夢見るままにまちいたり~♪

 南へ向かう商隊の護衛がてら、海にまで足を延ばすことにした。雛神様の意向もあってのことだが、俺もまだ海を見たことがない。風に運ばれる潮の香りに気を急かされながら、岬の先端へ向かう。晴れ渡る空の下、空よりも深い蒼の揺らめきが、どこまでも広がっていた。


 足元を覗くと、断崖を波が洗い、白い波頭が生まれては消えている。水が怖いのだろうか。雛神様の竦む気配が伝わってくる。


『ア、アインは平気なの? あんたはあたしの騎士なんだから、落ちたらちゃんと泳いで見せなさいよね!』


 残念ながら俺は泳げない。雛神様なら海に落ちたとしても、軽く数年は仮死状態で過ごせるはずだが。


『その頃にはあんたの死体が腐れ落ちて、一人ぼっちで海に沈んだままになるでしょ!』


 確かに危険だ。海には陸とは違う魔物が棲むというが、俺が相手にすべきなのは海中に潜むものではなく、岸辺に棲むものに限られそうだ。


「あぶない! はやまらないで~」


 眺めにを堪能し、帰ろうと振り向きかけた刹那、背後から何者かの当身を喰らった。

 まるで殺気を感じなかったというのは言い訳だ。バランスを失った俺はそのまま足を踏み外し落下する。幸い岩に打ち付けられることは免れたが、鎧を着こんだままの身体は、見る見る沈み水面から遠ざかる。

 薄れゆく意識の中、揺らめく長い髪を持つものが泳ぎ寄るのが見えた。



「よいしょ、よいしょ」


 頬に砂の感触が伝わる。背中を踏まれ水を吐き出した俺は、咳き込みながら身を起こし辺りを見回した。脱がされた鎧が傍らに投げ捨てられている。どうやら砂浜に引き上げられたようだ。


「るるッ! よかった~。息を吹き返したね」


 俺の背中を踏んでいた声の主と目が合った。小麦色に焼けた若い娘だ。水気を帯びうねる長い髪は、光の加減のせいか、海を思わせる翠色に見える。豊かな胸と腰回りに、申し訳程度に白い布を巻いている。


 この娘に助けられたのか。泳ぐのも溺れるのも初めてのことなので、少女の処置が正しいのかを知る由もないが、命の恩人であるのには違いない。雛神様が何故か不機嫌な思考を伝えるが、俺は構わず心から感謝を伝えた。


「生きてれば良いこともあるんだから、もう命を粗末にしちゃあダメだよ~」

『あんたが突き落としたんでしょうが!!』



 キサナと名乗る娘は、浜辺の集落から買い出しのため港町へ向かう途中だったという。身投げ前の俺を見掛け、とっさに助けたのだと。身投げすることになったのはこの娘のせいだが、結果として助けられたのも事実だ。その港町で宿と仕事を探すつもりだった俺は、買い出しの荷運び役を申し出、同行することにした。


 南方では肌を露出するのが普通なのかと考えていたが、キサナほど薄着な者は他に見掛けなかった。取り急ぎ手頃な宿を取り剣と鎧を下ろした。真水でよく洗っておかないと、鎧が錆び付いてしまう。


 キサナに連れられ商店を回るうち、目立つ建物を見掛けた。魚の神、ダゴンの教会だ。人身御供を要求することもあるが、豊漁を約束する神だ。港町では最も信仰を集めるのは当然で、そこここで紋や像を見掛ける。


『大昔は、大いなるもののおまけで合祀されてただけなのにね』


 水底に眠る大いなるものを崇める教団は、かつては広く信仰を集めていた。大いなるものクトゥルフが目覚めれば、信徒は全ての快楽を約束され、主と共に地上を蹂躙すると謳っていたという。ダゴン教団以上に信徒にのみ現世利益を約束する、排他的な集団だったらしい。ある時、大いなるものの寝所が島ごと浮上することがあったが、その際には信徒もそれ以外も区別なく、多くの者が狂死したという。それ以来信仰は廃れ、残った信徒達は地下に潜り、教義はより先鋭化されたのだという。


『神の威を借る不逞者に罰が下っただけの話ね。人間はちょっと加護をくれてやるとすぐこれだから』


 俺達鋼殻騎士団も、いつか慢心し道を間違えることがあるのだろうか。


『心配ないわ。あんたは“中”に神を抱えてるんだから。どれだけ尖ろうが歪もうが、生きられる時間も限られるわけだし……』


 厳しくもどこか愁いを秘めた雛神様の言葉に感服し、決意を新たにする。キサナはそんな俺の腕に構わず買い込んだ物を積み上げていたが、いつの間にか数人の男に囲まれていた。これ見よがしに金色のダゴンの紋を付けている。教団の連中か。胸元をはだけた、浅黒い肌の若い男がキサナに絡んできた。


「このカイト様が、もう何度もてめぇん家に印を付けたはずだがな。見てないとは言わせねえぞ?」

「るる? 印~? 水かき付きの手形のことか。何度でも消すけど、こんどやったらぶち殺すぞ魚介類!」


 若い男の顔が朱に染まる。のんびり口調で啖呵を切ったキサナは、言うだけ言うと俺の後ろに回り込んだ。


「あなた~、助けて~」

「あなたァ? お前、キサナのイロか!?」


 あなたじゃない、アインだ。会って一刻ほどなのに、一体俺を何に巻き込むつもりだ? 色恋絡みは俺のこなせる仕事じゃない。


「いのちの恩人」


 背後でぼそりと呟くキサナ。どのみち目の前にはサメの様な三白眼で睨み付けるカイト、周囲は教団の人間に囲まれ、人だかりもできている。逃げ出せそうにない。


「人身御供ったって、何も本当に生贄にするわけじゃあない。俺の嫁……いや、海を荒らしてる海魔調伏を願う巫女として教団に迎えるって話だ、お前だって漁をして暮らしてるんだ、関係ないとは言わせないぞ」

「本音が漏れてるぞ~。わたしを性的な目で見るな、えら呼吸どもが!」


 今度こそ怒りに身を任せて殴りかかってくるカイト。キサナにじゃない。俺にだ。とばっちりもいい所だが、相手をするしかなさそうだ。


 迷宮での命を懸けた修練に比べれば、血の気の多い若造をあしらうなど児戯に等しい。加勢に入った信徒達もまとめて地面に這わせるのに、大した時間は掛からなかった。


「野郎……こうなったら!」


 何か奥の手があるのか。カイトは荒い息を吐きつつ立ち上がろうとするが、膝が笑っている。俺は視線を合わせる為にしゃがみ込み、海魔とやらについて尋ねてみた。その手の話なら、俺のこなせる仕事のはずだ。


 衆目の前で打ちのめされたカイト達ダゴン教団にも、面子というものが存在する。俺の海魔討伐の申し出に渋っていたが、二週間の期限を付ける形で収まりを見せた。失敗すれば改めてキサナを巫女に迎えるという条件だが、それは俺の与り知るところではない。


 交渉を始めた俺に、「え~、こいつらやっちゃえばいいのに」などと不平を並べていたキサナも、当事者意識からか俺に手助けを申し出た。


 いや……俺が助っ人でキサナ自身の問題だったはずだが、理解しているのか? どうにも心もとない。


『まあ、渡りに船ということにしておきましょう。手応えのある相手には違いないけど、アイン、あんた泳げないのを忘れるんじゃないわよ?』


 海魔について街で聞き込みを始める。聞き込み程度ならキサナにも任せて大丈夫かと、宿での待ち合わせ時間を決めて別れた。


 襲われたという船主や目撃したという漁師は数多く、話は容易に聞き出せたが、どうにも要領を得ない。ある者は嵐の中巨大な触腕に海に引きずり込まれそうになったと言い、別の者は海底に沈んでいたような幽霊船が、帆も張らず往くのを見たという。近海を荒らす海魔は一体ではないのか?


 海中に潜むものには手の出しようがない。船で海へ出ることは避けられないとしても、引き受けてくれる船主は見付かるだろうか。得られた情報は少ない。宿の酒場に帰り思い悩みながら待つも、キサナはなかなか姿を現さなかった。


『使えないわね。……っていうか、約束自体を忘れてるんじゃないの?』


 雛神様のキサナへの評価はずいぶん辛いが、幾らなんでも遅すぎる。俺はキサナを探すべく酒場を後にした。日は落ち、ほとんどの商店は看板を下ろし店仕舞いを済ませたが、帰路を急ぐものや酒場に向かうもので人通りは少なくない。あれだけ目立つ身なりのこと、ほどなくある通りへ入るのを見たという女に行き合った。


「あそこはちょっと柄の良くないのが住んでるから、一人じゃ危ないって言ったんだけどねえ」


 なんでも、昔は名の売れていた画家が住んでいるが、何があったか今ではすっかり気が触れてしまったらしい。突然暴れ出す事もあるので、子供達には近寄らないよう、言い含めてあるという。


「噂だけどね、大いなるものの信者らしいのよ」


 噂話ができたことにどこか満足した風な女と別れ、俺は寂れた通りに足を踏み入れた。件の画家の家は、荒れ果てた佇まいですぐにそれと知れた。様子を伺うが人の気配はない。玄関扉には鍵が掛かっていたが、二度の当て身で錆びた蝶番は簡単にはじけ飛んだ。


 一階には灯りのついた部屋はなく、人の姿もない。荒んで掃除の行き届かない様は、空き家の様に見える。二階へ進んだ俺は、灯りの漏れる扉を見付け押し開けた。床には無数の酒瓶が転がり、油の臭いが鼻につく。キサナは椅子に縛られそこにいた。


『ずいぶん熱心な信者だったみたいね』


 棚には、蛸のようにも竜のようにも見える、大いなるものの彫像が置かれ、壁に立て掛けられたキャンバスには、歪んだ暗緑色の街のようなものの絵が、描き掛けのまま放置されている。


「むー、むー」


 キサナはごとごとと椅子を揺らし、猿轡を解くように要求している。彼女の前には、画架に掛かったキャンバスと、椅子に座ったままの男の死体があった。落ちないのが不思議なほど、反り返った姿勢で固まっている。目はこぼれんばかりに見開かれ、叫ぶ形のままの口からは、どす黒い舌が飛び出している。左手は頭を掻き毟り、乾いた血と毛髪がこびり付いているが、絵筆を握ったままの右手は、最後の一筆を走らせようとするかのように空を指している。


『ゾスの者たち、大いなるものの眷属は、精神を飛ばして人間を器にできるって話だけど――』


 この男にはモデルが何が見えていたのだろう。キャンバスには歪んだ筆致で、這いうねる赤黒斑の触腕と、金色の三つの目を持つ異形の姿が描かれていた。


『この状況は、どっちに何が入り込んだのやら』


 戒めを解かれたキサナは、縛られていた箇所をさすりながらキャンバスを覗き込むと、人差し指を口の前に立て、不器用に片目をつむって見せた。


「ないしょ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る