第128話 大人への階段
「ほら先生、ちーんしてください」
僕は、幼いころの花園や枝折をなだめるみたいに言った。
泣いて鼻水を垂らしているヨハンナ先生に、ティッシュペーパーを渡して、鼻をかませる。
「あ、あでぃがどう」
泣き腫らした先生は、涙を拭いて、鼻をかんだ。
先生、使ったティッシュペーパーは、僕に返さなくていいですから。
玄関の引き戸を開けて、その前に立っていたヨハンナ先生は、僕を見て安心したのか、大粒の涙を流した(鼻水も)。
そして、新巻さんの目もはばからずに、僕を抱きしめた。
大丈夫ですと、先生の背中を叩いて、そのままリビングのソファーに誘導した。
先生は軽めのコートにボーダーのニットという格好で、抱きしめられたとき体が冷たかったから、とりあえず、押し入れの中にあった毛布を被ってもらって、僕は手早く温かい飲み物を作る。
冷蔵庫の中にあった、瓶入りの牛乳を沸かして、ココアパウダーと砂糖をたっぷり入れて、ミルクココアを作った。
マグカップを渡すと、先生は両手で受け取って、少しずつ口にする。
「温かい」
陶器みたいに白かった先生の頬が、ぱっと桜色に染まった。
頬だけ桜色で、あどけない少女のようだ。
「それで、どうして先生がここにいるんですか?」
先生が落ち着いたところで、話を訊いた。
僕は先生の対面に座って、新巻さんが先生の隣に寄り添うように座る。
今日、ヨハンナ先生は他のコースの引率で忙しかったはずだ。
富良野近辺にいて、ここまで直線距離で100㎞以上離れたところにいるはずなのに。
「あなた達を受け入れる民宿のオーナー夫妻が病院に行ったって連絡があって、心配になって、他の先生に引率を任せて駆けつけてきたの。先生方と相談したら、こっちは引率の教師が三人付いてるから、大丈夫だってことで」
先生が言う。
益子さんか三鹿さんが、学校に連絡したんだろうか。
僕達二人で大丈夫って言ったけど、心配して学校には連絡を入れたのかもしれない。
「レンタカーを借りて、日暮れ前にここを目指したんだけど、途中で道に迷っちゃって……何度も同じ場所を行ったり来たりして、あちこち走り回っているうちに、ガソリンがなくなって……」
ヨハンナ先生はそう言って、ココアを一口含んだ。
「薄暗い林道の中で、車が止まっちゃったの。仕方なく車を押して道端に寄せたんだけど、スマートフォンの電波は来てないし、周りに何もないし、変な動物の声は聞こえるし、遭難して、もうダメかと思ったの……」
先生の目に、また、じわっと涙が浮かんでくる。
「しばらく車の中で待っても、他の車は来ないし、勇気をふり絞って、車を置いて、真っ暗な中を少し歩いたら、ここの『ひだまり』っていう看板を見付けて………やっと、辿り着いたの」
思い出して泣きそうな先生を、今度は新巻さんが抱きしめる。
先生の背中をぽんぽんと叩いた。
「先生、私達のために、ありがとうございます」
新巻さんも、ちょっと涙ぐんでいる。
「私達は大丈夫です。篠岡君が、食事を作ってくれたり、お風呂を沸かしてくれたり、三鹿さんっていう、女性の猟師の方が料理を教えてくてたりして、楽しくやってました。心配してくださって、本当にありがとうございます」
新巻さんが言った。
「ううん。違うの。そっちの心配じゃない。塞君なら家事ができるから、民宿のオーナー夫妻がいなくても、全然心配してなかった」
「えっ? じゃあ、何が心配だったんですか?」
僕が訊く。
「あなた達が二人だけで一晩過ごすのが心配で、来たの」
先生が言った。
「高校生の男子と女子が、山奥の誰もいない一軒家で、二人っきり。危険なこと、この上ないじゃない」
先生が続ける。
「な、なにかあるわけないじゃないですか」
僕は言った。
「そうですよ。篠岡君、すごく紳士的な人だし。私を襲ったりしません」
新巻さんも言う。
でも、僕はどうして、こう、安全な人に見られるのか。
僕だって二人だけだったら、今晩、新巻さんを襲っちゃったかもしれない(襲わないけど)。
「そうだよね。先生、考えすぎだったかな」
「考えすぎです!」
僕と新巻さんが二人で声を揃えた。
先生は、本当に僕達が二人っきりだから、それが心配でここに来たのか。
それとも、それはただの照れ隠しなのか。
「毛布ありがとう、もう温まったから」
先生がココアを飲み干して、被っていた毛布を脱いだ。
「じゃあ、客間の方に置いといてください」
僕が言って、「分かった」と、先生が客間に毛布を置きに行く。
あれ、そう言えば、客間には……
「あ、あ、あ、あなた達! これは、これは、どういうことなの!」
客間から、先生の悲鳴に近い声が聞こえた。
先生が見たのは、客間の真ん中に敷かれた、二組の布団だ。
布団と枕がぴったりくっついていて、さっき新巻さんがふざけて横になったから、そこで寝ていたみたいに、掛け布団が乱れている。
布団だけ見たら、完全に事後だ。
「やっぱり、もう、あなた達は、そういうことなのね」
やっと引っ込んだ先生の涙が、またにじみ出てきた。
「二人で仲良く、大人への階段を登ったのね!」
大人への階段て。
興奮した先生を納得させるのには、凄く、時間がかかった。
加えて、小学生に「超ひも理論」を教えるくらいの忍耐力が必要だった。
僕が布団をくっつけて敷くという悪戯をして、新巻さんがそれに応えて僕に仕返ししたことを、二人で丁寧に説明して、どうにか理解してもらう。
「まあ、何もなかったってことは分かったけど、それにしても、二人で悪戯し合ったりして、ずいぶんと仲いいのね」
先生が言って、頬を膨らませる。
「先生、せっかく来たんだし、体も冷えてるから、星が見えるお風呂に入りませんか?」
話を逸らすみたいにして、僕が訊いた。
お湯は抜いちゃったけど、まだ釜は熱を持ってるし、薪の扱いも分かったから、さっきより速く焚けると思う。
「星が見えるお風呂? うん、入る入る」
先生が声を弾ませた。
単純な人だ。
良く言えば、さっぱりとした性格の人だ。
ヨハンナ先生に、ダイニングテーブルで鹿肉のポトフの残りを食べてもらっている間に、僕は風呂を沸かした。
家のほうの脱衣所から、タオルと着替えを借りて、用意しておく。
ウッドデッキから飛び石を飛んで、先生を五右衛門風呂がある小屋へ案内した。
「わあ、本当に星が見えるお風呂だね」
先生が言って、服を脱ぎ始めるから、僕は急いで小屋から出てドアを閉める。
「湯加減、どうですか?」
壁越しに僕が訊いた。
「うん、丁度いいよ。体の芯から温まる」
しばらく、先生がお湯をかく音と、薪がはぜる音だけが聞こえる。
僕は火かき棒で薪を突きながら、炎を見ていた。
なんか、こうして火の番をしながら先生の横に付き添っている時間が愛おしい。
さっきの新巻さんのときもそうだったけど、すぐ近くで女子がお風呂に入って、完全に安心して、リラックスしてるのを壁越しに感じて、幸せな気持ちになった。
お湯の音で、妄想も膨らむし。
「きゃ!」
壁の向こうから、ヨハンナ先生の短い悲鳴が聞こえた。
僕は反射的に立ち上がって、小屋の中を覗いてしまう。
すると、タオルで胸を隠して、湯船に肩まで浸かった先生が、舌を出していた。
騙された。
「こら、覗いちゃダメだぞ!」
先生は手で鉄砲を作って、僕の顔にお湯をかける。
裸電球の下で、先生は悪戯っぽく笑っていた。
先生にかけられたお湯は、ちょっとぬるい。
焚き口に戻った僕は、薪を足して、火を強くした。
仕返しに、先生を釜ゆでにしてやる。
「塞君、ありがとうね」
ヨハンナ先生が、あらたまって言った。
「えっ、なにがですか?」
「新巻さんのこと。彼女、力が抜けて、いい笑顔見せてるもの。あんなに饒舌な新巻さんは初めて見たよ。本当は担任教師として、私が対応しないといけなかったんだけどね。彼女が周りと打ち解けられずにいるの、分かってたし」
そう言ったあとでしばらく、バシャバシャとお湯を掻き回す音がする。
「新巻さんを塞君と同じ班にして、良かったよ。本当に、ありがとうね」
先生も不安を抱えながら先生をしてるんだなと思った。
こんな先生の手伝いなら、僕は、何だってしてあげたい。
仕事をする先生を支えたい。
あれ、でも、これって僕が将来目指してることじゃないのか?
僕が将来、主夫になって働く妻を支えるという………
これはその理想の形だ。
「なんか、いい匂いしない?」
壁の向こうから、先生が訊いた。
「はい、焚き口で、アルミホイルに包んだジャガイモを焼いてます。あとで、バターとか、塩辛とか乗せて食べましょう」
僕はこっそりとジャガイモの焼き芋を仕込んでいた。
焚き口に六個のジャガイモを入れて、焼いている。
先生にも、この農場の採れたての新ジャガ、味わってほしかったし。
「さすが、塞君、気が利くね。それに、ビールがあったら最高なんだけど」
「先生、今日ここに泊まるんですよね」
「うん、他の先生の許可はもらってる」
「だったら一本くらい、いいと思います。冷蔵庫の中に冷えてました」
益子さんのだけど、こんな事情だし、一本くらい貰っても、文句は言わないだろう。
火の始末をして、先生と二人で母屋に戻ると、客間の襖が、また閉まっていた。
中から光が漏れていて、カタカタと、キーボードを打つ音が聞こえる。
「この襖は開けたらダメです」
僕が先生に言った。
「新巻さんは取り込んでるらしいので」
「取り込んでる?」
先生が首を傾げる。
しばらくして、新巻さんが部屋から出てきた。
「せっかく敷いたんだから布団はこのくっつけたままでいいよ。三人で一緒に、川の字になって寝よう」
先生がそう言って、僕と新巻さんに肩を組んだ。
「私が真ん中に寝るから、安心でしょ? 篠岡君が襲ってきたら、私が撃退してやるし」
ヨハンナ先生が、新巻さんに言う。
先生が真ん中に寝るのは、新巻さんにとって安心でも、僕には危険度が増したような気がするんだけど。
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