血飛沫忍法帳

やまま

第1話 プロローグ







 国際空港独特の、世界へ開かれている、といった正体の無い活気がターミナルを満たしていた。


 まるでジャンボジェットの機内から通路を通って異国の空気が流れ、混じり合っているかのように。しかし、それは確かにいくつもの人種が体臭のように発散していたのかもしれない。

 この、排他的な島国で、これほど他民族が入り交じる場所は他にはあまりないだろう。

 関東国際空港、第一ターミナルのコンコース。

 これから海外に飛ぶ者と、故郷に帰って来た者、希望と安堵、幸福で平和なはずの空間。

 国際空港とはいえ、やはり国内人の数が多い。

 そんなある待合イスに、二人の日本人男女がいた。

 二十代半ばくらいの男、カジュアルな、それでいておしゃれをしているつもりでありそうな身なり。

 いわゆる真面目系の男性ファッション雑誌に掲載されているような落ち着いてはいるがありふれた服装の男。その相貌も、ファッションモデルのように整っていながらどこか印象が薄い。

 隣にいるのはまだ十代半ばか、前半かもしれないほどの少女だった。

 こちらも男と同じように、注目どころの少ない見た目ではあったが。その切れ目の鋭さはときたま金属が反射するようにハッとさせるものがあった。

 たわいの無さそうな会話の中に、少女の「お兄ぃ」という単語が聞こえることから恐らく年の離れた兄妹なのだろう。

 が、しかし、二人がたまに向ける視線の先、数十メートルほど離れた先のイスにはここ空港では珍しくもない異国の家族と思われる三人がいた。

 どことなく白人風ではあるが、肌は茶色みがあり、オリエンタルな雰囲気を醸し出している。アラブ系と思われる夫婦と、十代前半の娘。

 そんな物騒とは無縁のファミリーを監視する者こそが、先ほどのこれまた平和な見た目の兄妹だった。

 見張りなどとは滑稽なことだが、その裏事情を知ればさらに滑稽なものだった。


「お客様は平和だ……至って平和。平和なまま国外に出ていってくれ」

 兄妹の男の方が呟く。

 視線の先、搭乗口には先ほど搭乗時間が来たようで機内への通路に向かう人々の集団が見える。アジア系、まず日本人だろうと思われる人ごみの中、僅かに目立つのはそのアラブ系の家族だった。

 この国にいてはいけない者のように、その肌の色、異国のファッションは疎外感に包まれている。

『貨物オールクリア、発破はともかく、ナイフやらフォークすら無い、平和だよ』

 兄妹の耳にはよく見るとベージュ色の補聴器のようなイアホンが入っている。言われなければ分からないほどの目立たないものだった。さらに、タートルネックで隠した喉元には喉に密着させる声帯マイクがはめられていた。

 そのイアホンから女の声が聞こえる。それに対して、声帯マイクで口をほとんど動かさずに男が返す。

「ああ、後はあっちのやつらに任せればいいな……局員さんが搭乗していくのも見える」

「お兄い……あいつら写真なんか撮ってる」

 兄と呼ぶ男の腕をポンと叩いて妹らしき少女が言う。座った男の目線に立った少女の胸元が近づき、それをなんとも言えない思いで目線の先で捉えながら、男は頷く。

「ああ、記念写真だ。フェイスブックかツイッターにでも投稿するんだろうな、いくらでもいいねを押してやりたいよ」

 家族連れは、コンコースのガラス面から見える空港の滑走路やエプロンに見えるジャンボジェットを背景に、この国での最後の記念の写真撮影をしている。

 撮影しているのは、女子大生くらいに見える女だった。一人でいるところを家族に捕まったようだが、異国人相手にも笑顔で親切に対応している。

 その女の「はいちーず」は一応外国人にも通じたようで、撮った写真を液晶で見てその家族の父親は満足そうに頷いた。

「早く乗ればいいのに」

 家族の余裕のある動作に妹は多少いら立っているようだった。

「乗るさ……ああ……今入っていく」

 デジカメをカバンにしまって、ようやく搭乗橋に入っていく。その娘だけが笑顔で振り返り、先ほどの女子大生風の女に手を振ったまま、通路の奥に、機内に吸い込まれていく。

『乗ったな?……よし、お疲れ様だ』

「お疲れさん」

 兄妹と、そのイアホンから流れてくる女の声に安堵の色が見えた。

「結局なんだったの……この仕事……。まあ、この後どっかお店寄っていってもいいでしょ?お兄い」

 少女は緊張を解きほぐすように背伸びをしてストレッチしつつ言う。

「もう兄貴なんて言わなくていいぞ」

「……お兄い」

「おい……」

 男が苦虫を噛んだような顔になった、その瞬間、兄妹の足元にあったペット用のカゴ。中型犬一匹が入るくらいのカゴがふいに震え、「バウバウ」と中の犬が喚く音が聞こえた。

「え?虎丸?」

 犬の吠えている先、そこを歩いているのは先ほどの女子大生。

「虎丸……この鳴き方は……クスリか?」


 カゴの中に入っている黒い柴犬風のミックス犬は名前を虎丸といい、特殊訓練を受けた優秀な犬だった。警察犬軍用犬狩猟犬としての格闘能力、追跡能力、などあらゆる技能を習得しており、その中には麻薬捜査犬としての鋭い匂覚も入っている。

 そんな、ペットショップでは到底手に入らないような、というよりも世界でも類を見ないほど高度に訓練された犬を連れている兄妹。

 彼らは、非常に分かりやすく言えば特殊情報機関の構成員だった。

 ある情報をもとに、先ほどのアラブ系の家族の日本での動向をずっと監視していたのである。

 その仕事が終わったと思った瞬間、何故かその家族と接触した無関係と思われる女子大生に対して虎丸が吠えたのである。

 虎丸はあらゆる匂いを覚え追跡することが可能で、火薬や麻薬などの危険物も察知し主に知らせることが出来る。

 今の鳴き方は、その女子大生に麻薬所持の疑いがあるという鳴き方だった。何が危険かという情報すら言葉のように伝えられるほど、この犬が異常に優秀だということだ。


「柳、あの女を確保しろ」

 男が言い終わる前に柳と言われた少女はするりと歩み出し、犬の吠える声に怯え、すぐさま早歩きで逃げ出そうとする女子大生を捕まえた。

 それを見届ける前に男は逆方向に走りだし、今まさに空港スタッフが締め切ろうとしている搭乗口に向かう。

 女子大生に麻薬反応があること、それは正直どうでもいいことだった。男が所属しているのは麻薬の密売などを追いかける組織ではない。その麻薬の運び屋があの家族、ターゲットと接触していたということが大きな問題なのだ。

 さきほどの接触が偶然という可能性は、この場合ほとんどない。

 麻薬が運び込まれるのは国外から国内へのルートだ。国内から国外へ麻薬を運ぶなどナンセンスも極まりない。ヨーロッパの個人農家が作ったたいして出来の良くもない米をわざわざ日本に輸入するほど無駄で意味の無いことだ。

 だから出国時の麻薬検査はそれほど徹底したものではない。とはいえターゲットの手荷物と乗る機体の貨物のチェックは非常に厳重に行われたはずだった。それは先ほどの無線での連絡で聞いている。

 だからこそ、今機内に危険物を持ち込むとしたらこの瞬間手渡しでやるしかない。

 あの女子大生は立ち振る舞いや表情を見た限り完全な素人で、おそらくアルバイト程度でやっているだけだろう。

 ネットか何かで依頼を受けて、この空港の入口あたりで依頼人からヤクの入ったバッグでも受け取り、ゆるい荷物チェックを通ってコンコースまでやってきて、それであの家族に接触し、荷物を渡した。その後は本当にどこか海外にでも行くのか、急用が出来たとか言って飛行機をキャンセルして家に帰ってまたネットでユーチューブでも見ながら菓子と炭酸飲料でも飲むつもりだったのだろう、もしくは前から欲しかった服やら何やらを買いにデパートにでも行くのか、そのバイトで稼いだ臨時収入を持って。

 そう考えるのが妥当だった。とにかく女子大生はどうでもいい。

 今、ターゲットにそんな危険物が渡っていることの方が遥かに危険だ。

『どういうことだ、なにがあった、なぜ虎丸が……麻薬反応?』

 男はイアホンから聞こえる、半ば焦っている女の声を無視しつつ、搭乗橋に突っ込んでいく。空港スタッフを押しやり進み、通路を渡り、機体の入口に立ちはだかり不審な目でこちらを見るスチュワーデスに。

「警察だ、通してくれ」

 と、胸から手帳を取り出して見せると、客室乗務員は即座に飛びのいた。

 その手にある手帳は確かに警察のもの、そのものだったが。彼は当然警察の者でもその関係者でもない。

『異常事態だ……機体が動いている!?早すぎるハイジャックだ』

「オーケイ、分かってる、今乗り込んだ」

 男が乗り込んだ途端、ジャンボジェットは動きだしていた。搭乗橋は半ば引き剥がされ、男の背後で乗務員が驚いて搭乗口を締める。

 予定よりも早い出発であり、ジャンボジェットはそのままコースや順番を無視して斜めに滑走路に向かいつつあった。

 明らかなレギュラーだった。管制塔は今驚きに満ちているだろう。

『いいか、テロリスト共を排除しろ』

「オーケイ」

 男はジャケットの裏から拳銃を取り出し構えつつ機体の先頭、コックピットへと向かう。

 そこにいる、ハイジャック犯を処理するために。それが彼の仕事だった。


 特殊すぎる訓練を受けた、最精鋭を集めた極秘の特務機関。通称N機関と呼ばれるそれの構成員。

 カウンターテロを目的とした特殊部隊。

 しかし彼らは総務省や外務省などの省庁に属する政府組織ではない、内閣の支配下にすら入っていない。公式には全く存在しない組織であり、国や法に縛られることもない。

 さらにいえばその主要構成員、数十人と言われるそれらの者には国籍すら無い。存在しないはずの組織に属する存在しないはずの者たちだった。

 実際に彼らはあらゆるものに拘束されない、総理大臣ですら命令することは出来ない。だが、日本のあらゆる政府組織や警察、自衛隊と連携し、その資産を共有している。

 それはひとえに彼らがこの国を守るため、という絶対的な指標の元に行動しているからであり、その大義を越えて己の利益の為に彼らが行動することはあり得ないという信頼の元に成り立つ、N機関と国との特異な連携だった。

 彼らの存在を知る者は極めて少ない。しかしその限られた人々は彼らを忍者部隊や、忍び機関などと呼ぶ。

 お伽噺的なその呼び名は、彼らの源流が江戸時代徳川幕府の諜報機関にあり、さらに遡ればそれは甲賀や伊賀等のいわゆる忍びと呼ばれた衆団にまで行きつくからであった。


「やはりアサシン……」

 呟く男の視線の先、ジャンボジェットの客席の方。搭乗口のスペースから見える、通路の向こうでは今まさに血塵が舞っていた。

 客の座った座席、その向こうで立っている女がいる。明らかに挙動がおかしい。

 先ほど男が監視していたアラブ系の家族の母親。彼女だった。

 その手にはきらりと光る小さな金属。恐らく硬貨だろう。そして視線の先には今まさに客席に血を流しつつ倒れているコートの男。これは先ほど確認した外務省情報局の監視員だった。ターゲットの飛行機搭乗後は彼らが監視を続ける手はずだったのだが。

 けん銃を所持している監視員を、先制をうって倒す力。

 それは驚くべきかな超常の力に違いなかった。

「コインを、撃ったか」

 単純な力だった。旅客機に持ち込める手頃な金属。ちょうどいいサイズでたくさん持ちこめ、持っていても何も怪しまれない、それでいて良質の金属。そう、硬貨だ。

 それを超能力を使って高速で弾き飛ばす、それだけでコインは凶器となる。それは検問や荷物チェックでは防ぎようがない。

 ただ、問題は超能力の方だ。普通の人間にコインを高速で飛ばして人を殺すなど出来ない。メジャーリーグのエースピッチャーが全力で投げても不可能だろう。


 超能力や魔術というものが実は存在しながらも隠ぺいされ、それが世間に知られていないのは。ひとえにこの力を使える者が極めて少ないからである。いや、使える人間は実はそれなりにいる、しかし超常の力と分かるほどの現象を発生させられないのだ。

 才能があり、かなり訓練された能力者でもコインを少し動かす程度が関の山だろう。


 だからこそ彼らは。「アサシン」と呼ばれる中東に古くから巣くう暗殺集団、現代においてはテロリストの極秘部隊であり暗部であるその者達は、反則的な能力強化アイテムを使う。

 麻薬だ。虎丸が吠え、それによってこの男が危機を察したのはそのせいである。

 アサシンは古くから自爆テロ的な特攻戦術を得意としており、それを行う際は麻薬により戦意を高揚させて正気を失いつつ突撃するという非常に恐ろしい方法をとる。

 アサシンの語源がハシーシ、つまり大麻を意味することからもわかる、中世十字軍の時代より最も恐れられてきた伝統だった。

 もっとも現代のアサシンは大麻ではなく、能力を脅威的に向上させるように調合された特別なドラッグを服用するのだが、それはやはり依存性が高く身体に極度の負担がかかる危険な麻薬そのものだった。

 冷戦以降、テロとの戦いが始り、それが脅威とされたのは様々な理由があるが。隠された脅威としては、このドラッグの使用により安価で安易に使い捨ての特攻魔術師を使用することが出来るという点である。

 それは今までの、極めて長い時間をかけて養成するのが当たり前という異能力者の世界にある意味革新をもたらしたのであった。


 コンコースで受け取ったその薬をさっそく飲んだのか、能力の強化された彼女は手に持ったコインを高速で射出出来るほどの力まで強化され、そして監視員を撃ったということである。

 N機関が介入していなかったらそのままジャンボジェットを離陸させ、どこかにぶつければ大量殺戮テロの出来上がりだ。

 C4もカラシニコフ(AK‐47)も使わずに、麻薬は必要だが、その程度で完成する良くできた手法だった。


『兵吾、撃て』

「オーケイ」

 ためらいは微塵もなかった。流れるような動作で拳銃を構え狙いを付け。

 先ほどまではやさしそうにしか見えなかった異邦人の母親を、今はハイジャック犯にしか見えない凶暴さを露わにしたその女を、撃とうとした。

「うっ!?」

 サイレンサー付きの空気の抜けるような音を立てて放たれた三発の銃弾は、しかし当たらない。撃った瞬間、その主である男、兵吾には分かった。

 頭がぐらりとするほどの頭痛のような衝撃。目眩がし、眼前にまさに幻覚のようなものが現れていた。

 この感覚は、まちがいなく幻術の類いだった。歴戦の兵吾はそれを受けつつ悟っていた。

 目眩に外された銃弾は、幸い全て客室の天井に当たった。兵吾がとっさに銃口を上に向けたのもある。

『どうした?敵の攻撃か』

「そうだ、ちくしょう!」

 テロリストと化した母親がこちらに気づき、拳と指にはさまれたコインをこちらに向ける。

 この女は大した敵ではない。ドラッグによるブーストがかかってようやくコインショットが出来る程度の能力者だ。物をはじく程度の念動力など最も初歩的な力である。

 問題は先ほどの幻術を使った敵だ。先ほどの家族の父親の男の方か、もしくは……まだ少女と言ってよさそうな見た目のあの娘の方か。

 テロリストの一人は、コックピットでパイロットに早く離陸するよう指示をしているはずだった。その距離で無差別的多数に幻術が発動できるのか。しかし、先ほどの目眩は、明らかに指向性のものを感じた。

 極めて厳しい訓練を受け幻術耐性を持った兵吾をたじろがせるほどの力は、相当な使い手のはずだ。術の狙い撃ちでしかありえない。

 前方のコイン女が百円硬貨と思われるものを三枚続けて発射する。爆炎も発光もない、ただ高速の金属が客席を駆ける。ショットガンのようにその狙いは粗雑なものだった。

「くそっ!」

 兵吾は自分に飛んできたものを避けつつ、拳銃を二発発射し、乗客に当たりそうだった残り二つのコインをなんと空中で撃ち落とした。

 脅威的な射撃により弾かれたコインと弾丸は客室の壁やイスに突き刺さるが、乗客に影響は無い。それを確かめるより前に兵吾はさらに次の一撃を放った。

「……っ!」

 またしても幻覚。それにより照準はずれ、銃弾はコイン女の胸と肩の間に当たる。と同時に兵吾は彼自身の異能。忍法と呼ばれる物を使っていた。


 魔術を他人にかける場合、そこには糸のようなパスが通る。そのパスを通して魔術の効果を相手に流し込むのだ。つまり今兵吾と幻術使いの間にはパスが通っていることになる。

 兵吾の忍法は本来肌が触れ合うことで効果が出る極めて接近型の能力ではあり、遠隔攻撃には向かない技ではあったが、敵がパスをつなげてきた時に限ってカウンターとしてパスを逆利用して敵に攻撃を仕掛けることが出来る。

 とはいえ敵の攻撃を受けながらでないと発動できないというのは使い勝手の悪いものではあるのだが。


「ふん!」

 敵の幻術が必殺の威力を持つものではない、あくまで幻覚を見せるだけであったことが幸いした。それがわかっていたので一回目の幻術はあえて様子を見たのだが。もうそんなことをやっている余裕もない。

 彼の忍術、異能の力を敵に逆流させ流し込む。幻覚でこちらも朦朧としたが、手応えがあった。

 コイン女が銃弾に倒れ、通路の床に仰向けになった。それと同時に兵吾の少し前の座席から誰かが転げ落ちる。少女だ、あの、さきほどのターゲット家族の娘かと思ったが、良く見るとそれは違った。

 心臓発作か何かのように苦痛に悶え針を刺された芋虫のように床にのたうつ少女。兵吾の忍法が効いている明らかな症状だった。

 しかし、目の見開かれ、恐怖に歪んだその顔は。

「馬鹿な……」

 兵吾は術を解いた。いや、半ば無意識に解いてしまった。

「……ひさ……こ」

 術は解かれたが、未だに呼吸荒く床に寝ころんでいる少女。十代半ばくらい、黒い髪の、日本人のそれだった。幼さの残るあどけない顔だがこのまま育てばやがて美人になるだろうというのが分かる、そんな娘だった。

 だが何より、兵吾にはその顔に見覚えがあった。

「緋佐子……!」

 兵吾はなかば戦意を喪失して、構えたはずの拳銃は胸の前に伸ばした腕と共に項垂れていた。

『兵吾!幻術だ!目を覚ませ!』

 イヤホンから聞こえるその声に、兵吾は意識を取り戻す。目の前の少女の顔が、霧がかかったようにぶれ、幻覚だと分かる。だがそれでもなおその顔は、彼が良く知っている緋佐子と呼ばれる女に見えた。

「……!!」

 兵吾は幻術を振り払うように走り出す。まだ兵吾の忍法を受け苦痛で倒れている少女を跨いで越え、その先にこれまた倒れているコイン女、銃弾を受けながら未だ息のあるそれの両腕に一発ずつ銃弾を撃ち込み戦闘能力を完全に奪った。

「夜未じゃないんだな?……あいつがここにいるなんて聞いてない」

『何を言っている兵吾?よくわからないがそれは幻術だ』

「わかってる……わかってる……」

 そうだ、緋佐子はもういない。さっきのは幻術によって自分の良く知る顔を見せられただけだろう。おそらく敵の幻術使いの能力は、相手の一番撃ちにくいものに化ける類いの。弱点を攻めるタイプの幻術なのだろう。

 そうだ、緋佐子は、俺の妹の彼女はもういない、死んだのだ。

 それを分かっていながら、先ほどの床に倒れていた少女を撃って殺すか、もしくは無力化出来なかった自分に驚いていた。

 とにかく、旅客機は動いていた。滑走路に進入し、加速しつつある。周りの乗客は阿鼻叫喚の渦であり、混乱しきっていたが血を噴き出し悶えるコイン女とそれを越えてコックピットへ通路を駆けだす兵吾、彼の手にある拳銃を見て怖じ気づき、イスにへばりついていた。

『どうでもいい、ジャンボジェットを止めろ兵吾!離陸されたら終わりだぞ!』

 とは言いながら、旅客機は本格的な加速を始め、離陸態勢に入っていた。

 その客室の中を兵吾は走り、コックピットに向かう。そこに最後のターゲットの父親役の男がいて、パイロットを監視しているはずだった。

 通路の先にコックピットへ通じる扉が見える、それが開き、中から誰かが出てきた。男かと思ったが、それは少女であり、またしても兵吾の妹と同じ顔をしていた。

 幻術はまだ残っている。

 幻覚と分かっていながら、その姿に動揺してしまう。

「……っ!!」

 しかし兵吾はその敵を撃てなかった。それが敵ではなく一般人である可能性もあり躊躇したというのもあったが、それ以上に混乱していた。

 緋佐子に見えるその誰かが、おそらくドラッグによって促成強化された魔術を使う。手のひらからまるで二流手品か何かのように炎が噴き出され、その火の手から逃げようとして叶わず、魔法の炎に焼かれ、のたうつ乗客もまた緋佐子のそれだった。

「やめろ!やめろ!!」

『兵吾!!』

 飛行機はもはや離陸していた。加速の慣性に背後に押しやられそうになりながら、兵吾は惨劇を見ていた。

 阿鼻叫喚の周りの乗客も見回すが、なんとその顔は全員緋佐子だった。

 記憶の中の、あの可愛らしい妹。この世でただ一人心から信頼できる存在であった彼女。そして自分のせいで殺されたあの子が。

 明らかに幻術と分かっていてもどうしようもない自分がいた。極めて強力な幻術使いであるということは分かったが対処できない。パスをたどって再びカウンターを仕掛けることももはや意識の外にあった。

「緋佐子……」

 周りの客席全てで逃げ惑い、泣き叫び、燃やされ狂乱する緋佐子に囲まれて歴戦の戦士であったはずの兵吾が立ちすくんでいた。

『兵吾!緋佐子は、お前の妹は死んだ!!』

「!」


 その喝に再び意識を戻され、気持ちを沈め、拳銃を構えると、正確に一発。手のひらから龍の息吹のように炎を吐き続けていた少女の幻影、その頭部に銃弾は吸い込まれていき。

 背後のドア、コックピットへつながるそれに、彼岸花のように赤い血の模様が吹きつけられた。

 その周囲には焼けて黒焦げになりつつある少女達と、そのさらに周囲にはもはや泣き叫び動けないでいる者や、座席から立ち上がり逃げようとして他の者とぶつかり押し合い圧し合いしてむしろ動きようが無くなっている者がいた。

 その全てが緋佐子の顔であり、姿をしていた。

 だがしかし、兵吾は心を殺し、銃を構えて威嚇し通路を確保しながらコックピットに向けて歩き始める。まだ燃えている黒焦げの焼死体や、額を撃ち抜かれ、鮮血にまみれドアに寄りかかっている少女の骸を見ないようにしながら兵吾はドアを開き、客室を離れコックピットに向かう。

 敵は忍法のカウンターを恐れたのか、幻術のパスはもう繋がっていないようだった。しかし送り込まれた幻術は兵吾の頭の中に未だに残り、消えないようだ。むしろ自己増殖的に勢いを衰えさせない。それだけ影響力の強い術なのだろう。

 コックピットの手前の通路に焼死体が転がっている。煙の立ち上り方から焼かれて少し経っているようだった。パイロット二人のうちのどちらかだろうが、緋佐子の姿をしたその半分炭になった人間は、誰なのか判別不能だった。

 そしてコックピットに入る。目の前の、計器類に囲まれた窓から前方の空が見えた。操縦席に座るパイロットは、これもやはり緋佐子の姿をしていたが白目をむいて発作のように痙攣している、意識は無いようだ。

 さっきまで操縦していたはずだったが、幻術にやられたのか。兵吾のような魔術耐性を持た無い一般人が幻術を食らえば、僅かな時間で自我が崩壊しこうなるということだった。

 離陸したジャンボジェットは、しかし操縦士を失いコントロールの無い状態に陥り、今や墜落コースを取っていた。

 機首は兵吾の目の前で地面を向き始め、窓から下の陸地、住宅街が見える。このままいけばこの機体は墜落してこなごなに砕けるだろう。

 兵吾はジェット飛行機の操縦は一応経験している。ジャンボジェットを操縦したことは無いがそれに近いものなら最低限の技術はあった。だが、だからこそ分かった。


「駄目だ……堕ちる」

『兵吾!聞こえるか!なんとか空き地に落とせ!』

 発狂したパイロットを押しのけ操縦桿を握るが、もはや出来るのは墜落場所を微調整するくらいのものだ。軟着陸など不可能だった、どうあってもこの機は砕け散って爆発しほぼ全員の乗客は死ぬ。

『兵吾!衝撃態勢をとれ!!お前だけなら!』

 兵吾は操縦桿を握りながら後ろを振り向いた、開いたドアから客席の方が見える。絶叫の乗客の中、一人の少女がこちらをまっすぐに見つめていた。相変わらずその顔は緋佐子だったが、彼女が幻術使いだと感覚で分かった。

 驚愕と怒りに顔をゆがめる兵吾を余所に、彼女は客席の向こうに消えていった。

『兵吾!兵吾!生きて!死なないで!』

 もはや操縦は無意味だと感じた彼は、それを追いかけようと走りだした。


 日本のテロ史上最悪の犠牲者を出した事件として、ジャンボジェット墜落テロは大ニュースとなり、歴史に刻まれることとなる。

 乗客は全員死亡。生存者は無し。ジェット機が無人の畑地帯に堕ちたことで巻き込まれる二次被害者は出なかったが、それは日本国民全体の、ましてや被害者遺族の慰めにはならなかった。

 だが、その事件の裏で、でどうしても一人死体の発見できない少女の乗客がいたこと。ブラックボックスに記録された本当の情報が公開されることはなかったこと。ジャンボジェットが動き出す直前に乗りこんだ警察官らしい男がいたこと。テロリストが中東出身のアサシンであることと、異能を使ったことはもちろん隠される。


 そして、実は一人だけ生存者がいたということは、ついに明かされることはなかった。

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