2 闇の領域
霊峰ダイテンザン。世界でも有数の大山岳である。
聖者クオンが冥界踏破の後、復活の呪文を完成させた地として知られる。冥界に通じる洞穴が存在しているとの噂もあり、ユートム教団の聖地の一つとして数えられている。
遠景でこそ美しいものの、その山肌は峻烈そのもの。五合目まで登るだけでも死の危険が付き纏う。それでも修行のために入山する熱心なユートム教徒が後を絶たない。
山裾には広大な樹海が広がり、迷い込んだ者の命を容赦無く引きずり込む。
人間の介入を阻む自然の結界――しかし今その中で、多くの者たちが蠢いていた。
屈強を絵に描いたような一団が樹海の中を進む。登山用の装備ではあるが、その全員が猛禽の紋章が施された剣を腰に帯びている。
一団が歩き去り、彼らの気配が完全に無くなったところで、茂みがガサリと揺れた。
「行ったか」
「だな。しかし今の連中、ありゃジンガルン商会の紋章だぜ? ズの国が滅んだ後、バルバリーウォートとの交易を始めて急成長した豪商組合だ。今じゃグース大陸の東部で連中と張り合えるのはユートム教団だけとかどうとか……人気者じゃねェか、オイ」
ザンがライゴウの肩にポンと手を乗せる。その袖からスルリと這い出てきた毒蛇を軽く掴んで遠くの茂みに放り捨てて、ライゴウはひたすら面倒なことになったという顔で一団の去った方角を眺めていた。
クアンプールを発った後、一行は賞金稼ぎやどこかの兵士と思われる集団の襲撃を幾度となく受けることとなった。もはや不死人の存在は知る人ぞ知るといったところらしい。
執拗な追撃を振り切るために、あえてこの樹海へと踏み込み……そこまでは良かったのだが、あちこちの国の追手たちまでもが続々と樹海に侵入してきたのだ。
「隠れる分にはそう不自由しねェが、どこに敵がいるか分からないから動くに動けねェ。火も起こせねェし水場にも近づけねェ、それでもってトドメが……」
ザンが振り返り、ライゴウもそちらに目を向ける。青い顔をした慈乃が、大樹の幹に背を預けてぐったりと座り込んでいた。
「お~い御嬢、生きてるか?」
「……っ……いじょうぶ、です……」
「無理そうだな、こりゃ。御嬢がこれじゃ、空飛んで逃げるって手も使えねェし……」
樹海に逃げ込んで四日。連日の強行軍から来る疲労で、慈乃は体調を崩していた。
移動するどころか、立ち上がることも満足にできない。足手まといにはなりたくないという強い気持ちはあるが、体が動かなければどうしようもない。
杖を支えになんとか立ち上がろうとする。そんな慈乃を見てザンが肩を竦める一方で、ライゴウが彼女に歩み寄っていった。慈乃の目の前で足を止め、背を向けて膝を突く。
「乗れ。背負っていく」
「で、ですが……」
「遠慮は不要だ。お前にはいろいろと助けてもらっている」
躊躇する慈乃を半ばむりやり背負い、立ち上がる。急に視界の位置が上昇して慌てふためく慈乃を尻目にして、ライゴウはザンへと歩み寄って声をかけた。
「偵察してきてくれ。お前の術なら広い範囲を見回れるだろう」
「あ? なんでオレが働いてやんなきゃなんねェんだ? オレはお前さえ殺せればそれでいいんだよ。どうしてもってんなら頭下げてお願いしてみやがれ」
「分かった。頼む……これでいいか」
言われる通り、ライゴウが慈乃を背負ったまま頭を下げる。姿勢的に慈乃とザンが顔を突き合わせるような形になった。
「ラ、ライゴウ様……!? 何をなさっているのですか、私は平気です、降ろして……!」
「いいから御嬢は背負われてろよ、どーせ今は役に立ちゃしねェんだ。まぁ……なんだ、珍しいモン見れたからちっとだけ手ぇ貸してやらァ。だが忘れんなよ、お前は絶対殺す」
ザンの体からいくつもの影が飛び出して、それぞれがザンになる。作り出された八体の分身が散っていき、最初からいた一人だけがその場に残った。
「不思議というか便利というか、すさまじい術ですね……制限は無いのですか?」
「考える頭は一人分のままなんで、あんまり大量に出すと何やってんだかワケ分からなくなる。暴れるだけならともかく、細かい仕事をするならこれくらいが限界だな」
意外にも素直に答えてくる。それだけこの術に自信があるということなのだろう。
ザンに先導されて樹海を行く。次第に辺りも暗くなってきた。
「…………」
ライゴウに背負われているのだということを、今さらながらに実感する。熱っぽかったのも事実だが、それとは違う理由で慈乃の頬は火照っていった。
「眠れるようなら少しでも眠っておけ。重さは変わらん」
「ライゴウ様……ありがとうございます」
素っ気無い口調の中に、自分への気遣いを確かに感じる。広くて暖かい彼の背中に耳を当てれば、力強い心臓の鼓動が響く。それはなぜか、慈乃の心をひどく落ち着かせた。
「しっかし前に進んでるのか奥に戻ってるのか分かんねェな。このまま遭難は勘弁だぜ」
「空からでなければ脱出は難しいか……」
「おいライゴウ、お前長生きしてんだろ? 隠れ家の一つでも無いのかよ? 御嬢がこの調子じゃ、ちょっとこれ手の打ちようがねェぞ。どっかでゆっくり休ませねェと」
ザンがこちらを見る。彼も心配してくれているらしいが、返事をする余裕は無かった。
そのザンが不意に足を止める。前方右側を見詰めて動かない。その背中からも横顔からも、緊張と興奮が伝わってきた。
「どうした」
「悪い、気付かれちまった。不意打ちで二人やられた。手練だ、数も多い」
「こちらに近づいているのか」
「近づいてる。物見の動きからオレらの位置を割り出しやがった。どこかの騎士団かね」
ライゴウが慈乃を降ろす。どこからか取り出した剣を、ザンがライゴウへと投げ渡す。
「貸してやらァ。ありがたく使えよ?」
「一応、礼は言っておく。迎え撃つ。残った分身とで挟撃できるか?」
「モチのロンだ。オレが殺す、他は任せた」
「好きにしろ」
「た、戦う……つもり、なのですか? 殺すのは……」
「御嬢は寝てろォ! 手加減できる相手じゃねェんだよォ!」
樹海の奥から無数の矢が飛んでくる。ザンがそれを避け、慈乃の前に立ったライゴウがことごとくを切り払う。次いで現れたのは、どこか生物めいた光沢の甲冑に首巻きという奇妙な出で立ちの集団だった。
「げげげげげ! 殺す! 殺す! 殺す! 殺す! 殺す殺す殺ぉーすッ!」
ザンが斬り込む。それを手甲で受け流し、甲冑騎士がお返しとばかりに拳を打ち込む。即座に分身を出し、互いの足の裏を蹴って、ザンがその場を離脱した。
よくよく見れば、甲冑騎士たちは誰も武器を持っていない。それどころかあれだけ動き回っているというのに、どういうわけか鎧がこすれる音すらしない。
「音無しの甲冑、無手格闘術……マジかよ、コイツらインダラ騎士団だぞ!?」
「五大国の一つという連中か!」
ライゴウにも二人の騎士が迫る。雷光さながらの斬撃がそれを両断――したかに見えたが、相手の鎧とライゴウの技に剣が耐えられなかったらしい。あっさりと刃が砕ける。
「脆すぎるぞ、この剣!?」
「うるせェ、お前の使い方が悪いんだよ!」
騎士たちの背後からザンが奇襲をかける。殺気を感じたか、悠然とそれに対処される。剣を失ったライゴウにはさらに新手が迫り、動けない慈乃にも騎士が突撃してくる。
「うっ、く……!」
鈍く痛む頭を意志の力で動かして、浄言を編み上げ――その時だった。
ギャアギャアと耳障りな鳴き声と共に夜の闇が不意に深まる。何かと空を見上げれば、空を覆い尽くすようなコウモリの大群がそこにいた。
「騒がしいわね」
声だけが響く。同時に、慈乃に迫っていた騎士の体が樹海の奥へと吹き飛んだ。
「わたしの庭でずいぶんと無粋をしてくれるじゃない」
影が躍る。粉塵が舞う。何かが高速で動き回り、騎士たちを次々に打ち倒していく。
「お、おい。なんだ、なんだよいったい!?」
ザンが必死に影の動きを目で追うが、捉え切れない。人間の物を見る能力の限界を超越した動きだった。
三分の一ほどが倒されたところで、騎士団は撤退に転じた。倒れた仲間を回収し、音も気配も感じさせぬまま森の奥へ去っていく。
騎士団を一人で撃退した影が、ややあって慈乃たちの前にふわりと姿を現した。
「樹海に人間が集まっているのは気が付いていたけれど……まさかね」
病的に白い肌。口元から覗く牙。血の色の双眸。
「吸血鬼……!」
死霊系の魔物の中でも高位の存在。聖職者にとっては宿敵に等しい。反射的に、慈乃は突然現れたその少女に向けて浄言を放とうと身構えて――
「こうしてまた顔を合わせることがあるとは思っていなかったわ、ライゴウ」
「……キリィ」
呼気と思考が止まる。吸血鬼とライゴウが言葉を交わしている。
「ん? ……お前ら、知り合いなのか?」
いったい何をするつもりだったのか、剣を手に背後から吸血鬼に忍び寄っていたザンが意外そうに二人を見やった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます