第124話 ひだまり

「ほら、先生、脱いじゃ駄目です!」

 僕はホテルの浴衣を脱ごうとするヨハンナ先生に言った。


 朝五時、寝ぼけ眼のヨハンナ先生は、半分眠ったままで着替えようとしたのか、帯を解いて浴衣を脱ぎかける。


 明日は朝が早いって言ったのに、遅くまで僕と新巻さんにトランプを強要したのは先生だ。

 三人で大貧民をやって負けが込んだ先生は、勝つまでやると言って僕達を放さなかった。


 その結果が、この寝ぼけ眼だ。


「ああ、そうか。新巻さんがいるもんね。脱いだらまずいよね」

 先生が言う。

「いや、新巻さんがいなくても脱いじゃ駄目です! ってゆうか、普段は僕の前で脱いでるみたいな口ぶりはやめてください!」

 新巻さんに勘違いされるし。


 先生に顔を洗いに行かせた。

 僕は自分の支度もしながら、ぼさぼさになっている先生の金色の髪を梳かす。


「今日の夜の着替えと、明日の着替えは分かりますね? 二日間、先生と離れ離れになりますけど、大丈夫ですか?」

 先生の髪を梳かしながら、僕が訊いた。


 今日から二日間は、コースごとに班で別行動だ。

 ヨハンナ先生は、他の大人数のコースの引率で、僕達とは行き先が違う。

 次に先生に会うのは、四日目の最終日だ。


「大丈夫だって」

 先生はそう言って大あくびをした。

「近くに塞君がいると、甘えちゃうだけだよ」

 先生は言う。

 頼られて喜んでいいのか、注意するべきなのか分からない。


「私だって一人でいれば、凛々しい敏腕教師だから」

 先生は言った。

 でも、以前、まだ先生が主夫部顧問になる前の凄まじい部屋を見ている僕としては、その言葉に納得出来ない。


「ほら先生、脱がないでください」

 隙あらば浴衣を脱ごうとするから注意した。

 先生のブラジャーの肩紐が落ちたから直す。


 僕とヨハンナ先生の様子を、新巻さんが興味深そうに見ていた。

 新巻さんはもう準備も整って、制服もハーフアップの髪も完璧だ。

 スーツケースの荷物もまとまっている。


 僕達を見ながら、新巻さんは懐からメモ帳を出して、なにかメモをし始めた。

 何をメモしているのか、凄く気になる。



 僕達のコースのほうが遠くて出発が早いから、先生より先に部屋を出た。


「いってらっしゃい」

 部屋のドアのところで、先生が見送りをしてくれる。

「いってきます」

 僕と新巻さんが答えた。


「あなた達は一夜を共にした仲なんだから、お互い、助け合いなさいよ」

 廊下で先生が言う。

 先生、言い方が……確かに一夜を共にしたけど。



「先生は、いつもこうなの?」

 一階に降りるエレベーターの中で、新巻さんが訊いた。

「二日酔いがない分、今日はまだいい方かな」

 僕は答える。

「ふうん」

 新巻さんの口元が笑っている。


「主夫部も運動部並に大変だね」

 新巻さんが言った。


 確かに、そうかもしれない。




 一階のロビーに行くと、僕達を案内をしてくれる担当者が待っていた。

 庄司さんという二十代前半の男性で、修学旅行を農家へのホームステイにと企画した、道北、滝別町の職員だという。

 小柄で、僕達に交じって高校生だといっても誰も疑わないような、童顔の人だ。


「みなさん、おはようございます」

 庄司さんは、小学生でも相手にするみたいに、笑顔で言った。

「お、おはようございます」

 僕達は少し尻込みして返事する。


 ロビーには同じように農家民宿にホームステイするコースを選んだ生徒、四班、二十人が集まっていた(僕と新巻さんは、選んだわけじゃないけど)。


「それじゃあ、滝別までは三時間くらいかかるから、さっそく、出発しましょう」

 庄司さん促されて、僕達は用意されたマイクロバスに乗った。


 まだ夜が明け切らない朝六時に、バスは出発する。

 空には雲一つなく、今日も良い天気になりそうだ。


 バスが走り出してここが北海道だと実感したのは、視界が開けていることと、道路が真っ直ぐなことだった。

 視界を遮るようなものがなくて、どこまでも田畑が続いて、その中を真っ直ぐな道路が貫いている。


 晴れて空が高いこともあって、自分がすごく、ちっぽけに思えた。

 流れる風景を見ながら、ちょっとセンチメンタルな気持ちに浸る。


「道端に、下向きの矢印の標識が幾つもあるでしょう?」

 庄司さんがバスの中の皆に語りかけた。

「あれは、道路との境を示しているんだよ。雪に覆われたら、道路がどこか、分からなくなるからね」

 庄司さんが言う。

 なるほど、確かにこれだけ開けていて一面雪になったら、道路を見失うかもしれない。矢印の標識は、そこかしこにあった。

 冬になればその辺り一面が真っ白になるんだろうか。

 冬のそんな景色も見てみたいと思った。


 僕の隣の席で新巻さんは、庄司さんの話も一々メモに残している。




 そのまま、バスで二時間くらい走った。

 真っ直ぐな国道を下りて、しばらく行くと、バスは山の中に分け入って行く。


 雄大な景色から、一転、険しい自然の森が目の前に迫った。

 細い道のすぐ脇は、木々や熊笹がうっそうとしている。

 僕達のコースは「里山の農家にホームステイして、農業と狩猟体験コース」だ。

 確かに、そこには獣がいそうな森が広がっている。


 そうして、山道をしばらく走って、僅かに森が途切れた山中で、バスが停まった。

 道端に看板が立っている。

 そして、その「白石農園」と書かれた看板の前に、五十代の男女が立って手を振っていた。

 ここがホームステイ先の一箇所らしい。

 まず、一組目の班、五人がここでバスを下りた。


 そしてまた、十五分ほど山道を走って、バスが停まる。


「それじゃあ、ここが篠岡君と新巻さんが泊まる農家民宿『ひだまり』だから」

 庄司さんが言った。

 石垣に小さな木の看板が掛かっている。

 白木に焼きごてで『ひだまり』と文字を刻んだ看板だ。


「あれ、オーナーさんに、入り口で待っててくださいって頼んでおいたのに、いないなぁ」

 庄司さんが首を傾げた。

 バスの運転手さんがクラクションを鳴らす。

 でも、誰か出てくる気配はない。

 そもそも、この森の中で、クラクションは誰かの耳に届いているんだろうか。


「あ、大丈夫ですよ。場所さえ教えてもらえれば、自分達で行きますけど」

 僕が言った。新巻さんも頷く。

 まだ、後の班も待っていて、忙しそうだし。


「そう? それじゃあ、この小径をずっと行ったところだから。10㎞四方、周りに他の家は一軒もないから、迷うことはない。すぐに分かるよ」

 庄司さんが言う。

 僕達はマイクロバスから降りて、トランクからスーツケースを取り出した。


「それじゃあ、明日、様子を見に来ますから」

 庄司さんはそう言ってバスのドアを閉める。

 僕達は手を振って別れた。


 バスが行ってしまうと、辺りは木々の葉が擦れ合う音以外、何も聞こえなくなる。



 庄司さんが示した小径は、道路に対して直角に、ゆるい傾斜で上がっていた。

 少し歩いて石垣を越えたら、建物が見える。


 でも、そこまでまだ百メートルくらいありそうだ。

 森の中に、開けた農場がある。


「とりあえず、行ってみようか」

「うん」

 新巻さんと並んで歩いた。

 スーツケースを転がせないから、歩くのに苦労する。


 小径の両脇は、ジャガイモやタマネギ、トウモロコシの畑だ。

 これから昼食や夕食で、採れたてを味わうことが出来るんだろう。


 農家民宿というから、日本の昔風の農家をイメージしてたけど、僕達が目指す建物は、大きな煙突が付いた二階建ての和モダンという感じの建物だった。

 外壁が朱色に塗られていて、周囲の緑の中でもよく目立つ。

 雪が降って辺りが白くなったら、赤い建物は目立っていいのかもしれない。



 汗ばみながらどうにかスーツケースを運んで、玄関まで辿り着いた。

「ごめんください」

 僕が玄関の引き戸を開けようとしたら、その前に向こうから引き戸が開く。


 中から四十前後の男性が飛び出して来た。


「あんた達、ホームステイの生徒さん?」

 鬼気迫る表情の男性が訊く。

 よく日に焼けていて、頭を坊主にした筋肉質な男性だ。

「はい、そうです」

 僕はわけも分からず答えた。

「悪いね、嫁が急に産気付いて、今から病院に連れて行くから」

 男性の視線の先、玄関の奥に、グレーのワンピースを着た、お腹の大きな女性が座っている。

 訊くまでもなく、これが奥さんだろう。


「本当にすまない。家ん中入って、中のもの何でも使っていいから。冷蔵庫の中のものでも、畑の野菜でも、何でも採って食べていいから。ちょっとあんた達だけでやっててもらえるかな」

 男性はそう言うと、奥さんの手を引いて、靴を履かせた。


「ごめんなさいね、こんな時に」

 脂汗をかいた奥さんはそう言いながら、旦那さんに支えられて、玄関先に停まってたピックアップトラックに歩いていく。


「いえ、お気遣いなく」

 僕はトラックのドアを開けて、奥さんが助手席に乗るのを手伝った。

「元気な赤ちゃん、産んでください」

 新巻さんが声を掛ける。

「ありがとう」

 奥さんは、苦しそうな声で、それでも笑顔を見せた。

 笑窪がチャーミングな人だ。


 旦那さんが運転席に回り込むと、シートベルトを締めるのもそこそこに、ピックアップトラックは猛スピードで走って行った。

 小径に土煙が上がる。


 車が行ってしまうと、また、トウモロコシの葉が擦れ合うかさかさした音しか聞こえなくなる。



「なんか、凄い展開だね」

 僕が言うと、

「うん」

 と、新巻さんが頷いた。


 まだ二人の名前も訊いてないし。



 僕と新巻さんは、初めて来た農家に、二人、取り残された。

 庄司さんは確か、10㎞四方に他に家がないって言っていた。

 10㎞四方に、僕と新巻さんしかいないってことか。人間は。


「ここ、アンテナ一本も立ってないよ」

 スマートフォンの画面を見て、新巻さんが言う。

 キャリアが違う僕のスマートフォンも圏外だった。


 それを確認した新巻さんは、なんだかすごく嬉しそうだ。

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