第44話 天国の扉

 その日の放課後、僕達主夫部部員は、ヨハンナ先生によって部室に集められた。

 先生がこのように自主的に顧問らしいことをするのは初めてだから、集まった部員の誰もが、不穏な空気を感じている。


「さあ、みんな集まったわね」

 ヨハンナ先生は集まった僕達の顔を一通り見渡した。

 先生の声が弾んでいる。

 やる気を出しているヨハンナ先生は、普段のぐうたらな先生より厄介な気がした。

 何かとんでもないことを引き起こしそうな予感がして、怖いのだ。


「今日はあなた達にお仕事を持ってきてあげました。あなた達、家事がしたくて仕方ないんだよね? 掃除がしたいんでしょ?」

 先生が訊いた。


 そんなことは訊くまでもない。

 僕達は家事がしたいし、掃除がしたい。


「なにしろ、他所の部室に忍び込んで片づけをするくらいだもんね。あなた達はもっと部活がしたいんだよね。そこで、先生は考えました」

 ヨハンナ先生はそこまで言って、一呼吸置く。



「週末の土曜と日曜、主夫部でプールの掃除をしましょう」

 先生は言った。


「もうすぐプール開きだし、去年までは業者に頼んでやってもらってたんだけど、今年は主夫部がプールの掃除をすることになりました。私が仕事を取ってきました。もう学校側と話はつけてあります」

 ヨハンナ先生はそう言って、プールやポンプ室の鍵束を掲げる。

 自分が仕事を取ってきたと、ドヤ顔のヨハンナ先生。


 先生にしてはまともな提案だったから、僕達は拍子抜けしてしまった。

 とても有意義な提案だ。

 枯れ葉や泥が積もって藻が生えたプールは、きっと掃除のし甲斐があるだろう。

 かつての先生のマンションくらい、手応えがある相手な気がする。


「プール掃除やるよね?」

 先生が訊いて、僕達が「はい」と、声を揃えた。

 先生がなぜ、急に顧問らしいことをやる気になったのか、まだ謎ではあるけれど、ここは、話に乗っていいだろう。




 週末、土曜日は雲一つない、抜けるような青い空が広がる晴天だった。

 朝から気温は三十度に達していて、今日は猛暑日になるかもしれない。

 プール掃除にはこれ以上ない、絶好のコンディションだ。


 青い空とは裏腹に、藻が生えて緑に濁った25メートルプールからは、鼻をつく生臭い匂いが漂ってきた。ペットボトルやレジ袋など、ゴミも浮いているし、無数の赤虫も湧いている。

 濁った水に目を凝らすと、得体のしれない水中生物が視線を横切って消えた。


 これは、掃除する対象として、手ごたえがありそうだ。



 プールサイドの僕達主夫部部員は、水着の上にTシャツ、ビーチサンダルという格好で、準備万端だった。

 女子部員の弩も、紺の水着の上にTシャツで、頭に麦わら帽子を乗せている。


「さあ、みんな、頑張りましょう!」

 Tシャツにデニムのヨハンナ先生。

 今日も先生のテンションが無駄に高い。


 先生がポンプ室の弁を操作して、水を抜いた。

「よし、やるか!」

 母木先輩が言って、僕達は尻を叩かれたように動く。


 皆で水が抜けたプールの底に降りた。

 プールの底に溜まったゴミをビニール袋に集めて、ある程度溜まったらそれを焼却炉へ持って行く。

 ゴミは、枯れ葉や枯れ枝、ペットボトルや空き瓶、溶けかけた雑誌やコンビニ弁当の容器など、様々だ。

 野球の硬式球や、空気の抜けたサッカーボールもあった。

 十円や五円などの硬貨も、数えると全部で四百円分くらい沈んでいる。

 ここをトレビの泉かなにかと勘違いしたんだろうか。


 手に握れるくらいの四角い塊が落ちていて何かと思ったら、スマートフォンだった。

 一つだけではない。

 スマートフォン二台と、携帯電話が一台、なぜかプールの底に沈んでいた。


 これは、犯罪の匂いがする。


 足のつく端末を証拠隠滅のために片付けたとか、そういうことだろうか。

 それとも、もうスマホに振り回される生活は懲り懲りだと、思い詰めた誰かが投げ捨てたんだろうか。


 プールの底は興味深い。




 午前中かけてゴミを取り除いたプールの床を、僕と錦織と御厨、弩がデッキブラシでゴシゴシ擦った。

 黙々と続けていたら、どこかに行っていた母木先輩が、プールサイドから颯爽と現れる。

 先輩は車輪がついた大きめのスーツケースくらいの機械を引っ張ってきた。

 その正体は、母木先輩の私物の高圧洗浄機らしい。


「まだ、市販されていない、業務用の試作機だ」

 先輩は誇らしげに言った。


 先輩は今まで、何度も高圧洗浄機を買っていて、メーカーに熱心に要望を送ったり、レビューを書いたりしていたら、メーカーの開発部の人と仲良くなって、来年発売予定の試作機のモニターに指名されたらしい。


 流石は母木先輩。

 お年玉で掃除用具を買う男は違う。


 業務用試作高圧洗浄機の威力はすさまじく、僕達がちまちまとデッキブラシで擦っていた範囲を、ものの一分でピカピカにしてしまった。

 何回も擦らないと落ちなかったしつこい汚れが、一回撫でるだけでとれてしまう。


 先輩のおかげで、二日はかかると思っていた作業が一日で終わってしまった。

 僕達には、デッキブラシをかけながら、ホースの水を掛け合って遊ぶ余裕さえある。


 その日の夕方には、綺麗になったプールに新しい水を溜めることが出来た。




 翌日の日曜日も、僕達はまたプルーサイドに集まったのだけれど、もう、プールは綺麗になってしまっていて、やることがない。

 監督に来るはずのヨハンナ先生も、今日は姿を現さなかった。

 もう飽きてしまったのだろうか。


 僕達の他に誰もいないプールは、実に静かだ。

 綺麗になったプールの水面に、平和そうなさざ波が立っている。

 じりじり照りつける太陽の光が反射して、無数の波がキラキラ光った。

 手持無沙汰な僕達は、ただ、その水面をぼんやりと眺めている。



「よし! 暑いし、ここは一足早く、プールに入ろうじゃないか」

 母木先輩が提案した。


「休日を潰して掃除したんだし、僕達もそれくらいのご褒美をもらっていいだろう」

 母木先輩の言葉を待たずに、僕達はTシャツを脱いでいる。

 弩もTシャツを脱いで水着になった。

 弩の紺色の水着は、よく見るとスクール水着だった。

 胸のところにつけた名札に、


 6の2 おおゆみ


 と書いてある。


「弩は物持ちがいいんだな」

 僕が言うと、弩は「そうですか?」と照れ笑いをする。


 いや、別に褒めたわけではないのだが……



 準備運動などそこそこに、僕達はプールに飛び込んで水しぶきを上げた。

 あとはもう、市民プールの子供達と変わらない。

 飛び込んだり、水を掛け合ったり、互いを水に沈めたり、僕達は無邪気に遊んだ。

 休日の学校を独占しているみたいで、底抜けに楽しい。

 誰に遠慮することもないし、無心になれた。



 そうやって遊んでいると、

「ちょっと! あなた達!」

 水の上から声が聞こえた。


 振り返ると、水着を着たヨハンナ先生がプールサイドに立っている。

先生は腕組みで、プールの中の僕達を見下ろしていた。


 目が覚めるような鮮やかなブルーの水着で、自然に目が引きつけられる。

 金色の髪に青い目で、モデルのようなヨハンナ先生が水着を着て立っていると、なんだか現実感がない。

 目の前の光景がCGかなんかじゃないかと思ってしまう。


 しかし、先生だけではなかった。

 先生の後ろには、競泳用水着の縦走先輩もいる。

 古品さんと、古品さんの所属するアイドルグループ「ぱあてぃめいく」のな~なとほしみかもいた。

 三人は同じ型の色違いのビキニで揃えている。


そして、その横には、制服代わりに着ているワンピースと同じ、ボルドーの水着を着てパレオを腰に巻いた、鬼胡桃会長もいた。


 なんだか、気温が一気に五度くらい上がった気がする。


 ここは天国か。

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