第126話 鹿肉のロースト

「これ、私が撃った獲物ね」

 ジムニーで農場に現れた三鹿みろくさんと名乗る女性は、そう言ってビニール袋を掲げた。

 一抱えある、大きな赤身の塊だ。


「何の肉ですか?」

 ウッドデッキのフェンス越しに僕が訊く。

「エゾシカ。美味しいよ。ヘルシーで栄養豊富で、DHAも含まれてるし」

 三鹿さんという、その人は言う。


 柔和で、包容力がありそうな丸顔。

 ほぼすっぴんで、つるつるの肌。

 栗色の髪を、後ろでお団子にしている。

 服装はデニムのシャツにカーキ色のパンツで、足元は地下足袋みたいな靴を履いていた。


 僕と新巻さんが順に名乗ると、

「篠岡君と、新巻さんね」

 三鹿さんは指さし確認をする。


「あれ、益子夫妻は?」

 辺りを見回して、三鹿さんが訊いた。


「それが、僕達がここに来たときに、奥さんが産気づかれて、旦那さんが急いで病院に連れて行きました」

 僕が答える。


 あの夫婦、益子さんていうのか。

 今、やっと名字が分かった。


「そう、予定日は来週だったはずだけど、早まったのかな? 君達は、大変な時に来ちゃったね」

 三鹿さんに言われて、僕は苦笑いをする。


「頼まれてた鹿肉、持ってきたんだけど、どうしようかな……」

 三鹿さんは、鹿肉が入ったビニール袋を持ったまま、腰に手を当てて考えた。


「あのう、三鹿さんは、女性の猟師さんなんですか?」

 僕は訊く。

「うん、そうだよ。あれ、君は女が猟師やってるなんておかしいって思う派?」

「いえ、そんなことは、全然」

 むしろ僕は、そういう偏見からは一番遠い人間だと思う。


 女性なのに護衛艦の艦長やってるの? って言われる母を、ずっと見てきたから。



「ところであなた達、お昼とか、ちゃんと食べたの? 二人だけで、大丈夫だった?」


「はい、家にあるものとか、畑のものとか、自由に使っていいって言われたので、僕が、ジャーマンポテトと白インゲンのスープを作って、二人で食べました」


「君が? 作ったの?」

「はい、僕は主夫部の部員ですから」

 僕は胸を張って答えた。


「主夫部?」

 三鹿さんが、眉間に皺を寄せる。


 僕は主夫部のことを説明した。

 僕達主夫部は、将来専業主夫になることを目指している男子と、将来、専業主夫の夫を迎えるつもりの女子からなる部活で、今は学校の寄宿舎で、寄宿生の女子のお世話をしながら、家事の腕を磨いていると。


 僕の説明を、三鹿さんは、うんうんと頷きながら聞いていた。


「へぇ、男子で家事ねえ」

 説明が終わると、三鹿さんは頭の天辺から爪先まで、僕を値踏みするように見る。


「あれ、三鹿さんは、男が家事をするのは、おかしいって思う派ですか?」

 僕はさっきの三鹿さんの言葉を使って、言い返してやった。


「あー、これは一本取られたね。ううん、男が家事をしても全然おかしくないよ。あなたみたいに可愛い主夫なら、なおさら。私、独身だし、お婿さんにもらいたいくらい」

 三鹿さんが言った。

 僕のこと、「可愛い主夫」って言った。

 お婿にもらいたいって……


 でも僕は騙されない。

 大人の女性は、平気でこんなこと言うし。

 男子高校生の心を弄ぶし。


 それはそうと、三鹿さん、独身なのか。



「益子夫妻は夕飯にこの鹿肉で君達をもてなすつもりだったんだろうけど、どうしようか? 料理方法は分かる?」

「いえ、ジビエ料理は、作ったことありません」

 作ったことどころか、食べたことだってあんまりない。

 ジビエで思いつくのは、昔、祖父母の家で食べた、牡丹鍋くらいだ。


「そう、じゃあ、私が教えてあげるよ。こういうのも、修学旅行の貴重な体験になるから、いいでしょ?」


「はい、お願いします!」


 僕は思わず、大声を出してしまった。

 新しい玩具を買ってあげると言われた子供みたいだ。

 興奮してしまって、ちょっと恥ずかしい。

 だけど、新しいことに挑戦出来て、料理の腕も上がるんだから、興奮しても仕方ない。


 僕の隣では新巻さんが懐からメモ帳を取り出していた。

 彼女はメモする気、満々だ。


 僕達が前のめりになっているのに、三鹿さんが苦笑する。



「その前にちょっと汗を流させて。今日も朝から猟に出てたから、さっぱりしたいし、料理するなら、綺麗にしないと」

 三鹿さんはそう言って、玄関に回った。

 家に上がって、慣れた様子で風呂場に向かう。


「大丈夫、この民宿の夫婦とは家族みたいな付き合いだから、勝手にお風呂借りても文句言わないし。タオルの場所も、着替えも分かるの。勝手知ったる他人の家、ってね」

 三鹿さんはそう言って、脱衣所のタオルが入っている棚を開けた。

 着替えは、奥さんのを借りるらしい。


「あのう、もしよければ、脱いだ服、洗っておきましょうか? 天気がいいから、料理を教えてもらっているあいだに乾くと思うし」

 風呂場の入り口で僕が訊いた。


「ああ、そうか、君は主夫部だったね。じゃあ、お願いしようかな」

 三鹿さんが言って、デニムのシャツを脱いで僕に渡す(三鹿さんが中にTシャツ着てて良かった)。


「あの、パンツとか、下着も……」

 妹とか寄宿生のを見慣れてますし、毎日洗濯してるんで、それで性的に興奮したりしません、って、いつも通り言おうとしたら、


「パンツとかも、洗ってくれるよね。主夫なんだから、そんなのに一々恥ずかしがってないでしょ?」

 三鹿さんの方から、そう言ってきた。


「あ、はい」

 なんか、先に言われちゃって調子が狂う。


「じゃあ、お願いね」

 三鹿さんは、そう言って脱衣所のドアを閉めた。


 三鹿さんがシャワーを浴びている間に洗濯機を回して、家の前の物干し竿に干した。

 まさか、修学旅行で北海道に来て、初対面の女性のパンツを干すとは、予想も出来なかったけど。



「あー、さっぱりした」

 濡れた髪の三鹿さんが、風呂場から出てくる。

 三鹿さんは白いTシャツにジーンズで、首にタオルを掛けていた。


「それじゃ、まず、ローストディアを作ろうか」

 鹿肉の塊を前にして、三鹿さんが言う。


 三鹿さんに指示に従って、僕は肉の表面にすり下ろしニンニクと、塩コショウをすり込んだ。

 フライパンにオリーブオイルを引いて、表面を焼く。

 200℃のオーブンで15分焼いたら、アルミホイルに包んで余熱で30分。

 後は適当な大きさに切って、ソースを作る。


 ソースは、肉を焼いたフライパンに、バルサミコ酢を入れて煮詰め、塩コショウで味を整えて作った。


「基本的に、ローストビーフの要領で作ればいいんだけどね。ジビエだからっていって、尻込みしないで」

 三鹿さんは言う。


 他に、鹿肉の竜田揚げと、ポトフを作った。

 竜田揚げは、醤油と生姜、みりんで下味をつけて、片栗粉をまぶしたら油で揚げる。

 ポトフは、ニンジンやジャガイモ、タマネギを丸ごと寸胴鍋に入れて、鹿肉と豪快に煮込んだ。


「畑からそのままだもん。美味しいよ」

 三鹿さんが言う。



 料理を習っていたら、玄関のほうで、電話が鳴った。

「たぶん、益子さんからだよ。私が取るね」

 三鹿さんが小走りで電話に向かう。


「ああ私、うん、そう。うん、うん………分かった」

 電話口の三鹿さんの声色から、話の内容が良くないのは分かった。


「赤ちゃん、まだ産まれないって。旦那さんが付き添ってるから、ちょっと今日は、こっちに帰れないみたいね」

 受話器を置いて、三鹿さんが言う。


 そんな予感はしてたけど。


「町役場の人を呼ぼうか? 私がいてあげたいところだけど、明日の準備もあるし、一度家に帰らないといけないんだよね。明日は、狩猟体験とか、近所の農家の奥さん達指導のスイーツ教室とかあって、見てあげる人が来るからいいんだけど、今晩がね……」


「いえ、大丈夫です。ここに主夫がいますから。僕達だけでなんとかなります」

 僕は言った。


 こうして主夫がいるのに、町役場の人や、他の人の力を借りたとあっては、主夫部の名折れだ。

 母木先輩や、部員に対して申し開き出来ない。


 食べる物も十分にあって、寝るところもあるし。


「私も、大丈夫です。って言っても、篠岡君にお世話になってばっかりだけど」

 新巻さんも言う。


「そう? それじゃあ、二人でなんとかやっててね。私も、明日はなるべく早く来るようにするから」



 外は日が傾いてきた。

 三鹿さんが残りの肉を冷凍庫に仕舞っているあいだに、僕は洗濯物を取り込んで、畳んで渡す。


「何かあったら電話して。でも、ここまで来るのに一時間くらいかかるから、殺人鬼とか、ゾンビに襲われたら、一時間は耐えてね」

 三鹿さんは笑いながらそう言って、電話番号を教えてくれた。

 僕のスマートフォンにまた一つ、女性の電話番号が増える。



「それじゃあ、また明日」

 三鹿さんは、手を振って、夕暮れの小径をジムニーで走っていった。


 暗くなると、農場を囲む山々が、僕達にのしかかる大きな壁みたいに見えた。

 くえっ、と正体が分からない動物の声が、木々の奥から聞こえる。


 新巻さんは落ち着いていて、平気な顔をしてるけど、やっぱり不安なんだろう。

 スエットの袖から少しだけ見える手が、硬く握られている。



「そうだ、あの薪のお風呂、焚こうか?」

 僕は言った。


「せっかくだし、あの露天の五右衛門風呂、入ろう。ご飯食べ終わったら、用意するよ」

 さっき、あの風呂を見に行ったとき、新巻さん、興味津々だったし、新巻さんにもっと修学旅行の想い出作ってもらいたいし。


「うん、でも……」

 なんか、新巻さんが、下を向いてもじもじしている。


「二人で入るわけじゃないよね」

 新巻さんが、僕にそんなことを訊いた。

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