聴覚拡張
浦賀玄米
第1話
ケンは生まれつき耳が聞こえなかった。遺伝子操作により障害を持って生まれないようにすることもできたが、彼の家はお金がなかったので障害の有無を調べることも、その確率を調べることも、それを排除することもできなかった。生まれてすぐに彼の耳に障害があることはわかった。そこで手術により、生まれ持った耳の構造を新しい機械の耳、この時代で言うところの人工聴覚に置き換えることを医者は勧めたが、彼の両親はそれを拒んだ。ケンの両親は人工聴覚のいかにも機械、といった見た目が嫌いだったし、生まれ持った組織を傷つけて人間らしくない装置を取り付けることに納得がいかなかったらしい。そのためケンは生まれてから24年もの間耳が聞こえないまま生活することとなった。
この時代、人のできないこと、足りないことを機械でもって補うことが当たり前の時代で、耳が聞こえない聴覚障害者という存在はかなり珍しかった。もっとも、例えばケンがそうであるように、なんらかの事情により機械による機能補助をしない人もいるので、生活に難儀する障害者がいないこともなかった。
遺伝子操作技術の発展と普及により、先天的な障害を持って生まれる子供は少なくなったが、事故や老化による後天的な障害は遺伝子操作の及ぶところではないので、機械を体の一部として身につけ生活する人はそこそこ、それこそ日常に溶け込むほどにいた。だから普通なら人工体構造を使っていても、他の人より多少目立つくらいで問題はなかったが、ケンは先天的な事情により障害を持っているという時点で貧乏のレッテルを貼られ、しかも耳が聞こえなかったのでいじめに遭うなど大変な少年時代を送った。
聴覚のないまま生きることとなった原因は彼の両親にあると言っても過言ではない。だからケンは両親を恨んだり、自分の置かれた環境に不満を持ったりした。両親と手話やジェスチャーを使ってケンカしたことも、もちろんあった。だが、そうやってケンカする相手はもういない。
ケンの両親は死んでしまった。父はストレスを抱え、それが引き金となってお酒を暴飲し、急性アルコール中毒で亡くなり、母は父が死んだ後すぐにガンになり、亡くなった父の後を追うようにこの世を去った。聴覚障害者のケンをひとり残して。
ケンカしたりはしたが、彼も彼の両親のことが大嫌いではなかった。なんだかんだ言っても自分に愛情を注ぎ、必死に育ててくれたのだから一応は感謝していたし、2人がなくなったことはとても悲しかった。いわゆるぼっちでコミュニケーションを取れる相手は両親ぐらいしかいなかった彼にとって両親の死は人との関わりがなくなり、正真正銘のひとりぼっちになることを意味していた。
両親が死んだことでケンは両親の持っていた決して多くない額の財産を引き継ぎ、莫大な額ではないが20年くらいは優に暮らせる額の死亡手当てをもらった。一度にまとまった額のお金が手に入ったが彼にはそれを使いたいと思えることがなかったので、最初は貯金することにした。
ある日のこと、ケンは大好きなコーヒーを飲むために喫茶店に来ていた。いつものようにジェスチャーとメニューを指差すことでコーヒーを注文し、それがやってくるのを何を考えるでもなくぼんやりしながら店の隅っこの店内が見渡せる席で待つ。
しばらく待っているとコーヒーが運ばれてきた。ウェイターがコーヒーをテーブルに置くときに何か言っているようだったが何も聞こえないのでわからない。
熱々のコーヒーが注がれたカップを手に取り、少しふーっと冷ましながら一口飲む。コーヒーの苦味と豊かな香りが舌と鼻を満足させる。問題があるのは耳だけなので味と香りで楽しむことができるコーヒーはケンのお気に入りだった。
コーヒーカップを受け皿の上に静かに置き視線を上げると、少し離れた席に座る男女が目に留まった。なにやら楽しそうにおしゃべりをしている。他に目を向けるとカウンターに座っている客がこの喫茶店の店主と会話をしているのが見えた。彼らはいったい何を話しているのだろうか、そんな好奇心が胸をくすぐる。
誰かが話していることがなぜか無性に気になる。みんなの声を聞いてみたい。好奇心が衝動となってそれを加速させる。そうだ、お金はある、それに自分は自由だ、誰にも拘束されない、だったら耳を手に入れてもいいじゃないか。
両親を亡くした傷心すら忘れるほどの衝動に突き動かされ、ケンは病院へ足早に向かう。そして医者との情熱的な相談の末、ケンは生まれて初めて聴覚を得ることになった。
次に目が覚めたとき、それが完全な人としての人生の始まりだ。はちきれそうな期待を胸にケンは麻酔で眠り、人工聴覚の取り付け手術が始まった。
気がつくと病院の清潔感のある白い天井が見えた。まだ麻酔の効果が少し残っているのか、体がだるく起き上がれそうにない。仕方がないので、黙って天井を見つめていた。
しばらくそうしているとケンの意識が覚醒したことを機械に知らされたのか、医者と看護師がやってきた。
「気がつきましたか、私の声は聞こえますか」
まだ聴覚による言語の認識になれていないためはっきりとそう聞こえたわけではないが、ケンはそれを聞いて小さく首を縦に動かした。
病室ではケンが目覚めたときから心音を表す機械音や空調の音などいくつもの音が存在していたが、初めて耳が使えることを意識したのはその一言だった。
「それはよかった。どうやら言語音声認識の拡張チップもうまく機能しているようです」
聴覚のない生活を長く送っていたせいで通常であればケンは音が聞こえるようになっても音声の認識はできず、まるで外国語を聞いているように何を言っているのかわからないのだが、人口聴覚の手術のときに同時に脳に埋め込まれた言語学習用の拡張チップのおかげで子供が長い時間をかけて言語を理解するような手間を省くことができたのだ。
ケンはこのとき生まれて初めて人の声を聞いた。その時の感動はケンの脳に一生かすれることなく鮮明に記憶されることとなった。初めて聴覚を使った瞬間、初めて聞いた言葉は不明瞭で事務的な言葉だったがとても優しい響きだった。真っ白で無機質なところに暖色系のきれいな花が咲いたような感じがした。
嬉しさのあまり涙が出る。泣きながら嬉しさと感謝の気持ちを表そうとなんとか言葉を発そうとするが、拡張チップに舌と声帯を言語に対応させてすぐにしゃべることができるようにする機能はないので、あ~、うー、と言葉にならない声しか出なかった。
「まだ話すことはできないので、これからゆっくりリハビリして話せるようになりましょう」
今、話すことができないのがとてももどかしかったが、これから自分も喋れるようになるのだと思うとワクワクが止まらなかった。
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