第5章

第52話 大抜擢

 中間テストが終わって文化祭の準備期間に入った校内は、どこか落ち着かなくて浮き足立っていた。


 普段、閑散としていて、人がいるのかいないのか分からない文化部部室棟を、たくさんの生徒が忙しそうに行き交っている。

 そこここの部室から、時々景気のいい拍手が聞こえたり、歓喜の声が沸いたりした。廊下で熱い議論をしている生徒がいたり、そんな議論が突然、怒号に変わったりする。

 どの部室の前にも、レトルト食品やカップラーメンの箱がうずたかく積まれていた。

 エナジードリンクや栄養ドリンクの箱も見られる。

 レンタルの布団や寝袋が業者から大量に届いていて、部室棟の廊下は人がすれ違うのも困難なくらい、狭くなっていた。

 みんな、泊まり込みや徹夜をいとわない覚悟でいるみたいだ。


 文化部にとって文化祭は学校行事で一番の見せ場だけに、どこの部も必要以上に気合いが入っているんだろう。



 もちろん、文化部だけではない。

 運動部も、出展やステージ上でのパフォーマンスを仕込んでいるらしく、普段、絶え間なく聞こえる野球部の金属バットの音が散発的だし、テニス部の声援も鳴りをひそめている。

 その代わりに、競い合うような複数のギターの音が聞こえたり、まだ十分に揃っていない合唱が聞こえてきたりした。


 クラス単位での参加を考えているところもあって、放課後になっても校舎にはまだ大勢の生徒が残っている。

 クラスの展示や、パフォーマンスの練習に協力しない男子と、主導する女子の間で喧嘩が起きて、教室を飛び出す女子がいたり、泣き出す男子が現れるのも、いつもの光景だ。



 そんな喧噪けんそうのなか、僕達主夫部も文化祭に向けて着実に準備を進めている。


 まずは、夜食用にカレーを鍋一杯、作り置いた。

 弩がすっぽり入ってしまうくらい大きな寸胴鍋に作ったから、これで一週間は持つだろう。

 他の部のようにインスタント食品やレトルト食品に頼らないのは、主夫部なりのこだわりである。


 また、期間中にヨハンナ先生がおやつがないと暴れないよう、冷蔵庫にはアイスクリームやシャーベットなど、日持ちのするデザートをたっぷりと用意した。

 そして、寄宿舎の中庭には、鬼胡桃会長の許しを得てテントを張らせてもらっている。準備作業で学校に泊まり込む必要が生じた場合、そこをベースキャンプにする手筈てはずだ(寄宿舎の空き部屋に泊まらせてもらおうと交渉したけど、それは許されなかった)。


 前段の準備だけで、これだけ手間がかかった。

 でも、準備に手間をかけながら、決してそれが苦ではない。

 むしろ楽しくて仕方がなかった。

 これが文化祭の魔力なんだろう。


 初めての文化祭で、周囲の熱気に当てられた弩が鼻血を出してしまって、鼻にティッシュペーパーを詰めている。

 子供か!



「さて、文化祭に於ける我々、主夫部の出展だが……」

 部室では母木先輩が切り出して、会議が始まった。

 部員は全員、神妙な顔でテーブルについている。

 ソファーにいる顧問のヨハンナ先生も、今日は寝っ転がることなく、背筋を伸ばして大人しく座っていた。



「これまで数ヶ月の活動の成果、その全てを生かして発表に繋げる展示として、ここは一つ、僕から提案したいんだが」

 冒頭から母木先輩が言った。

 普段は僕達の意見を全て聞いて、それをまとめてから自説を述べる母木先輩も、今日は随分と積極的だ。

 三年生で最後の文化祭だし、意気込みも僕達の比ではないんだろう。


「『主夫部カフェ』を開くのはどうだろうか?」


 母木先輩の提案に、部員の僕達は顔を見合わせた。


「実は、僕もカフェがいいと思って、みんなが着る制服をデザインしてきたんですけど」

 錦織がスケッチブックを見せる。

 白衣に、小豆色のエプロンと、お揃いの帽子。

 大手のチェーン店で採用されてもおかしくないような、洗練された制服のスケッチだった。


「僕もカフェがいいと思っていて、メニューを考えていたんですが……」

 御厨が、細かい字でびっしりとレシピの書かれた一冊のノートを出す。

 文化祭カフェ用として、スイーツやドリンクなど、二十種類のメニューがピックアップされていた。

 盛りつけを説明するための、丁寧なイラストまで付いている。


 錦織も、御厨も、母木先輩から提案がなかったら、自分からカフェをプレゼンするつもりで用意していたんだろう。


 考えることは同じだったということか。



 母木先輩が苦笑いをする。

 まるで僕が道化みたいじゃないかと笑った。


「よし、文化祭に於ける展示として主夫部はカフェを運営する。それも、文化祭クオリティではない、本物のカフェを目指す」

 母木先輩が力強く言う。


「異議無し!」

 みんなが声を揃えた。


「錦織はさっそく制服の縫製にかかってくれ」

 母木先輩が言って、錦織は「はい!」と小気味よく返した。


「御厨は考えたメニューの品を、実際に作ってみて欲しい。そこから最終的なメニューを決定しよう」

「分かりました」

 御厨は几帳面にメモをとっている。


「ヨハンナ先生には試食をお願いします。御厨に、忌憚きたんのない意見を言ってあげてください」

「任せておいて。幾らだって食べられるわ」

 ヨハンナ先生が、今までで一番頼もしい返事をした。


「カフェの装飾とその設営は、僕と篠岡でやる。デザインはもう、考えてあるんだ」

 この部室の、フレンチカントリー風のおしゃれな装飾を担当したのは母木先輩だし、そのセンスには全幅の信頼を置ける。

 買い出しに出かけたり、大工仕事をしたり、僕も色々忙しくなりそうだ。



「そして、弩」

 母木先輩は、そこで言葉を切った。

 自分が何を任されるのかと、弩が目をキラキラさせて先輩を見る。

 餌を待つ池の鯉みたいに。


「弩には、カフェのマネージャーを任せたいと思う。我々が作るカフェの運営責任者をやってもらう」

 母木先輩の大抜擢に、他の部員から、「おお」と、驚きの声が上がった。

 当の弩は事態が飲み込めなくて、目をパチパチさせている。


「一年生の弩には少し、責任が重くありませんか?」

 錦織が言う。

 僕も当然、カフェを仕切るのは母木先輩だと思っていた。

 確かに、弩はあの大弓グループの後継者だけど、弩自身の経営の才能については未知数だ。


「いや、主夫部唯一の女子部員で、将来、仕事をして家計を支えていこうという弩は、経験を積むべきだと思う。それこそが、弩が我が部にいる意味だと思うんだ。どうだろう、ここは一つ、勉強させる意味でも、弩に任せてみようじゃないか」

 僕達に問い掛けながら、母木先輩はもう、マネージャーを弩に決めているようだった。

「それに、天下の大弓グループの代表が、一番最初に経営したのが主夫部のカフェだったなんて、将来、僕達も自慢話にできるだろう?」

 先輩が破顔して言う。

 冗談めかしながら、ちゃんと弩の将来のことを考えてあげているのが、母木先輩らしい。

 もう、僕達に反対する理由はなかった。



「どうだ弩、やるか?」

 先輩が訊いた。

 部員全員とヨハンナ先生の顔が弩を向く。

 弩は考えている。脳味噌を総動員して考えていた。

 パソコンだったら、CPUファンがフル回転して、轟音を発しているところだろう。



 梅雨の晴れ間で、開けた部室の窓から、文化祭特有のペンキの溶剤の匂いが漂ってきた。

 部室棟前の空き地で、演劇部が練習する力の入った台詞も聞こえてくる。

 どうやら今年の演目は「十二人の怒れる男」のようだ。



 熟考じゅっこうの末、弩が立ち上がった。

「私、弩まゆみ、カフェのマネージャー、やらせていただきます」

 弩が言う。

 その目には覚悟があった。

 横顔の凛々しさに、大弓グループ後継者の片鱗を見た気がする。

 そこには、確かにリーダーとしての顔があった。


 鼻の穴に、血が滲んだティッシュペーパーを詰め込んだままだけど。


「がんばれ!」

「期待してるぞ!」

「助けがいるときは遠慮するな」

 みんなが口々に言って、弩の頭を撫で繰り回した。

 弩がふええ、と言う。



「ところで皆さん」

 一頻ひとしきり頭を撫でられた後で、弩が真顔に戻った。


「ところで皆さん、『カフェ』って、どんな所ですか?」

 弩がケロッとした顔で訊く。


 君は、それも分からないまま、この大役を引き受けたのか。


 このお嬢様には、まずそこから教えないといけないようだ。

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