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「おい!」
ジョセフは叫んだ。その声は、男らしいというには程遠かった。震えていたし、最後の方は少し裏返った。それでもなけなしの勇気を奮ったジョセフの行為を、イザベラは誇らしく思った。
「ヴィンスをいじめるな!」
「え?」
ヴィンスは何が起こったか分からずに戸惑う。他の男達はジョセフとイザベラの姿を見て、互いに顔を見合わして相談する。
「……ガキだ」
「全部聞かれていたみたいだ。どうする?」
「聞かれていたと言っても、ガキだぞ。少し脅せば大人しくなるさ」
やはり相手はこちらを子どもだと思って態度を改めない。
しかし好都合な事に三人はジョセフ達の方に近寄ってきた。ヴィンスもそこで逃げればいいものの、反転して逃げ出すことも男達を止めることも出来ずただおろおろと立ち尽くすだけだった。あまりのとろくささにイザベラは思わず溜め息を吐きそうになるほどだった。
「よう、俺はこいつとただ仲良くお喋りをしているだけなんだ。どっか行ってくれねぇかな?」
「嘘よ。さっき物騒な事言っていたもの」
イザベラの言葉に男達は顔を見合わせる。
「やっぱ聞かれてんな」
「どうする?」
「……ヴィンスよぉ。お前が早く渡さないと、こいつらがお前の代わりに痛い目見るかもな」
男の一人はなんとも
もう限界だ。イザベラがそう思った時、ジョセフは大きく息を吸い込んだ。
「ビリー!」
さっきよりもずっとずっと大きな声。その声に一人を除いた全員の注目が集まる。
唯一ジョセフを見ていない一人――ウィルソンが屋根から飛び降りた姿を見たのはジョセフとイザベラだけだった。彼はヴィンスよりも後ろに落下していた。
三階の屋根からの飛び降り。恐怖で足を
ダン、と両足を曲げて着地の衝撃を和らげる。その音でようやく、他の四人が異変を感じ取った。
「ごめんよっ!」
ウィルソンはヴィンスが自分の存在に気付いてしまう前に、油断して力が緩んでいたその手から袋を奪い去った。そして衝撃で痺れてるであろう足をもつれさせながらも無理矢理に動かして走っていった。すぐに彼の背中は路地の奥へと小さくなっていく。
「あ、テメ――」
「やーい! 情けないな!」
瞬時に反応して追いかけようとする男達を、ジョセフが
「あいつら!」
「お前はあの二人を追え!」
袋の方が重要と考えたのか、男の内二人がウィルソンを追いかけた。ジョセフとイザベラの方に仲間から指示されて残る一人が駆けてくる。
「逃げるよ!」
「うん!」
ジョセフとイザベラは反転すると、全力で走り出した。イザベラは長いスカートをたくし上げながら走る。
まずは広場を横切った。広場にいる人達には追いかけっこをしているようにしか映らないだろう。それを追いかけているのは子どもではなくすでに大人になっている男だという事には不審に思う人間もいるかもしれない。しかしイザベラもジョセフもそんなものを期待して止まるわけにはいかなかった。
「お椀通りで!」
ジョセフが走りながらそう告げる。イザベラには答える余裕はない。しかしそれが意味するところは理解していた。教会までの追いかけっこでは、イザベラは僅差でジョセフに勝っていた。それだけではない。イザベラとジョセフが足の勝負をした時、イザベラが勝つ事の方が多かった。
「ベル、頑張って!」
でも今は違った。ジョセフはイザベラよりも速く、そして彼はイザベラを気遣うだけの余裕があった。秘密基地での事をイザベラは思い出した。もしかしたら今までずっと、ジョゼフはイザベラに対して遠慮していたのか。
必死に呼吸しながらジョセフの後ろについていく。女だから? そう思うと悔しくて、イザベラの瞳から涙が小さく零れて宙に飛んでいった。それは風が目に当たるせいだとイザベラは落ち込む自分を励ました。
お椀通りに差し掛かる。その名前のような緩やかなカーブを描いている通りで、左右は住宅が並んでいる。ジョセフ達がいる通りからその通りに入ると、左右に道が分かれていてジョセフはそれを右に曲がった。
先に示し合わせていた事を違える事なく、イザベラは左に曲がった。それを確認するジョセフと目が合って、そして二人は別れた。
「――っ!」
かなりイザベラと距離を縮めていた男だったが、しかし二人が分かれた場所に立ち止まって一瞬
「待てやぁ!」
その声に、イザベラは心の底から震えあがる。足と足が自分のものなのに絡まりそうになるが、転ぶわけには行かないと必死で動かした。しかし走力では向こうが上だ。距離は簡単に縮められる。
あそこに行けばという逃げ切るための具体的な方法がイザベラの頭に一つ浮かんでいた。しかしこのままではそこにたどり着く前に追いつかれる。捕まったら何をされるか分からないというのに。後ろから響いてくる激しい足音は、すぐそこまで迫っていた。
「捕まえ――」
そんな声が後ろからした。耳元で言われたかのように近くに感じて、思わずイザベラが悲鳴を上げそうになった。しかしその声は途中で途切れ、後ろから派手な音と小さな悲鳴がした。
思わず足を止めて後ろを振り返ると、追いかけてきている男は転んでいた。そのすぐ側に別の青年が倒れている。男はそのぶつかってきたへらへら笑っている青年に怒りをぶつけていた。
イザベラはまた走り出した。男もすぐに追いかけてくるだろうけれど、これは天から降ってきた幸運だと思った。
逃げ切れる。そんな一つの確信が彼女の心を大いに奮い立たせた。後ろから追跡の足音がまた響きだすが、さっきよりも遠くになっていた。
ある建物の影を曲がる。そこは行き止まりに見える。正面には街を囲う石の城壁が天を衝くように立ちはだかっていて、左右は大きな建物がそびえたつ。イザベラはまだ走りながら、後ろの様子を
イザベラは、しかし止まらない。奥の壁まで走ると、そこで曲がった。男の視界ではイザベラは建物に激突するように消えただろう。
「は、はぁ?」
男の慌てた声が聞こえてくる。実は壁と建物の間には子ども一人が通ることが出来るくらいの隙間があった。イザベラはそこに入り込んでいた。
考えればそうだ。建物と城壁がぴったりくっついているわけがない。イザベラが入ってきた所に男が現れた時、イザベラはもう奥の奥まで進んでいた。男は追おうとするが、この隙間は大の男一人が通るには狭すぎる事をすぐに思い知ったようで足を引っ込める姿が見えた。
この辺りは子ども達にとって庭みたいなものだ。追いかけっこ、かくれんぼ、飽きる程やった。どうやればウィルソンといった足の速い子どもから逃げ切る方法なんて捕まった数より多く見つけている。
イザベラは慣れた足取りで
「クソッ!」
建物の向こう側から悪態が小さく聞こえてきた。
まだ追いかけてくるだろうか。しかしイザベラの前にはまた同じように城壁と建物の隙間、子ども一人が通れるくらいの狭い通路があるのだった。
イザベラはにっこりと笑って、再び走りやすいようにスカートをたくし上げた。
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