第245話 リテイク

「馬鹿!」

 北堂先生はそう言ったかと思うと、大きく振りかぶって僕の左頬をビンタした。


 パシッと弾けた音がして、ほっぺたに焼きごてを押しつけられたような痛みが走る。

 まあ、今まで頬に焼きごてを押しつけられたことなんてないから、本当にそれくらい痛いのかは、分からないんだけど。


 僕は、北堂先生から食らったビンタの勢いでよろけた。

 クラッとして、撮影している寄宿舎の玄関の土間にひざからくずれる。


「塞君! ヨハンナ先生を追いかけなさいよ!」

 土間に尻餅をついた僕を、セーラー服の北堂先生が見下ろして言った。


「先生は、あなたの大切な人なんでしょ!」

 北堂先生は、目尻に涙を溜めている。


「ほら、早く行って、先生を止めないと。先生、実家に帰っちゃうよ」

 北堂先生のセリフは、演技とは思えないくらい力が入っていた。

 先生は本当に女子高生にしか見えないし、僕も、こんな幼なじみがいたんじゃないかって錯覚しそうになる。


 北堂先生の演技に感動した僕が、次のセリフを言おうとした時だった。


「ちょっと! うちの篠岡君に何するの!」

 寄宿舎の玄関の前、獣道けものみちの辺りから、声がする。


「篠岡君! 大丈夫?」

 紺のスーツ姿の女性が、玄関に駆け寄って来た。

 その走りは、飛ぶように速い。

 実際、玄関の少し手前でジャンプして飛んだんだと思う。


 引き締まった体の背が高い女性が、玄関に倒れた僕を抱き起こした。

 僕は、その広い胸に抱かれる。


「縦走先輩!」

 玄関の脇で撮影を見守っていた御厨が大声を出した。


 完全に耳が見えるくらいのショートカットに、良く焼けた肌、キリリとした太眉。

 そして、無駄な肉がない引き締まった力強い腕。


 獣道の方から走ってきて僕を抱き上げてくれたのは、誰あろう、この春卒業して実業団に行った僕達の先輩、縦走美和先輩だった。


「あなた、見ない顔だけど何年生! 篠岡君を殴り倒すなんてどういうつもり!」

 縦走先輩が、北堂先生をにらんだ。


「みんなも、篠岡君がこんなことされるのを何もしないで見てるなんて……って、え?」

 言っている間に、縦走先輩の声が徐々に小さくなった。

 辺りをよく見ると、萌花ちゃんがカメラを構えてるし、宮野さんや御厨が照明やガンマイクを持ってるし、先輩も異変に気付いたみたいだ。



「先輩、違うんです。これ、撮影なんです」

 縦走先輩のたくましい腕に抱かれたまま、僕は言った。

 僕は先輩に抱かれて子猫状態だ。


「さ・つ・え・い?」

 縦走先輩が、首を傾げて一音ずつ丁寧に言った。


「はい、僕達、文化祭のために映画撮ってまして」


「はっ?」


「御厨から聞いてませんか?」

「聞いてないけど」

 縦走先輩が首を振る。


「文化祭で先輩を驚かせようと思って、内緒にしてました」

 御厨がそう言って頭を掻いた。


「僕がビンタされたのは、新巻さんが書いた台本にあった演技をしただけなんです」

 新巻さんが書いた台本では、僕との結婚がバレて謹慎きんしん処分になったヨハンナ先生が、実家に帰ろうとしていた。

 今撮っていたのは、それを止めなさいって、ヨハンナ先生の恋敵こいがたきであるはずの北堂先生が、僕に言うシーンだ。

 北堂先生が一歩引こうと決意する、大切なシーン。



「そうなんだ。なんか、ゴメンね」

 縦走先輩が舌を出した。

 そこにいたみんなが笑う。


 だけど、僕を助けようとなりふり構わず走ってくるなんて、やっぱり、縦走先輩らしいと思った。

 先輩は、卒業したって、社会人になったって、僕達の頼れる先輩だ。



「それから、僕をビンタしたのは生徒じゃなくて、先生です。この春、寄宿舎に入った、北堂先生なんです」

 僕が言うと、

「またまた、嘘ばっかり」

 縦走先輩は僕の言葉を信じなかった。

 北堂先生を見返して笑う。


「本当です。今、子森君が抱いてる赤ちゃんが、北堂先生の娘のひすいちゃんですし」

 僕が言うと、子森君に抱っこされているひすいちゃんが、「うー」って縦走先輩に手を振った。


「す、す、すみません!」

 縦走先輩が、抱いていた僕を下ろして頭を下げる。

 縦走先輩は腰を90度以上折って謝った。


「まあまあ、いいから」

 丁寧に謝られた北堂先生の方が恐縮している。


 北堂先生と縦走先輩、先輩が教師で、北堂先生が生徒のほうが、完全にしっくりきた。


 縦走先輩はあらためて見ると、社会人になって、前より大人っぽくなった気がするし。

 まだ数ヶ月しか経ってないのに、スーツも凄く似合って、着こなしていた。




「ところで先輩、どうしたんですか突然?」

 僕は訊いた。

 もちろん、先輩が来てくれるのは嬉しいんだけど、なんでここにいるんだろう?


「ああ、そうだった」

 先輩が思い出したように言う。


「文化祭の準備期間でみんな忙しいと思ったから、OGとして、差し入れで応援しようと思って」

 先輩が振り返って獣道の方を見た。

 縦走先輩の視線の先に、段ボール箱が三箱、重ねてあった。


「エナジードリンクとか、栄養ドリンクとか、夜食になりそうなものを色々見繕ってきたの。って言っても、うちの監督と上司が、持っていってやれって、提供してくれた物なんだけどね。ほら、うちの会社、食品卸とかもやってるから」


 みんなで獣道まで段ボール箱を取りに行った。

 持ち上げた箱にはみっちりと物が詰まっているみたいで一人では持てないくらい重たい。

 先輩、この段ボールを三つ、一人で持ってきたのか……



「縦走先輩、今日は、夕飯食べていけるんですよね」

 御厨が訊く。

 目の前に縦走先輩がいて嬉しい御厨は、目をうるうるさせていた。


「うん、もちろん、そのつもりで、お腹空かせてきたし」

 縦走先輩はジャケットを脱いで、シャツを腕まくりする。

 先輩が、これからたくさん食べるぞ、っていうサインだ。


「お肉もたくさん持ってきたから、良かったら使って」

 持ってきた分、先輩が全部食べそうな気がする。




「それじゃあ、今のシーン、ささっと撮って、今日の撮影終わらせちゃいましょうか」

 弩が映画監督に戻って言った。


「はーい」

 そこにいたみんなが返事をする。


 ヨハンナ先生が北堂先生の髪を直した。

 新巻さんが北堂先生にもう一度台本を見せる。

 錦織が僕と北堂先生の衣装をチェックした。

 宮野さんが照明のスイッチを入れる。

 御厨がガンマイクを向けた。

 萌花ちゃんがカメラを構える。

 子森君が、「しー」ってひすいちゃんに向かって人差し指を立てた。


 撮影も終盤にかかって、チームワークも揃っている。

 

 だけど、今のシーン、もう一回撮るってことは……


「篠岡君、よろしくね」

 北堂先生が、可愛い笑顔で、手を振ってビンタの練習をしながら言った。

 さっきは縦走先輩が入っちゃったし、僕は、北堂先生のビンタをもう一発食らうことになるのか。



 何回もビンタされて、僕の中で何かが目覚めてしまったらどうするんだ。

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