第23章
第312話 個別指導
「ほら先生、ブラジャーを干すときは、ストラップを洗濯ばさみで
僕がヨハンナ先生に注意した。
「ああ、なるほどね。確かに理にかなってるね」
先生が大きく
「カップの形を整えながら干してくださいね。それから、直射日光はダメですよ。ブラジャーはデリケートですから、
「はい、勉強になります」
先生が素直に
念のため言っておくけど、ヨハンナ先生は僕の担任教師だ。
朝、先生をいつもより少し早く起こして、洗濯物を干すのを手伝ってもらっている。
中庭の物干し台で、先生と僕、二人で洗濯物を干していた。
もうすぐこの学校を辞めるヨハンナ先生には、それまでに一人暮らしが出来るように家事を覚えてもらわないとならない。
今まで僕達主夫部がしていたことを、これからは先生が一人でしないといけないのだ。
洗濯、炊事、掃除、裁縫、まだまだ覚えてもらうことはたくさんある。
「なんか、篠岡君、娘を嫁に出すお母さんみたいだね」
中庭に面した廊下の窓から僕達の様子を見ていた新巻さんが、そんなふうに言った。
「もう、新巻さん、いい加減にしなさい。私の方が十歳も年上なのに、お母さんだなんて。篠岡君がかわいそうじゃない」
ヨハンナ先生が笑いながら言う。
「ごめんなさい」
新巻さんが舌を出して謝った。
「だけど私の場合、母は旅館の仕事で忙しかったし、父からも家事を習うことなんてなかったし、こうやってあらためて教えてもらうのは初めてかな。そう考えると、お母さんでいいのかも。いえ、お父さんかな」
先生が言って、新巻さんと二人で笑った。
「もう! 干し終わったら先生は顔を洗ってください。歯は一人で磨けますよね?」
僕が訊くと、
「はい、一人で磨いて参ります」
ヨハンナ先生はおどけて、中庭から洗面所の方へ向かう。
僕と新巻さんがこの場に残された。
朝晩はすっかり冷え込むようになって、林の中は、しんと澄んだ空気が冷たい。
「それで、篠岡君はこれでいいの?」
先生がいなくなったところで新巻さんが訊いた。
「いいって、なにが?」
「先生に付いていかないでいいのかなって思ってさ」
窓枠に
「付いていくって、なんで僕が」
「先生はあの様子だし、サポートする人間が絶対に必要だと思うんですけど。だとしたら、適任者は篠岡君しかいないと思うけどな」
「そんな、僕なんか……」
「ねえ篠岡君、私、次回作の構想を練ってるんだけど、あらすじを聞いてくれる?」
突然、新巻さんがそんなことを言い出した。
「うん、べつに聞いてもいいけど」
だけど新巻さん、何でそんなこと言い出すんだろう?
「それじゃあ話すね。あるところに、夢を追いかける女の子が大好きで、家事が得意な男の子がいました。一方に、夢を追いかけていて仕事は出来るけど、家事がまったく出来ない女の子がいました。二人が一緒になれば、どんなことだって出来そうなのに、二人は一緒になりません。男の子は自分なんか女の子にはふさわしくないって思っていて、女の子は自分がちょっと年上なことを気にしていたのです。本当は、二人ともお互いのことが大好きなのに。その結果、二人はいつまでもそれを言い出せないまま、お爺さんとお婆さんになりました。めでたし、めでたし…………って、こんな話書いたら、担当さんに怒られちゃうかな。売れっ子作家としての『森園リゥイチロウ』の評判も、地に落ちるね」
新巻さんが言って、意地の悪い顔で僕を見る。
「僕は、この寄宿舎の管理人に決まってるし、来年には妹の花園もこの学校に入ってきて、枝折と花園も寄宿生になって、みんなでここに住むって決まってるし」
僕は、自分に言い聞かせるように言った。
「ここにはまだ、主夫部の御厨君も子森君も残るし、北堂先生もいるし、気に掛けてくれるOGもたくさんいるんだから、管理人は篠岡君じゃなくたって、なんとかなるんじゃない? それに、枝折ちゃんと花園ちゃんは、あなた以上にしっかりしてるじゃない。二人は、もう、君がいなくなってやっていけるよ。それに、二人だって自分達のことでお兄ちゃんが幸せを逃したら
「だけど、僕なんか付いてきたら、ヨハンナ先生が迷惑っていうか、僕と先生じゃ、全然、釣り合わないっていうか……」
「もう、イライラするなぁ」
新巻さんが、溜息を吐く。
「あのね、もう
新巻さんはそう言うと、身を
僕が呆気にとられていると、廊下の向こうからセーラー服を着た登校前の弩が歩いてくる。
「先輩、どうしたんですか? 新巻さん、走って二階に上がって行きましたけど」
「いや、別に……」
「あっ、先輩、また新巻さんにセクハラしたんでしょ?」
弩が腕組みして僕を
「してないから!」
それに、「また」ってなんだ!
「なあ、弩」
「ふえ? なんですか?」
「僕がここからいなくなったら、どう思う?」
「えっ?」
「いや、たとえばの話なんだけど」
「いやです!」
弩が食い気味に言った。
「先輩は管理人になって、ここでみんなのことを見守るのです! 私のことを見守るのです!」
今度は、弩がそう言って廊下を走って行ってしまう。
僕は一人、取り残された。
「ねー、ひすい、篠岡のお兄ちゃんみたいに
ひすいちゃんを保育園に連れて行く北堂先生が、ひすいちゃんに話しかけながら僕の横を通り過ぎる。
通り過ぎるとき、ひすいちゃんが僕に向けて「ぶー」って口を尖らせた。
冷たい秋風が吹き付けて僕は震える。
「こんばんは」
その日の夕方、寄宿舎に訪問者があった。
「霧島ヨハンナ先生の住居は、ここでいいのかな?」
一人の女性が寄宿舎の玄関に立っている。
「はい、そうですが」
その人には僕が応対した。
長い黒々としたストレートの髪をポニーテールにしているその女性。
紺のスーツを着ていて、柔軟剤と一日一生懸命働いた汗が混じった、僕の大好きな匂いがする。
僕は、目の前の人がヨハンナ先生が言っていた憧れの先輩だってすぐに分かった。
ヨハンナ先生が教師になる後押しをして、そして今、先生を新しい学校に誘った人は、この人なんだって一目で分かる。
一目で分かるくらい、その人の目は生き生きとしていた。
活力に満ちている。
「私、
榊原と名乗るその女性が、そう言って僕に微笑みかけた。
この人が、ヨハンナ先生を連れて行く人なのだ。
この人が先生をここから連れ去る人だ。
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