迷宮

アイホートの迷宮 壱

 夢を見ていた。


 膝まで浸かる泥沼は腐臭を放ち、俺の歩みを妨げる。泥を掻き分ける足には無数の蛭が張り付き、左足の傷口から潜り込もうとしている。歩みを止める訳にはいかない。一度足を止めれば、恐らく二度と進むことなく沼の底に沈む。漂う瘴気と共に絡みつく羽虫の群れが、俺の苛立ちを助長し思考を妨げる。右手は失われ、血に塗れた左手は杖代わりの剣から離すことができない。


 俺はどこへ向かおうとしているのか。それすら思い出せないまま、ただ歩みを重ねる。


 ――やめろやめろ。どれだけ歩み続けようと、苦痛が長引くだけだ。


 眼窩から長虫を這わせる屍が俺を嘲笑う。


 ――沼に沈むまでの刻がほんの少し先になるだけだ。いずれお前もこうなる。


 その通りだと、頭のどこかでは気付いている。だが、いまさら立ち止まって考え直す気にもなれない。


 ――勝手にしろ、愚か者。 お前はそうやって永遠に苦しみ続けるがいい。


 屍の哄笑を背に、ただ沈まぬよう足を前に進める。行く手は瘴気に霞み見渡すことができない。朽木の根に足を取られ、盛大に飛沫を上げ倒れ込む。しこたま飲んだ泥を吐き、手放してしまった剣を手探りで探すも見付からない。俺は諦め泥沼を這い進む。


 まだだ。目指す場所さえ思い出せれば、まだ進むことができる。それなのに。


『馬鹿なの? あんたの行き先は、とっくにここにあるじゃない』


 胸元から響く力強い声に、唐突に俺はそれを取り戻した。



「アイン様!」


 最悪の気分で目覚めた。俺は手当てされ寝台に寝かされていたようだ。巻かれていた包帯を外し胸元を見ると、傷は縫われきれいに塞がっていた。いつもならすぐに始まる雛神様のお叱りがないのに不安を覚えるが、心臓を刺し貫かれた俺がこうして生きていられるのは、それだけ雛神様にご負担を掛けたということだ。ベルカに俺に対する殺意が無く、手加減が間に合ったのかもしれない。だが、こうして命を繋ぐことができたのは、俺にとっては雛神様のご加護以外の何物でもない。


 カルルに尋ねると、俺は丸二日間、目を覚まさなかったらしい。ベルカは俺を屋敷の一室に運ばせ手当てを命じると、そのまま間を置かず神聖騎士団を率い、迷宮討伐へ向かったという。俺にとどめを刺ささず屋敷に留め置いたのは、このまま関わらず大人しくしていろという意味だろう。


『あんたねえ……騎士の自覚があるなら主の言葉は聞きなさいよ』


 雛神様は酷くお疲れの様子で、声に力がない。あのまま雛神様を狙うベルカの剣を受け、相打ちを狙うこともできなくはなかった。だが、それでは確実に雛神様を失っていた。雛神様を失い鋼殻の騎士でなくなった俺が、ベルカを倒さねばならない理由も失う。本末転倒なうえ、俺は主と義兄という大事なもの二つを、同時に失うことになる。


『騎士であるあんたが倒されて、あたし一人であいつに勝てるわけもなかったでしょ!? ちゃんと生き抜いてあたしを守るのがあんたの役目。わかった?』


 万に一つは――とも思ったが、そこは雛神様の言うとおりだ。ベルカが改めて雛神様を改めて殺さなかったのは、雛神様の力で俺が蘇生する可能性に賭けたからに過ぎない。全くもって完敗だ。どこまで行っても、義弟ゆえ見逃して貰えたに過ぎないということだ。


 俺を探しに来たカルルは看護に付くことは許されたが、軟禁され、鋼殻騎士団への連絡は果たせなかったという。騎士を守れず、何一つ騎士団の役に立てないと、しょぼくれた様子を見せるが、鋼殻騎士団はだてに傭兵家業を続けている訳ではない。都に潜り込んだのは俺一人でもないだろうし、仮に物見に向かわせた騎士と従者全てが帰らなかったとすれば、その時点で事情を察し、対策を開始する程度の知恵者や戦上手は何人も揃っている。


『アイン、もう動けるわね? ちょっとキツめの薬を用意させたから持っておきなさい。必要だと思えばいつでも服用する許可を、あらかじめ出しておいてあげる』


 毒々しい紫や濃緑の液体の入った小瓶が数本。都には魔術師も多い。俺の分だけでなく、雛神様自身に効果のあるものも手配してあるのだろう。早ければベルカ率いる神聖騎士団は、既に迷宮に辿り着いているかもしれない。俺は急ぎ追跡する道中で、少しでも体力を回復せねばならない。


『カルル、馬の用意をなさい。可能な限り早くよ』


 もちろん部屋についているであろう見張りをかわし、馬を盗んで来いという意味だ。役割を与えられたカルルは、名誉挽回の機会とばかりに瞳を輝かせ頷いた。

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