第2話 三人の夕食
「お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなかったら、絶対、私がお婿さんにするのに」
妹の
花園はそう言って僕の作ったひじきの炒め煮を恭しく両手で持って、キッチンからダイニングテーブルに運ぶ。
僕は花園の声に耳を傾けながら、次の料理に取りかかる。
「お兄ちゃんほど、お婿さんにするのにふさわしい人材はいないのに。主夫になるべき人なのに」
花園が続けた。
味噌汁の椀や箸を次々にテーブルに運んで、夕食の支度を手伝う。
「学校の横暴だよ。職業選択の自由の侵害だよ」
進路指導から解放され、帰宅して夕飯の支度をしながら進路アンケートの件を話したら、花園は僕の代わりにプリプリと怒り出した。
三つ年下で中学二年生、部屋着の薄黄色のワンピースの上にエプロンを付けた
母譲りの赤茶の髪をポニーテールにして纏めている。
はっきりとした眉の下に、なんにでも好奇心を示して覗き込む、大きな目がくるくる動いていた。
兄の僕が言うのもなんだけど、可愛い。愛らしい。
いや、これは妹に対する兄の贔屓目ではなく、実際、花園はもてている。
花園目当ての男子中学生が、家の前をウロウロしているのを、睨み付けて退散させるのが、僕のウイークリーミッションになっていた。
大体、週にそういうのが三、四人は来る。
「心配しなくていいよ。お兄ちゃんなら引く手あまただよ! 今すぐそんな学校辞めたって主夫としてやっていけるよ」
花園が言った。
いや、僕は今すぐ学校を辞めるつもりなどない。
そんな勇気はないし、もう少し高校生活を楽しみたい。
実際、最後には担任教師の「指導」に従って、アンケートの書き換えに応じたし。
専業主夫と書いたアンケートの文字を消したし。
「相手がいなかったら最悪、花園が兄妹の垣根を越えるよ」
兄妹の垣根を越えるって……しかもそれは、最悪のパターンなのか。
「花園がお兄ちゃんを貰ってあげるよ」
花園が怒りながら配膳するものだから、ランチョンマットや箸がテーブルに対して少しずつ曲がっている。
「もうそろそろ、
最後の一品が仕上がって僕が頼むと、花園は「はーい」と無邪気な返事をして二階へ駆け上がった。
枝折とは僕のもう一人の妹のことだ。
花園より一つ年上の十五歳、中学三年の受験生で、受験勉強の真っ最中。
故に夕飯の手伝いは免除している。
僕達の住むこの家は二階建てで、二階には僕の個室と、花園、枝折の二人一緒の部屋、そして両親の寝室があった。
しばらくして枝折が花園に手を引かれて二階から降りてくる。
パーカーにショートパンツという格好の枝折。
真ん中から分けたショートボブの髪、くっきりとした眉毛は、妹の花園と同じだけれど、切れ長の目は少し冷たい印象を与える。年齢よりも大人びて見える。
いや、大人びて見えるだけではなく、実際、枝折は内面も大人びている。
冷静沈着で物事に動じることが少ない。花園と比べて口数は少ないけれど、時に発せられることばの切れ味が鋭い。
だから一つしか歳が変わらない姉妹なのに、花園は枝折に全幅の信頼を置いている。
そしてそれは、僕も同じだった。
二階から降りてきた枝折は整えられた食卓を一瞥して「おいしそう」と、あまり表情を変えずに言った。何も知らない人が聞いたら、とてもおいしそうに聞こえないかもしれない。けれど、これで枝折はかなり喜んでいる。口の端が普段より数ミリ持ち上がっていて、長い付き合いの僕はそこから判断できる。
料理を作った者としては、お姫様のお眼鏡にかなって光栄の至りだ。
今日のメニューは大根の鶏そぼろあんかけと、ひじきの炒め煮。ぶりの照り焼き、大根の葉とちりめんじゃこのふりかけに、アボガド入りサラダ。スープはピリ辛のミネストローネ。
大切な妹達の健康を考えて、いつも野菜多めのメニューを心掛けている。
与えられた予算内で精一杯の料理をと、僕なりに心を砕いている。
「いただきます」
と声を合わせて、僕と妹達、三人での夕食が始まった。
この食卓に両親の姿はないけれど、両親は仕事の都合で家を空けることが多く、我が家ではこのような三人での夕食が常になっていた。
家を空けることが多い職業、そう、僕達の両親は海上自衛隊の自衛官で、護衛艦に乗っている。
特に母は、女性初の護衛艦艦長として護衛艦『あかぎ』に着任したことで随分話題になったから、知っている人もいるかもしれない。
護衛艦の飛行甲板上で、艦載機のF35をバックに制服に身を包んだ母の姿は、ニュースなどでとても凛々しく映っていたけど、僕達子供にとって彼女は、少しおっちょこちょいな一人の母親でしかない。トーストを電子レンジで温めて「上手く焦げ目がつかないね」などと言っているような母親だ。
そして父は、その母が乗艦する護衛艦に特別警備隊の隊員として乗り込んでいる。
特別警備隊はアメリカ海軍のSEALsをモデルに編成された特殊部隊で、海上自衛隊の精鋭部隊だ。特別な訓練を受けていて、もし、航海中に他国の船を制圧したり臨検するような場合には、父達の特別警備隊が任務に当たるらしい。
常に動いてないと死んでしまうような人で、航海に出ない休暇の時間も釣りに出かけたり、山に登ったり、トライアスロンの大会に参加したりと、忙しく体を動かしていた。
筋骨隆々で、ケンカなどしようものなら、僕なんか一秒も持たずに地面を這いつくばることになるだろう。
幸いその体のように大らかな人で、今までケンカになったことがないのが、僕にとっての救いだ。
二人は大恋愛のすえ結婚したのだと、僕達子供に自慢げに言う。恥ずかしげもなく、恋愛譚を語る。そしてただの職場結婚じゃないかと言うと、大人げなく膨れる。
立場上、両親とも職場や仕事のことは詳しく話さないけど、ニュースで見る限り、今二人は太平洋上で米軍との演習に参加していると思われる。
たぶん、数週間は帰って来ないだろう。
そんな訳で、この家に於いて料理はもちろん、家事はもっぱら僕の役割だった。
掃除もするし、洗濯もする。家計のやりくりもする。近所付き合いもする。
育児もそうだ。
おそらく、妹二人の半生の三十二パーセントくらいは、僕が育てたと言っていいと思う。母や父の代わりに僕が育てている。
二人とも良い娘に育ってるから、僕の育児の腕も中々のものだと思う。
妹二人を見たら、誰もが褒めてくれると思う。
そう、この家に於いて僕は主夫だった。
そして僕はその主夫という立場が嫌いではない。
いや嫌いではない、なんて消極的な表現じゃなく、好きだ。
この立場がたまらなく好きだ。
料理も、掃除も洗濯も、妹二人の成長を見守ることも、両親が心おきなく仕事に没頭できるように家を守っているのも、本当に大好きだ。
だから進路指導のアンケートにも、当然そう書いたのだ。
三人で食卓を囲みながら、花園が枝折に僕の進路指導の件を聞かせる。
花園の話は僕が聞かせた話を誇張していて、少しオーバーだから、僕は度々修正した。
「その話からすると……」
食べながら花園の話に相槌を打っていた枝折が、箸を置く。
そして、僕に向き直った。
「もしお兄ちゃんが本当に主夫になりたいのであれば、それを周囲に認めさせるべきだと思う。それを認めてもらう努力をすべきではないのかな」
枝折が言う。そう言って僕の目を正面から捉えた。
いつでも冷静な枝折の言葉は時に辛辣だけれど、絶対的に的を射ている。
そして、いつも正しい。
「主夫になりたいというお兄ちゃんを否定する先生達も、お兄ちゃんがふざけてそんなことを言っているとか、ただ怠けたいからそんなことを言っていると誤解しているんだと思う。まあ、ただ頭ごなしに生徒を否定する先生も、中にはいるけど」
後者のほうが圧倒的に多いような気がするが。
「行動を起こすべきだと思う。こういう摩擦があったときこそ、そのチャンスだと思う」
枝折が言って、花園がうんうんと頷く。
花園には分かっているのだろうか。
「お兄ちゃんが主夫になりたいという想いを隠して生きていくというなら、それはそれでいいけれど。担任の先生が言うように、他の頭の硬い先生方に目を付けられないよう、お兄ちゃんがその想いを隠して上手くやっていくという選択をしたとしても、私はそれを責めない」
枝折は責めないと言うけれど、その目は責めると言っているようなものだった。
いや、確実に責めていた。
「もちろん、周りに認めてもらいたいし。主夫になりたい」
僕は言う。小さな子供が将来サッカー選手になりたいとか、電車の運転手になりたいとかいう純粋な気持ちで、僕は主夫になりたいのだ。
「そう、それならそれを認めさせる方法を考えましょう」
枝折はいつも冷静に考える。問題を解決して次のステップへ、と建設的に。
目の前で起こった困難な出来事に混乱して取り乱すくらいなら、その時間を考えることに当てるべきだと考えているようだ。
枝折を育てているけれど、これは僕が教えたものではない。
僕にこんなことは教えられない。
その性向は、母や父から受け継いだものなんだろう。
「どうやって認めさせるかだよね……」
花園がそう言って、ミネストローネを一口飲んだ。
そして舌を出す。「辛うま」と言って、もう一口。
枝折も、もう一度箸を取って食事を再開した。
見ていると枝折は、ひじきの炒め煮の中の椎茸を脇に除けて食べようとする。
だから僕は視線で注意した。枝折はそれに気付いて、しぶしぶ椎茸を口に運ぶ。
こういうところは、まだまだ子供だ。
「主夫部! なんてどうかな?」
花園が突然、大きな声を出した。
食事中にそんな声を出すのは、いつもなら注意するところだけど。
「野球選手になりたい人が野球部に入るように、サッカー選手になりたい人がサッカー部に入るみたいに、主夫になりたい人が入る部活が『主夫部』なの」
花園が言った。
時に、花園の閃きは、枝折の正論を凌駕することがある。
天才的に。
「『主夫部』はみんなで良き主夫になれるように、がんばる部活なの。部員同士で腕を磨くの」
本当に花園は変なことを思いつく。
そう言えば以前、花園が長い航海から帰ってくる両親にサプライズとして、子供の性別が逆転したパラレルワールドというのを提案して、女装させられたのを思い出した。そのときは両親が
「主夫になりたいと思ってる奴なんて、他にいるのかな?」
僕は訊いた。アンケートにそう答えたら、問題になって呼び出されたくらいなのだ。僕みたいに答えるケースは、他になかったんだろう。
「きっといるよ。言い出せないだけなんじゃない? お兄ちゃんが旗を揚げれば、集まってくるよ。みんなで力を合わせれば、先生達も説得できるし」
主夫部の旗の下に集まる男子生徒って、中々想像しづらいけど。
「それに、お兄ちゃんが部活で主夫の腕を磨いて、スーパー主夫になったら、今まで以上にこの家の家事も捗るんじゃない? いいことずくめだよ」
自分の思いつきに、花園は鼻高々だった。
「私もいいと思う」
枝折が言う。
この家に於いて、枝折のコンセンサスを得たことは、物事にゴーサインが出たも同然だった。反論する者はいないし、正しいから反論の意味もないのだ。
「じゃあ、決まり!」
花園が言って、口からふりかけに入っていたゴマの粒が飛んだ。
「ほら、花園、お行儀」
僕が注意する。本当はこんな小言など言いたくないんだけど。
「はい、ごめんなさい」
素直に謝る花園。
「よし、じゃあ早速『主夫部』部員募集の張り紙作っちゃおうよ。私、手伝う」
花園は口の中のものを飛ばさないよう、今度は控えめに言った。
部員募集の張り紙作りか。
でもそれは、僕が夕食の後片付けと、洗濯と、明日の弁当の下準備を終えてからになると思う。
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