最後にそう付け加えてくる。驚いて、目を丸くして彼女を見詰めた。
「……二百年くらい前かしら。戦場で倒れていた彼を、助けてあげてからの付き合いよ。一目惚れの横恋慕で、今考えると滑稽だわ。なんとかライゴウを手に入れようと足掻いて暴れて、憎んだことさえあったけど……結局どうしようもなく好きなのよね、あの男が」
独り言のようにキリィが笑う。それを見て初めて、慈乃は彼女が怪物である以前に一人の恋する女性なのだと認識した。
「…………ぁ……」
「……? 何かしら」
――あなたも、あの人を見詰めると胸が苦しくなったり、心が弾んだりするのですか?
慈乃がそう尋ねようとしたその時、横合いから飛びかかってきた銀色の何かがキリィの体を吹き飛ばしていた。
「がっ……!?」
「……!」
完全な不意打ちである。驚きで固まる慈乃の周囲を、甲冑と首巻きという姿の騎士団が取り囲む。昨晩森で襲ってきたインダラ騎士団……もう追ってきたというのか!?
「退け、インダラ騎士団。日が出ているとはいえ、その者は手強いぞ」
ゆらりと現れる新たな影。赤みがかった髪をした女騎士。
「ゼフィー様……!」
「いかにも。しかしこの期に及んで“様”は勘弁してくれぬか、やりにくくて仕方無い」
問答を続ける間にも、新手の騎士や兵士が次々と現れる。
「こ、これは……」
ライゴウを巡って競争状態にあった、違う組織の追手同士が共に行動している。戦力の拮抗状態を作り出すことで追手を足止めするという前提が完全に崩されていた。
「見ての通り一時休戦というわけだ。樹海で力尽きるまで相争うよりはいいからな。さて聖女殿よ、いいかげん空へと逃げられるのも飽きた。しばらく大人しくしてもらえんか」
「ケダモノ風情が……五百年の時を生きた、このキリィ=ポーターを舐めるな!」
倒れていたキリィが跳ね起きる。ゼフィーが素早くその前に立った。
「逃げなさい、ユートムの使徒。この無粋な客人の相手はわたしがするわ」
「ですが、一人では……」
「二人に増えたところで同じよ。あなたには他にやるべきことがあるでしょう」
「…………」
「彼は中庭よ。日差しがあるから、わたしは行けない……ライゴウのこと、お願いね」
「この場は某に任せよ! お主らは不死人を確保するのだ!」
キリィが魔法を放ち、ゼフィーが抜剣して応戦する。
一瞬だけ迷って、覚悟を決めて、慈乃は風を纏ってその場を離脱した。
数が違い過ぎる。結局、逃げるしかない。キリィが追手を引きつけてくれるなら、あの場に留まっていてはその心遣いを無駄にしてしまうだけだ。
窓ガラスを突っ切って外に出る。空を飛ぶ魔法を使える追手たちが即座に追ってきた。
さすがに向こうも速い。単純な速度だけでは振り切れない。手をこまねいている内に、体当たりを食らって地面に叩き落とされる。受け身を取って、なんとか着地。
追撃しようと、さらに追手たちが接近してきて――刹那、漆黒の影が駆け抜ける。
「ぐげげげっ! げげげげげげげ!」
慈乃に近づいてきた追手たちが、無数の剣で貫かれた惨殺体と化して地に沈む。返り血で真っ赤に染まったザンが、晴れ晴れとした笑顔でこちらを振り向いた。
「よう、御嬢! 元気に殺してるか?」
「あ、あなたは! 殺してはいけないとあれほど……!」
「向こうも殺す気だからいいだろが! 正当防衛ってヤツだァ! さぁ殺して死なす!」
ザンの体から四体の分身が生まれ、周囲に散っていく。血風が舞い、断末魔が響く。
最低最悪の“好きこそ物の上手なれ”だ。復活の呪文の無い時代に生まれていたなら、果たしてどれだけ迷惑な人間になっていたのだろうか。
とはいえ、認めたくはないがザンの言い分にも一理ある。ここでザンや追手たちに殺し合いをやめるよう説得するより、ライゴウを運び出してしまった方が早く解決できる。
そう判断し、ザンの生み出した混乱を利用して中庭へ。骨組みだけ残して崩壊した温室の中で、ライゴウはベンチに腰かけて物想いに耽っていた。
「ライゴウ様、御無事で」
「連中、手を結んだようだな」
「そのようです。では、逃げましょう!」
温室の外に出て、浄言を紡ぎ、気流の上に布を敷き、ライゴウと共にそれに乗る。追手たちと戦っていたザンも、間合を計りながら近寄ってきて布の上に乗り込んだ。
「キリィは戦っているのか……」
「敵を引き付けると。気持ちを汲んであげてください」
「ぐげげげげ! おらおらおらおら殺す殺す殺す殺す殺ぉーすッ!」
「何度言ったか分かりませんが、いいかげんにしなさい! ……行きます!」
剣を投げつけまくって狂乱しているザンを一喝しつつ、気流を上昇させる。飛んでくる矢や魔法を回避し、あるいは風を絡めて受け流し、そのまま城を脱出した。
背中に翼の生えた人間が樹海の中から次々と飛び立ち、こちらの進路を阻んでくる。
「じゅ、獣人……!?」
声が上擦る。ライゴウとザンも相当驚いたようで、有翼人を凝視していた。
「獣人か、二百年前でも珍しい存在だったが……今でもそうなのか?」
「は、はい……本で読んだことならありますが、実際にお会いするのは初めてです」
「滅んだズの国は別にして、これで五大国は全部参戦してきたわけか。豪勢だな、おい」
獣人とは、人間と知恵ある魔物のハーフが種として独立した生物である。詳しいことはあまり分かっておらず、それもそのはず海を隔てたシュキーア大陸にしか住んでいない。
獣人たちの国家であるバルバリーウォートも、その国力自体は五大国の一つとして全く恥じる必要の無い立派なものだが、建国以来基本的に鎖国政策を執っている。細々とした交流や交易もあるにはあるが、ラトリウムの人間にとっての獣人はほとんど伝説上の存在に近い。
その獣人が、独立、排他、孤高を旨とするあのバルバリーウォートまでもが、不死人を巡る争いに参加してくるとは……!
有翼人たちが攻撃を仕掛けてくる。向こうは生まれた時から“空を飛べて当たり前”の生き物だ。速度ではまだともかく、空中での運動能力では勝負にならない。
離脱に手間取る内、飛翔の魔法を使う追手たちが追いついてくる。彼らが一人で飛んでいるのに対して、二人乗せている分だけどうしてもこちらは遅い。
速度と運動能力で上回る相手に包囲され、四方から魔法や矢で攻撃される。浄言で応戦してはいるが、そもそも慈乃の術は移動用なのである。ジリジリと押されていく。
「調子に乗んな鳥野郎! バラして魚の餌にしてやる!」
「暴れないでください、気流の制御は難しいんです! 損なえば墜落してしまいます! ……それ以前に殺すのは許しません、獣人には復活の呪文は効かないんですよ!?」
逃げ場を奪い、動きを封じ、しかし決定的な攻撃はしてこない。時間を稼いで地上部隊の到着を待って、一気に……というつもりでいるらしい。
「御嬢、どうするよ? このままじゃ囲まれちまうぞ」
「分かっています、ですがこの布陣を抜けるのは容易なことでは……」
と。
「森へ降りろ。地上の包囲は恐らくまだ完成していないだろう」
ライゴウがそう指示を出す。言われるままに樹海に降下すると、騎士たちの動きが露骨に変化した。あちらにとっても予想外の行動だったようだ。
「連中の鼻を明かしたのはいいけどよ、それでこの後どうするんだ?」
ザンがもっともなことを尋ねてくる。徒歩で脱出するには樹海は広過ぎるし、といって飛べば速さで上回る相手に動きを封じられ、地上と空から包囲されてしまう。
「そうですね……徒歩で距離を稼いでから、飛んで逃げるくらいしかないのでは」
「あの数を敵に回してかよ? オレならがんばって相手を皆殺しにするけどな」
「可能かどうかは別にして、どうしてあなたはいつもそう考え方が物騒なのですか」
「別れよう。二人だけで逃げろ」
ライゴウがあっさり告げてくる。その意味を理解するのに、呼吸数回分の時を要した。
「……な、何を言われるのですか!? それではあの吸血鬼の行いが無意味になります!」
「ここで全員捕まっても同じことだ。連中の目的は俺だけだろう」
「ですが……!」
「妙な縁だったが、これまでだ。元いた場所に帰れ。死ぬ方法を探すなら、ああいう連中に任せるのも悪くないかもしれないしな」
遠くを見る目。全てのことに無関心な目。そんな目をして、ライゴウは己についてさえここではないどこかの出来事のように語る。それがどうしようもなく嫌だった。
「……嫌です」
「聞き分けろ。お前たちが何をしたところで意味など無い」
「そうではありません! 私はあなたに……死ぬ方法ではなく……あなたが……!」
すがりついて懇願する。何を言おうとしているのか分からない。何を言っているのかも分からない。それでもきっと、言わなければならない。
そんな慈乃の頬に、不意にライゴウが指を添えた。
「……ライゴウ様?」
その指が下に移動し、頸動脈を押さえる。苦しさを感じることもなく、何が起きたのかさえ分からぬまま、慈乃は意識を失った。
失神した慈乃をライゴウが支える。そんな様子を無言で眺めていたザンに彼女を預け、彼は二人に背を向けた。
「御嬢が泣くぞ」
「そうかもしれんな」
「……まぁ、いいや。その内に改めて絶対に殺してやるから覚えとけ。これくれてやる」
ザンが放った剣を受け取り、ライゴウが城に向かって駆けていく。粘質な殺意を乗せた眼差しでその背を見送ると、ザンは慈乃を肩に担いだまま森の中へと走り去った。
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