第2話
手術の後、2~3日経って心身ともに安定した頃、ケンのリハビリもとい言語学習が始まった。
最初にやったのは五十音の読み方を覚えること、言い換えればそれぞれに対応した音を覚えることだった。担当の女性看護師が彼に「あ」から順番に発音し、ケンもそれにならって発音することを繰り返す。今まで自身の声を使ってこなかったので、声帯の筋肉が衰えていた彼には少しつらかったが、それでも彼は子供のように真面目に取り組んだ。
発音の練習のため看護師が五十音を発音する時、彼女の声に耳を傾けすぎるあまり、自身の発音がおろそかになることも何度かあった。
「必ず私の後に続けてすぐに発音してください」
そう少しきつめに注意されたが、ケンは自分に向けて発せられた誰かの声が聞こえる、それだけで嬉しかったので彼女の口調は特に気にならなかった。看護師の声はまだ彼の担当になって日が浅いこともあって事務的で少し冷淡だがどこか人間臭さと優しさを感じさせる女性らしい響きで、薄いブルーのようだった。
声帯の筋肉が思った以上に衰えていたので、小さなピアノがある部屋でボイストレーニングを他のリハビリと平行して行うことになった。
ボイストレーニング担当の先生は五十音学習の看護師とは別の女性だった。見た目から40代ぐらいだと思われるその女性は優しい目をしていて、大きくてきれいな手の持ち主だった。
「私の伴奏に合わせて、力を抜いてあーあーーあーあーあ~♪と発声してくださいね」
凛とした先生の声を聞いて、ケンは濃いがきれいな緑色を連想した。
ボイトレ担当の先生が伴奏を弾く。初めて聞くピアノの音は柔らかで少し金属的な感じがして、決して硬すぎない丸みを帯びた銀色の音色だった。
人工聴覚を導入して初めて聞いた楽器の音。伴奏は単調なメロディーだったが、生まれて初めて聴いたピアノのきれいな音だったのでケンはとても嬉しかった。
僕もピアノが弾けるようになるだろうか、他の楽器はどんな音がするのだろうか、そんなことを思いながら彼は言われたとおりにトレーニングを行った。
簡単なメロディーであったが、歌うように行うボイストレーニングはとても楽しいもので、これをやっている時間は他のリハビリよりも圧倒的に早く過ぎ去った。トレーニングの体感時間があまりにも早いので、ケンはボイトレの終了時間になるといつももう終わりか、と少し残念に思っていた。
ケンがとても楽しんでボイトレを精力的に行ったことで、弱りきっていた彼の声帯は健康さを瞬く間に取り戻していき、声も自然なものになっていった。
彼のリハビリはこれだけではない。五十音に対応する発音を覚えて、ボイトレも佳境に差し掛かった頃、こんにちはやありがとうといった基本的な言葉と共にまとまった一文の発音も行った。
五十音の練習と同じ看護師立会いのもと、病院にあった子供向けの絵本や小説を朗読した。文章を読むこと自体はこれまでも幾度となくやってきたが、声に出して読み上げるというのはなかなか骨が折れることだった。
文章を読むとき、普通の人であれば知らず知らずのうちに声には出さずとも心の中でその文章を再生しているらしい。そのため小説等でセリフを読んだとき、自然とそのセリフに込められた感情や意図を理解しているのだが、ケンの場合は違った。
彼が文章を読むとき、彼の心の中でその文章が再生されることはなかった。
今までの彼にはそもそも音という概念がなかったため、文章を読んでもそれが再生されることはなく、平坦なただの文字の羅列でしかなかった。だから小説を読んでもいまいちピンとこなかったりと、文章の意味やそこにある感情を正しく理解することは彼には難しかった。
人工聴覚を手に入れるまでケンにとって文章に起伏というものは存在しなかったので、彼が文章を読み上げるとまるでお経をだらだらと読むか、あるいは呪文でも唱えるように抑揚の乏しい不自然なものとなってしまっていた。
ボイトレにより声の元気はある程度取り戻してはいたものの、不自然で昔のロボットが喋るような片言の発音に、担当の看護師は笑いを堪えることが難しかった。
ケンが頑張って読み上げるもどうしても片言になってしまうので、くすりと笑いつつも看護師は正しい発音を彼に聞かせ、それを聞いたらうまく行かないもどかしさと片言になってしまう恥ずかしさを合わせた彩度の低い声でケンがもう一度発音する、そんなことを繰り返していた。
なかなかきれいに文章を読み上げることができないので、ケンは苛立ち始めるもそれに気づいた看護師が子供に言って聞かせるように優しく諭す。
「もうちょっと頑張ればうまくできるようになりますから、ほら、頑張って。もちろん焦ったらダメですよっ」
その声色はちょっと前までの冷淡さが少し抜けて優しい桜色になった気がした。
様々な色、色彩豊かな音にたくさん触れて、ケンは少しずつ言語を習得していったが、リハビリは彼が退院してもしばらく続いたので退院後も通院しなければならなかった。
通院は少しばかり面倒であったが打ち解けて桜色の声になった看護師の存在もあって、彼は無事に自分自身の声を完璧に我が物とすることに成功した。
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