第95話 しなの

「お兄ちゃん、入ってきていいよ」

 リビングの中から、花園の声が聞こえた。

 廊下で、女子達を待ちくたびれていた僕は、立ち上がってリビングに入る。

 長く待たされて、お尻が痛い。

 でも、よく考えてみると、なんで僕が追い出されるんだ。

 確か、リビングは僕の部屋って、決まったはずだったのに。



 リビングでは、弩とヨハンナ先生が、僕が縫った浴衣を着ていた。

 弩の藤色地に朝顔の浴衣と、ヨハンナ先生の藍色地に白抜きのあざみの浴衣。

 弩は髪を上げていて、ヨハンナ先生は珍しくポニーテールにしている。

 弩の浴衣の着付けは、ヨハンナ先生がしてくれたらしい。

「日本人らしく、浴衣くらい着られないでどうするのって、母からうるさく仕込まれたからね。まだ、覚えてたよ」

 ヨハンナ先生が言った。


 二人を水着にして(勝手になったんだけど)採寸したから、浴衣はちゃんと体に合っている。我ながら良くできたと思う。


 二人は、僕の前で回ってみせた。

「弩、可愛いよ」

 僕が言うと、

「嬉しいです! 先輩、ありがとうございます!」

 弩が声を弾ませて言う。

 からかうつもりで可愛いって言ったのに、正面から真っ直ぐに返されると、なんか、調子が狂う。でも、縫って良かったと、心から思った。

 こんなふうに真っ直ぐなところは、弩の魅力の一つだ。


「えーと、先生も、凛としてて格好いいです」

 ヨハンナ先生が子犬みたいに僕の言葉を待っていたから、僕は言う。


「ありがとう塞君。ほら、サービス、サービス」

 ヨハンナ先生はそう言って、浴衣の前をはだけて、太股を見せようとした。

 凛としてるって褒めたのに、台無しだ。

 まあ、先生のそういうところも、魅力ですけど。


「お兄ちゃん! 帯締めたし、いつもやってる悪代官に帯を解かれて、くるくる回される町娘ごっごやろうよ」

 花園が言う。

「先輩、先輩はいつも、妹さん達にそんなことをしているんですか?」

 弩が僕に、軽蔑したような視線を送ってきた。

「花園、誤解されるようなことを言うんじゃない。それは子供の頃、ふざけてやってただけだろうが」

 僕が言うと、花園は「そうだっけ?」と、てへぺろで誤魔化す。


「先生、回らないでください」

 ヨハンナ先生が自分で帯を解いて勝手に回っているから、僕は注意した。



「それで、これ着て、どこのお祭に行くんだ?」

 僕は訊いた。

 行き先は花園と枝折、弩の三人が、ここ二、三日、僕が浴衣を縫っている間に、一生懸命調べていた。

「うん、港の花火大会、海上花火のやつに行こうと思う。前、みんなで行ったの覚えてる?

 花園が訊いた。

「ああ、あれか」

 それなら子供の頃、両親に連れられて行ったのを覚えている。

 海から打ち上がる花火を、人混みの岸壁から見ていた。

 近くに造船所があって、ちょうどそのとき、建造中の護衛艦が係留されていたのを思い出す。これはお母さんやお父さんが乗ってる船だよと、父が説明してくれたのを、僕は肩車されて聞いていた。

 枝折は父に手を引かれていて、花園はまだ母に抱かれていたと思う。

 花園がぐずって、母が必死になだめていた。


「日程が次の土曜日でヨハンナ先生も休みだし、みんなで行けるしね」

 そう言って、花園は先生とハイタッチする。


「それもね、ゆみゆみのおかげで、すっごい所から、花火を見られることになったんだよ」

 花園が言った。

「すごい所からって、ビルの屋上とか、ホテルのスイートルームとか?」

 そうだ、弩は、日本を代表する大財閥の娘だった。

 花火が見えるビルとか、ホテルとかを借り切ったりしたのだろうか。

「ううん、それよりも、もっともっと素敵なところ」

 花園が勿体振る。


「あのね、船で、海の上から、花火を見られるんだって!」

 花園が僕に飛びついてきて、はしゃいだ。

 枝折もすまし顔だけど、かなり、興奮しているみたいだ。


「弩、本当か?」

「はい、みんなで夏祭りに行くって母に報告したら、母は、それならちょうど船を出すから、みんなで一緒にどう? って、言ってくれたんです。母も、普段私がお世話になってる皆さんに、お礼がしたいからって」

 弩が答えた。

「船って、クルーザーとか?」

 僕が弩に訊く。

 クルーザーで海から花火見学とか、金持ちか!(金持ちだけど)

「いえ、分かりません。母が用意するって、それだけ言っていたので」

 弩は、そこは首を傾げた。

「もしかして、豪華客船とかだったりして」

 ヨハンナ先生が言う。

 まあ、それも考えられる。大弓グループにはクルーズ船の運営会社もあるし。


「それだったら、お酒もお料理も、飲み放題食べ放題かな」

 先生はそういって、含み笑いをする。

 先生……

 浴衣で、帯締めてるんだから、食べ過ぎ、飲み過ぎとかには注意してください。

 せっかくの浴衣美人が台無しになる。




 それからというもの、土曜日までに宿題を終わらせると、花園と枝折、弩の三人は、黙々と勉強をした(僕の部屋のはずのリビングで)。

 学校から帰って来ると、ヨハンナ先生も加わって、みんなの宿題を手伝った。

 現役教師が手伝うんだから、宿題は素早く、そして完璧に片付く。


 この、女子達の団結力はなんなんだ。



 土曜日になると、朝からもう、みんなちゃんと自分達で起きて来て、浴衣の着付けをした。

 僕はリビングから追い出されて、渋々、廊下で着替える。


 弩の母が寄越す迎えが来るのは午後三時なのに、もう、お昼過ぎにはすっかり準備が出来ていた。

「いつもこれくらい、自分達でやってくれるたらいいのに」

 僕が言うと、女子達はそれを聞こえないふりして、きゃっきゃうふふしている。



 迎えが来るという、午後三時ぴったりに、家のチャイムが鳴らされた。

 出て行ってみると、家の前に黒塗りのアルファードのハイヤーが停まっていた。

 運転手さんが、四十五度に体を折って、丁寧に頭を下げる。


「これで行くの?」

 ヨハンナ先生が、少し緊張していた。

 僕も息を呑む。

 汗もかくし、花火大会だからと思って、僕はTシャツにジーンズというラフな格好にしたけど、これは服装を間違えたか。



 父のランドクルーザーとも、先生のフィアットとも違う、魔法の絨毯みたいな乗り心地のハイヤーで、一時間くらい、走った。


 港に近づくにつれて花火大会の気配がしてくる。

 歩道に浴衣を着た人達が歩いていたり、綿菓子の袋を抱えた女の子がいたりする。

 どこからともなく、お祭囃子が聞こえてきた。

 焼きそばだろうか、たこ焼きだろうか、焦げたソースの香りがする。

 手を繋いで歩いている、僕と同年代のリア充カップルも見えた。

 べ、別に、うらまやしくなんてないし。

 僕はこうして、ハーレム状態だし(二人は妹だけど)。


 もうしばらく走ると、日が傾いて、沿道に吊されている提灯の明かりが目立つようになった。

 否が応でも、気分が盛り上がってくる。



 僕達の乗るハイヤーは、一旦、祭の喧噪から離れて、港の端、造船所の方に入っていった。

 造船所の門を通過して、幾つもある建物の脇を抜け、奥の岸壁に停まる。


 運転手さんが「お疲れ様でした」と笑顔で言った。

 僕達が乗るという船は、この造船所の岸壁に係留されているのだろうか。


 運転手さんにお礼を言ってハイヤーから降りると、そこで紺のスーツの女性が僕達を待っていた。

 髪を一本の後れ毛もなく引っ詰めている、縁なしの眼鏡の女性だ。


 ハイヤーから降りた弩が、その女性に挨拶した。

 お久しぶりです、とか言ってるから、二人は知り合いらしい。


「私の母の秘書をしている六分儀ろくぶんぎさんです」

 弩が彼女を紹介してくれた。ヨハンナ先生と同年代か、少し上だろうか。

 ヨハンナ先生が北欧風の美人なら、彼女は日本風の美人という感じで、黒い髪に切れ長の目が印象的だ。

 彼女は熱いのに、皺一つないスーツをパリッと着こなしている。

 汗もかいていない。

 大財閥トップの秘書ともなれば、汗の出方さえ、コントロール出来るのだろうか。



「これから、この船に乗っていただきますが、少し特殊な船ですので、私がご案内いたします」

 六分儀さんが言った。


「この船って、船はどこですか?」

 僕が訊く。

 クルーザーらしき船も、豪華客船と思われる船体も、どこにも見当たらない。


「これです。目の前の」

 六分儀さんが、笑顔で言った。


 でも、これって言われても、僕達の目の前には壁しかない。

 グレーの壁が、どこまでも続いているだけだ。

 それは、堤防か、工場の建物のような壁だった。

 この壁なら、どこかの巨人も易々と食い止めることが出来るかもしれない。


「この船です。まだ海上公試中で、自衛隊には引き渡していませんが、我が社で建造中の、護衛艦『しなの』です」

 六分儀さんは、手で目の前の壁を示す。


 そこにあるのは、見上げるばかりで、どこまでも続くような、ただただ大きな船体だった。

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