第59話 夜明け前

 僕達が真っ白にした第二視聴覚室の壁は、元の黒くすすけた壁に戻っていた。

 文化祭当日に来校者に配る予定だったチラシが燃えて、灰になって舞っている。

 チラシが置いてあったテーブルの辺りに消火剤が撒かれて、床が白くなっていた。

 教室全体が焦げ臭い。

 むせ返るような匂いは、窓を開けて空気を入れ換えても出て行かなかった。



 午前三時頃、第二視聴覚室でぼやがあったと通報してくれたのは、我が校の教師、吉岡教諭だった。

 吉岡教諭が寄宿舎のヨハンナ先生に伝えて、先生が中庭のテントで寝ていた僕達を起こした。

 僕達主夫部と、ヨハンナ先生、それと、騒ぎを聞きつけた鬼胡桃会長がすぐに視聴覚室に駆けつけた。


 そこで僕達が見たのは、変わり果てた主夫部カフェの惨状だった。


「僕は宿直だったので、校内を見回ってたんです。徹夜で残っている生徒もいるし、事故のないようにと見回っていたんですが、丁度この教室の前に来たとき、ドアのガラス窓から火のようなものが見えて、中に入りました。そうしたらテーブルの上で紙が燃えてたんです。それで急いで廊下から消火器を持ってきて、消し止めました」

 吉岡教諭が説明する。


 吉岡教諭は二年に担任を持つ先生で、僕も生物を習っている。

 二十台後半でヨハンナ先生と同年代。

 百九十に届く長身で、いつも白衣を着ていた。

 丸めがねに顎髭あごひげ風貌ふうぼうは、教師というより、芸術家かミュージシャンという雰囲気の人だ。


「まだ、それほど火が回ってなくて、消火器だけで消し止めることは出来たんですが……」

 プリントが置いてあったテーブルは天板が焦げて真っ黒になっていた。その隣のテーブルも煤を被って、一箇所、丸くくり抜いたように元の木目が残っている部分がある以外は、真っ黒だった。

 そして、そのテーブルを中心に白い消火剤の粉が散っていて、それは部屋の床、ほぼ全体に広がっていた。


「誰かが切ったのか、元々切れていたのか、火災報知器は鳴っていませんでした」

 吉岡教諭が言う。

 炎は一時、天井まで達したようで、天井の一部もげていた。


「もしかしたら、原因はこれかもしれません」

 吉岡教諭はそう言って、チラシの灰の上に燃え残った煙草の吸い殻を指す。

 誰かがここで煙草を吸って、それをチラシの上に捨てたんだろう。


 僕達はもちろん、煙草を吸わない。

 それは法律云々の話以前に、ヤニや灰、匂いなど、煙草は掃除の敵になるから吸うはずがないのだ。


「とりあえず消火器で消し止められて、残り火がくすぶっているようなこともないので、消防には連絡していません。それに、ヨハンナ先生にお伝えした以外は、他の先生にも連絡しませんでした。出火したことが他の先生方に知れたら、大事になりそうでしたので」

 吉岡教諭が頭を掻きながら言う。

「このことは黙っておいたほうがいいと思ったので……」

 吉岡教諭は、ヨハンナ先生の目を見ずに言った。

 吉岡教諭の態度を見てると、少なからず、ヨハンナ先生に好意を持っているのかもしれない。


「すみません。ありがとうございます」

 ヨハンナ先生が頭を下げた。

 僕達主夫部も、続いて頭を下げる。


「ああ、いや先生、頭を上げてください。みんなも頭を上げて。せっかくの文化祭に、これが問題になって主夫部の生徒が出られないなんてことになったら、大変だからね。うるさいことを言う人達もいるから」

 吉岡教諭は言った。


 ただでさえ目を付けられている主夫部だ。

 出火の原因の如何いかんに関わらず、他の先生に知れたら、文化祭どころの騒ぎではなくなるだろう。

 吉岡教諭は、それが分かっていて隠してくれたのだ。


 どうやら教師陣の中には、ヨハンナ先生の他にも、僕達に理解がある先生がいるみたいだ。


「それじゃあ、僕はこれで。用心のために見回りに戻ります。他の教室も見てきます。何か手伝うことがあったら、遠慮なく呼んでください」

 吉岡教諭はそう言って教室を出て行った。

 ヨハンナ先生が、その後ろ姿に頭を下げる。



「誰がこんなことを……」

 僕達だけになった教室で、御厨がこぼした。

 部屋を見て泣きそうな顔になっている。

 これは、隠れて煙草を吸っていた誰かの火の不始末、という話ではないだろう。

 煙草を燃えやすい紙の上に放置していったのは、明らかにここを燃やそうとした悪意があった。


 主夫部の文化祭出店を妨害しようとした行為なのだ。


 真っ先に河東教諭が浮かんだ。

 決めつけるのはよくないけど、鬼胡桃会長をおとしいれようとして、平田教諭を使った前例もある。


 犯人のことを考えると、気が重くなった。

 僕達が作ったカフェが燃えたショック以上に、それを悪意を持った何者かがやったという事実が応えた。

 みんなも少なからず同じ想いのようで、黙って教室を見回している。


 そういえば、寄宿舎から慌ててここに来て、みんな寝間着のままだった。

 ヨハンナ先生はロングTシャツ一枚だし、鬼胡桃会長と弩はパジャマ。

 僕達男子部員はTシャツに短パンで、テントで雑魚寝していたときの格好だった。

 初夏とはいえ、軽装で少し寒い。

 悪意を持った犯人のこともあって、寒気で震えた。



「犯人探しは後だ。まず、文化祭のことを考えよう」

 母木先輩が言って、僕達は頷く。

 母木先輩の言うように、前向きに進んでいたほうが気がまぎれるかもしれない。


「文化祭までにカフェを元に戻すことは出来るだろうか?」

 今は木曜日の早朝だ。

 土曜、日曜の文化祭までに、あと二日ある。

 昼間は授業があるけれど、二日は徹夜が出来る。

 眠らなければいいだけだ。


「食材なんかは寄宿舎の食堂に置いてあるから問題ありませんが」

 御厨が言う。

 みんなで買い出しに行った食材は、寄宿舎の食堂に積んであって無事だった。

 食器類もまだ、第二視聴覚室には運び込んでいない。


「制服も寄宿舎のランドリールームに持ち帰っていて無事です」

 錦織が言った。

 昨日の特訓で使った制服は、当日に備えて僕がアイロンをかけるつもりだったから寄宿舎にある。

 焼けてしまったチラシはまた印刷すればいいし、煤や消火剤を被ったメニューなども、作り直すことは簡単だろう。


「あとはこの教室か」

 母木先輩が教室を見回して、溜息を吐いた。

 借りてきたテーブルの一つは使えなくなっている。椅子にも煤や消火剤が付いていて、これは、借りた家具店に黙って返すわけにはいかないから、謝って弁償することになるかもしれない。


 アンティークショップから借りてきたランプは無事だった。

 母木先輩が自宅から持ってきたポスターや現代アートの絵画も難を逃れていた。

 しかし、それらにも問題はある。


「焦げ臭い匂いは消えないだろうな」

 匂いは教室全体に染みついていた。

 僕達がここで作業にかかる前、一年以上前のぼやの匂いが残っていたんだから、この匂いは二日や三日では消えないだろう。

 この焦げ臭い中でカフェを開くのは無理がある。

 せっかくのスイーツやドリンクの繊細な香りを台無しにするし、何よりこの鼻を突く匂いの中でゆっくりくつろごうとは誰も思わない。


「他の教室を探すしかないですよね」

 錦織が言う。


「教室の空きはないわよ。だって、抽選会のとき、あなた達が最後に残ったここを選んだんじゃない」

 鬼胡桃会長が言った。


 そうだった。

 抽選で当たった調理実習室を辞退して、3年E組に譲って、ここに決めたのだ。

 もう残っている教室はない。

 あとはテントを張って外でやるとか、屋台で営業する方法もあるけれど……



 午前四時を回って辺りが明るくなってきた。

 遠くで新聞配達のバイクが走る音も聞こえる。

 学校に残って徹夜した生徒の、ちょっとハイになった笑い声が、校舎に反響していた。

 誰かと話しているのかと思ったら、独りで笑っているようだ。



「いえ、カフェができる場所はあります!」

 しばらく黙って考え込んでいた弩が言った。


「学校の施設で、どこの部活や団体も使用許可を求めていない場所なら、使えるんですよね」

 弩が鬼胡桃会長に訊いて、会長が頷く。


「それなら大丈夫です。私達には、あの場所があるじゃないですか」

 弩が笑顔で言った。

 強がってみせたのではない、本当の笑顔だ。


「出来ますよ。あの場所なら私達はもっといい出店が出来ます。カフェの責任者として断言します。さあ、さっそく作業にかかりましょう!」


 弩の、その自信に満ちた声だけが、今の僕達の希望だ。

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