2 聖女と不死人
「慈乃、何をやっているのですか」
冷然とした声で問いかけられる。儀式の間の入り口に見知った女神官が立っているのを認め、慈乃は浄文陣を描く手を止めて彼女に向き直った。
「復活の呪文のための浄文陣を描いているのです」
「そのようなことを聞いているのではありません。とっくに日は落ちているのですよ? 原則として、日没後に復活の儀式を行うことは禁じられているはずです」
「ですが、ミィ。ティエンティ山の噴火で、大勢の方が復活の儀式を待っています。一心に善を為すことこそがユートムの教えです。それに神官長の許可も……」
「確かに、神官長も日没後の儀式をお認めになっています。状況が状況ですからね。ですがそれは一等神官に対してのみです。あなたはまだ神子でしょう」
穏やかな口調だったが、それだけにそこに含まれる険を強く感じさせる。三十になるかならずといった年頃のその痩身の女は、鉄のような歩みで儀式の間に踏み入った。
そのまま慈乃に近づき、浄文陣を描くために使っていた筆を強引に奪い取る。その胸元で揺れる二種の金属が絡み合った聖具が二つ――ユートム教団の二等神官の証である。
「復活の呪文はユートム教団の秘術。神子の身でありながらそれを体得したあなたの信心は見事なものですが、少しは分別というものを弁えて……」
「そりゃ、慈乃に復活の儀式を任せたあたしへの注文かい?」
儀式の間の入り口から、新たな人影が顔を出す。ミィの顔に苦いものが浮かんだ。
「し、神官長……どうして、ここに」
「ひひひ。頑張ってるようだから、ちょいと慈乃の顔でも見てやろうかと思ってね。ともあれ、我らが聖女に復活の儀式を任せたのはこの房州渚だ。文句があるなら直接言いな」
コロコロとよく肥えた老女である。白髪の一部を五色に染め、あちこちにうるさくない程度にアクセサリーをつけている。皺だらけの顔には、人懐っこい笑みが浮かんでいた。
首の聖具に使われている金属は三種。彼女が一等神官の資格と力量を持つ証だ。
僅かな沈黙の後、ミィが渚へと向き直って訴える。
「神官長。慈乃に復活の儀式を執り行わせるのは反対です。彼女はまだ神子なのですよ。本来一等神官にしか許されない行いを神子に任せるなど、教団の品位に関わります」
「何言ってるんだい、話が逆だろう。“復活の呪文は一等神官にしか許されない”んじゃなくて、“復活の呪文を体得することが一等神官である絶対条件”なんだ。つまり、慈乃はもう十分に一等神官の資格を有している。任せてなんの問題があるっていうのさ」
「この子はまだ十四歳です。成人していない者は神官とは認められないはず」
「そう難しく考えるんじゃないよ、来年には成人ってことじゃないか……けどね、慈乃。今日はここまでだ。寝支度をして、ゆっくりお休み」
話しながら近づいてきた渚が、慈乃の髪をくしゃりと撫でる。
「お前の力を疑うつもりはない。だが、お前がまだ大人には成り切っていないことも事実なんだ。日没後の儀式を認めると言ったが、無理をする必要だって無いのだからね」
「ですが、神官長。復活の儀式を待つ人々はまだ大勢います。少しでも早く、そして多くの死者を蘇らせることこそ、ユートムの教えに適うのではありませんか?」
「だからこそ、だよ。気を張っていて、今は自分じゃ分からないかもしれないが、朝からずっと儀式で疲れているはずだ。ここでお前に倒れられたら、みんなが困ることになる」
「…………」
「先を見越して、余裕のある内に切り上げることも学ばなければいけないよ。このあたしがお前に間違った知恵を授けたことなんて、今までに一度だってあったかい?」
「……はい、分かりました。それでは明日に備えて、今日はもう休むことにします」
脇を締め、胸の前で右拳と左掌を重ね、渚とミィに頭を垂れる――ユートム教式の礼をして、慈乃はその場を後にした。それを笑顔で見送ってから、渚がミィに視線を向ける。
「まったくアンタも変わらないね。まだ慈乃に思うところがあるってのかい」
「……あの子は異常です。だってまだ十四歳ですよ? 才ある者が数十年を修業に捧げてようやく体得できる復活の呪文を、あの歳で使えるようになるなんて」
「で、嫉妬かい? つくづくつまらない女だね。あの子は天才だよ、本物の神童さ。生まれたのが今でなく二百年前なら、きっと白の魔王を滅ぼす英雄になっていただろう」
「だから慈乃を一等神官に推そうとなさっているのですか? 三十年、人生の全てをユートムに捧げてきたわたしですら二等神官だというのに、捨て子だったあの娘を」
「いけないかい? あたしはあの子にもっと大きいことをさせてみたいのさ。いつまでも準一等神官なんて妙な肩書きじゃ、みっともないじゃないか」
「ありえません。許されません。一等神官の称号は、ユートムの教えの深奥を理解した者にのみ与えられるものです。三十代でそれを成した者すら、歴史上数えるほどしかいないというのに。伝統が穢れる、聖都から許しが出るはずがない」
「伝統、伝統ってうるさいね。あの才、あの若さ、それにあの器量……寄付を集める看板としちゃ最高なんだ。ここで箔を重ねないでどうするってんだい」
「そのような俗な目的のためにあの子を利用するのはおやめください。そもそもこのジングウは、神官長の才覚で十分に余裕を持って取り回せているではありませんか」
「いくらあっても困らないのが、お金の良いところさ。人助けはユートムの教え、それを為すにも金は要る。そういう即物的な感覚を否定しないのが、あたしの美徳ってもんさ」
渚がニンマリ笑う。呆れて、ミィは小さく嘆息した。
ジングウとは、ユートム教の様式の神殿である。
神門を潜り、石道を進むと、木と草と紙でできた拝殿が見えてくる。その傍らには雑務全般を処理する用務所が、さらに奥にはユートムを祭る本殿がある。
神官用の住居である護所へと向かう途中、慈乃はふと人の気配に気づいて足を止めた。
復活の儀式を待つ者が、間違えてこちらにやってきたのだろうか。受け付けているのは用務所だから、そうであれば案内すべきだ。それとも、こんな夜分に参拝だろうか?
境内を見回す。月光が降り注ぐ中、拝殿の前に立ち尽くす一人の青年の姿があった。
遠く――遥か彼方、ここではないどこか、途方も無く深い何かを見詰めるような、空の色をした瞳が印象的な人物だった。
しなやかな長身。淡い金色の髪。そして、吸い込まれるような空色の双眸。世界の全てが彼を彩るために用意されたのではないかとさえ思えてくるほどの美貌の持ち主だった。
「この神殿の者か」
青年の唇が動く……そこで初めて、慈乃は自分が彼を凝視していたことに、そしていつの間にか彼が自分の方に顔を向けていたことに気がついた。
「は……はい。失礼しました。噴火の被害に遭われた方ですか?」
改めて青年を見る。破れて汚れて、無残に朽ちた衣服を身にまとっている……そのわりに火傷どころか掠り傷一つ負っていないのが不思議だった。
「ユートムという神の神殿で間違いないな。死者を蘇らせられるというのは本当か?」
「はい。復活の儀式をお望みなのですか? 今は儀式を希望する方が大勢いらっしゃるので、しばらく待っていただくことになりますが……」
言葉の途中で続きを飲み込む。ひどく自然な足取りで、いつのまにか青年が慈乃の前に迫っていた。どこかで拾ったか、その手には鈍く光るナタが握られている。
「あの……何か?」
「一つ、尋ねる。お前たちが死を覆すことができるというのなら――」
青年がナタを振り上げる。息を飲む。身が竦む。
そして、鮮血が舞った。
「……!」
青年は己の首を切り落とした。首から上を失った体が力を失い、その場に崩れ落ちる。ぬるりとした液体が顔にかかるのを感じて、慈乃はその場にヘナヘナと腰を落とした。
意識が遠退く。視界が揺らぐ。鉄の匂いが鼻につく。刎ねられた生首が、そんな慈乃の膝元にまで転がってきた。
死体を見たことはある。生き返らせたこともある。だが実際に人の死の瞬間を目にするのは初めてだった。思考が空転する中、これ以上無いほどに目を見開く。
膝元の生首が慈乃に視線を向ける。頭部を失った青年の体が、それがどうしたと言わんばかりに悠然と歩き出す。自分の頭を両手で拾い、今なお鮮血溢れる首の上に乗せる。
唖然とする慈乃の前で、青年は体の具合を確かめるように、ゴキリと首を動かした。
「……死なない者に、死を与えることは可能か?」
復活の呪文無しに死を覆した青年は、質問の続きを簡潔に口にした。
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