波の子供

 船の手配が整うまでの間、俺はキサナに泳ぎを教わることにした。泥棒を捕らえて縄をなうようなものだが、何もしないよりはましだ。せめて船から落ちても、しばらく浮かんでいられるくらいの水練は必要だろう。


 朝から浜辺の集落を訪れると、キサナは既に一仕事終えた後のようだった。例によって布の少ない格好で、獲った貝だの蟹だのを検分している。どこへ行くにも、漁をする時の装束に、もう一枚羽織る程度で澄ませてしまっているようだ。野生か。


「るる? アイン、なんの用かな~?」


 昨日の今日で約束を忘れられるのも空恐ろしい。俺が説明するうちキサナは「うん、知ってた」という顔になり、忘れていたことをなかったことにされてしまう。


 今は素潜り漁をしていたという話で、教わるには打って付けだと考えたのだが、人に物を教えるにも向き不向きがあるらしい。俺に泳ぎを教えているはずのキサナは、いつの間にか岸をはるか離れた沖にで顔を出したり、飽きてしまったのか、ふたたび岩場で貝や蟹を獲り始めたりする。俺は教わるのを諦め、習い倣うことにしたが、沈んだら沈みっぱなしで浮かび上がることができない。やはり水練にも向き不向きがあるのだろうか。


 俺は練習を切り上げ、砂浜にしゃがみ込み水平線を眺めた。海というものは、はただ広く水が溜まっているだけでなく、岸から離れれば離れるほど深みを増し、山の頂まで沈むほどの深さになるという。現に人間では辿り着けない深さにある大いなるものの寝所は、王都より広く巨大で、鯨ほどもある深きものどもが守護しているという。陸とはかけ離れた理の存在する世界だ。


『なにアイン、海が怖いの? らしくないわね』


 怖い――のだろうか? 得体の知れないもの相手では、どうにも腰が据わらない。山ほどの魔物を相手取るなら、仲間を募り地形を利用し罠を張れば、倒せなくもないだろう。亜神や小神を相手にするのでも、魔術師の助力や呪具、神器の類を揃えれば、勝つ目がなくもない。この水底に潜むものが、船よりも大きな怪魚だと分かっていたなら、騎士や魔術師ではなく、経験豊富な漁師の知恵を借りれば良いだけのこと。だが、何とも分からないもの相手では、打つ手も見えてこない。



『るる?』


 波間に浮かんでは潜りを繰り返していたキサナの頭が、岸辺に戻ってくるのが見えた。遠目だが、何かを曳いているように見える。人の形……水死体か?


 岸辺に曳かれて来たそれは、幸いまだ生きているようだった。五つか六つほどの、幼い少女の姿。一糸まとわぬ素肌を晒し、仰向けに浮かんでいる。黒にも深い緑にも見える髪は海藻のように波に揺らめき、何の反応も示さない青い瞳がただ空を映している。キサナが曳くために掴んでいる縄のようなものは、臍の緒だろうか? 少女の臍から伸びるそれの先は、波間に続いている。まだ胞衣が付いたままなのか?


『神気を感じるわね。波間の神の賜り物か、落とし仔のたぐいじゃないの?』


 城砦で見た、壁を這い上る女の姿を思い出した。言われてみれば確かに似ている。人の形を真似しているだけの、どこか虚ろな雰囲気は、どこか通じるものがある。名付けるなら波の子供というところか。訝しげな表情で首を傾げる俺に、キサナは得意そうに腰に手を当て言った。


「アイン知らないの~? 結婚すると、子供はこうやって、波が運んでくる?」


 嘘だ。考えながら話しているし、語尾が問い掛ける形になっている。それに、誰と誰が契りを結んだというんだ。コウノトリやキャベツ畑の話のようなもので、海辺ではそういう言い回しがあるのかもしれないが。


「わたしとアインの子供だから、連れて帰って育てる~」

『なんでそこでアインの名前が出るのよ!?』


 その話に俺を巻き込むな。キサナは幼子を抱き上げ、ざばざばと波をかき分けて浜辺へ上がろうとしたが、臍の緒に足を取られ躓いた。


「……じゃま」


 貝を剥がすのに使うナイフを手に、切り離そうとするのを慌てて止める。臍の緒は血が通い、まだ機能しているように見えたからだ。少女はキサナに抱かれ、自ら動かく様子も見せずに、ただぼんやりとしているだけだが、臍の緒を切ってしまえば、そのまま死んでしまうように思えた。


 俺の制止を聞き入れたキサナは、少し考え浜辺に少女を下ろすと、臍の緒を手繰り始めた。


『あんた、それ全部巻き取るつもり?』


 俺はこの少女を産み落としたものが姿を現すかと身構えたが、臍の緒はどれだけ手繰っても終わりが見える気配がない。キサナの傍らに、とぐろを巻き積み上がっている。その光景にを目にし、しばらく腸詰は食べたくない気分になった。


「むぅ…………」


 ようやく諦めたらしいキサナは、手繰り寄せた臍の緒をそのままに、少女を胸に抱え小屋へと向かった。漁のこと練習のことも忘れたようで、少女に服を着せたり、物を食べさせようとしたりで遊び始める。


『心当たりもない賜り物なんて、さっさと返した方がいいと思うけどね』


 俺は水練の練習を切り上げると港町に戻り、船を借りる交渉を進めることにした。船主は誰もが渋い顔をしていたが、安心して海に出られず困るのはこの港の船乗り全てだ。漁業ギルドが保証金を積むことで、小さな鯨を捕るのに使える程度の船と船員を雇い入れることができた。



 夕方から天気が崩れ、夜には激しい風雨に見舞われた。嵐が過ぎ去った翌朝、浜辺の集落へ行くと、キサナは悄然とした様子で浜辺に立ち尽くし、波間を見詰めていた。


「るる……いなくなっちゃった……」


 嵐の中小屋の外へと出た幼子が、波に攫われ帰ってこないという。神から子供を授かる話の結末は、俺が知る限り、授かった者の心掛け次第で禍福が決まっていたが――


『まあ、この子相手では、どちらにするか決めかねたんじゃない?』


 涙を滲ませ幼子を探しさ迷うキサナの姿は哀れを誘った。俺は気の毒に思い昼食を奢ってやることにした。その頃には、もう何で気落ちしていたのかも忘れていたのか。キサナは満面の笑みで三人前の腸詰をたいらげた。

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