神は知らない

吉津駒 日呂

一章 ビリーとジョーとベルの三人組

<1>



 少し前まで吹き荒れていた寒風はこの日、まだ姿を見せていなかった。天高くから降り注ぐ春のほがらかな陽気と、凍てついた街を撫でるように流れる暖かで穏やかな風。そこに草花の香りと混ざり合い、春が完成している。


「えいやっ!」


 家屋と家屋の隙間から差し込む僅かな陽光に照らされて、ウィルソンとジョセフは握りしめた木の枝を激しく打ち合って鳴らしていた。棒状の木が同士がぶつかり合って生じる高音が若干規則的に響いては石の壁に吸い込まれるようにして消えていく。

 持ち主の動きに合わせて髪の毛が激しいダンスを踊っている。ウィルソンの茶とジョセフの黒。狂ったように上へ下へ、細長い手足を振っていた。


 イザベラはそれを離れた場所から、足を丸めて地面に座り込んで眺めていた。カチューシャから垂れてきているウィルソンと同じような茶色の髪を片手でいじりながら二人の乱舞を目で追う。その顔は、夢中になっている男子二人のそれとは違ってずっとずっと冷めていた。



「ねえ、いつ終わるの?」


 イザベラは遠くからそう尋ねた。二人は、彼女が退屈を覚えるには十分な時間を使ってずっと特訓と称した棒の叩き合いを続けているのだ。近くの広場に植えられていた木から折って持ってきた、松明たいまつつか程の大きさの枝を二人は剣と呼んだ。イザベラは、あれが剣と呼べるのなら家のボロボロのほうきの方が立派な剣だと心の中で笑っていた。


 額や頬に浮かぶ玉の汗を散らせながら二人はイザベラの呼び声など聞こえなかったように動き続ける。まるでここには二人しかいないかのようだ。当然怒ったイザベラは、ふくれっ面を作るとゆっくりと立ち上がった。

 イザベラには戦闘の事など分からない。話にくらいは聞いたことはあるが見たことも、ましてやそれをしたこともない。しかしそれが本物の戦闘訓練から程遠い児戯じぎである事くらいは経験のないイザベラでも分かっていた。実行している本人達がどう思っているのかは分からないが。


「ねぇってば」


 繰り返された呼び声に気を取られ、ジョセフの視線がウィルソンから外れてイザベラを見た。

 ほんの僅かでしかないその瞬間は、ウィルソンに一歩前に踏み込まれる隙となった。ジョセフがそれに気が付く前に、ウィルソンは固く握られたそれを彼の脇腹目掛けて横薙ぎに振るった。ジョセフは慌てて避けようとするも、しかし腹部にまともに命中してしまう。


「いって!」


 剣はジョセフの胴体を真っ二つにすることはなかった。先程まで二人が剣だと思って持っていたものはただの棒へと変わり果て、夢の時間は終わりを告げた。


「よし、この勝負俺の勝ちだな」


 ジョセフは思わず木の枝を放して、木の枝が直撃した脇腹を手で押さえ込むようにして屈んでいた。そんなジョセフの頭に枝の先を突き付けてウィルソンは誇らしげに勝利宣言をする。

 負けたジョセフは唇を尖らせ、子どもらしい仕草で不満を訴えていた。どうやら当たる瞬間にウィルソンは手心を加えたらしい。痛みはすぐに消えてしまったようで、表情にはそれを訴えるようなものはなくすぐに立ち上がった。


「卑怯だよ。ベルの声のおかげじゃないか」


「戦いの中でそんな言い訳が通用するか。目を逸らした方が悪い」


 イザベラは鼻で笑った。ウィルソン達にとってはこれが街の衛兵や傭兵がやるような本物の戦いに見えているようだ。彼女は同じ年齢の二人の男子が、なんだか自分よりも幼く思えて少し愉快な気分になっていた。


「なんだよベル」


 ウィルソンがそれを見てにらみつけるようにしてイザベラを見る。


「別に」


 その口調はイザベラ本人もぶっきらぼうな返答だと思う程にそっけなく、これじゃあウィルソンは了解しないだろうと分かっていた。思った通り、ウィルソンは眉根を寄せてイザベラを睨んだ。


「文句でもあんのかよ」

「そうね。子どもみたいだなって思っただけよ」

「はっ、言ってろ」


 ウィルソンはそれを軽く笑い飛ばす。しかしイザベラは更に、ウィルソンの神経を逆撫さかなでするような薄ら笑いに手を添えて返した。まるでその返答自体が子どもだと言わんばかりに。

 ウィルソンはイザベラをまた睨んだ。彼はまだ手に持っている木の棒を軽く振り回してイザベラに対する苛立ちを表していた。


「何が気に入らないんだよ」

「二人で遊んでいるからよ。私は仲間外れじゃない」

「ベルも参加したいの? 僕らを見て笑ってたのに?」


 嫌な尋ね方だ、と横から口を挟んだジョセフの言葉を受けてイザベラは、内心苦虫を噛み潰したような気持ちになった。


「まあ……二人ともやりたいって言ってるんだし、やってあげなくもないけど。私だって、箒で野良犬を叩いた事くらいしかないけれど、練習すればちょっとは出来るもん」

「女が剣を持つのかよ? 冗談はよせって」


 これだ。イザベラは深く溜め息を吐く。


 ウィルソンとジョセフとの間には確かな友情というものをイザベラは感じている。普段から愛称で呼び合うくらいには、ここにいる三人は互いに親密な関係を築き上げた。いつも一緒に行動し仲間外れを作ることはこれまでなかった。ウィルソンは徐々に男らしい体つきになっているものの、三人とも見た目はまだ子どもで、一緒にいて男女の性別差というものをはっきりと感じる事は、少なくともイザベラにはなかった。


 内外共に幼い彼らの間に、自分が遠慮する事はあっても相手を拒否するという区別が割って入ってきた事はほとんどなかったはずなのに。


「ビリー、私もやってみたい」


 ウィルソンに指摘されるまでもなく、イザベラにも淑女であろうという気持ちはあった。それは彼女が長い年月を経て会得したものではなく、年頃の少女にありがちな見様見真似の未熟で淑女さだった。子ども特有の旺盛過ぎる好奇心と比べるとなんと薄弱で脆い自己だろうか。イザベラはそれでも先程までは、世にいう女性らしさというものを少しでも保とうとしていた。

 しかしここにきてイザベラはそれをかなぐり捨てた。ウィルソンが彼女の気持ちを少しも慮ってくれないという事を理解して、そして体面を保つという事にめんどくささを感じて、目の前の少年に真っ直ぐに頼み込んだ。


「だめだ。女性相手に剣を振るう戦士がどこにいる」

「盗賊にも女性はいるでしょ」

「真っ当に生きることを諦めた奴等だろ。普通は女の人が剣を振る訓練なんてしない。実際に戦うこともない。ベルのお母さんだってそうじゃないか」


 ウィルソンが言うことも尤もだった。イザベラが知っている中で、男に混ざって武器を持って戦っている女性は見たことがない。話で聞くくらいだ。そうやって納得出来てしまう自分がいるからこそ、その主張に真っ向から反対することも出来ずにやるせない気持ちになるのだった。


 拗ねるイザベラに出来ることといえば、また彼らを嘲笑うように笑みを浮かべることくらいだった。そうして少しでも自尊心を保つ事で精神の均衡を得ようとした。


「訓練? あれが? 薪割まきわりの仕事の方がよっぽど鍛えられそうだったけど? 戦士ってそんなに弱い人達の集まりの事だったんだ」


 ウィルソンがイザベラの嘲笑に、先程まで募らせていた苛立いらだちも加算されて、つばを飛ばす程に激昂げっこうした。


「なんだと!」


 イザベラは当然、殴られるかと思った。

 ウィルソンがイザベラに手を上げた事はないわけではなかった。良くも悪くも感情的なウィルソンとお転婆娘てんばむすめと度々揶揄やゆされるイザベラは、こんな風に衝突する事が多くはなくとも少なくもない回数あった。

 ただしウィルソンも伊達だけでイザベラを女性扱いしているわけではない。彼が殴る時に拳骨を作らず必ず平手打ちにする事、その平手打ちも彼の本気には程遠い威力である事、そしてその後に必ず謝ってくれる事をイザベラは知っていた。


 だからイザベラも覚悟は出来ていた。煽ったのは自分だ、殴られるだけの事はした、と。まさにウィルソンが手を振りかざそうとした時に、ジョセフがイザベラとウィルソンの間に割って飛び込んできた。


「まぁまぁ、落ち着きなよビリー」

「どけよ、ジョー」

「だから落ち着こうって。女性相手に剣を振る戦士はいない。そうだろ?」


 ジョセフの一言はウィルソンを説得するに足りるものだったらしい。腹の底でうねっている怒りを全て吐き出すかのように、ウィルソンは長く長く息を吐いた。

 ウィルソンが落ち着いたのを確認してから、とても柔らかな声色でジョセフは話し始めた。


「ねえ、ビリー。ベラの言うことは正しいよ」

「あら、ジョー。あなたもそう思ってたの? そうは見えなかったけど」


 自分は楽しんでたくせに卑怯者、と内心呟きながらイザベラはとげとげしい口調でジョセフにそう言った。しかし、ウィルソンとは違ってジョセフは、それを苦々しい笑みをちょこんと浮かべただけですぐに受け流してしまった。


「そりゃ僕達は子どもさ。実際に戦う術を教わったことなんて一度もない。それなのにこうして模擬戦を行ったところで、得られるものなんてたかが知れてる。それに僕とビリーじゃ体格差がある。それをくつがえせる技術があるならまだ訓練になりそうだけど、僕は素人だから無理。ベラの言っている事は正しいよ」


 イザベラはこの男子が、自分が思っていたよりもずっと賢い事に驚いた。現状を正しく認識していて、更に客観的に見ていたイザベラよりももっと深い所まで理解している。

 口が達者というわけではない。ただ言葉を並べたような、舌足らずな説明であった。その語りには訴えかけるようなものもない。

 それにも関わらず、イザベラとウィルソンの二人は何も言い返せなかった。ただの幼い子どもに見えていたはずのジョセフが、なんだかいきなり大人びて見えた。


 ジョセフはどうしてもイザベラやウィルソン、そして街の人達に対して遠慮がちになり気おくれしている所がジョセフにはあった。それは彼の精神的な弱さもあれば、彼が五歳まで別の場所で育っていて、ここにきてまだ日が浅いという事もあった。

 勝気で同世代の男の子と比べても体躯が優れているウィルソンがいつも隣にいたので、同じ男の子としてどうしても二人は比較されがちだ。ウィルソンは時折、何も考えていないのではないかと思うくらいの蛮勇を振るう。そのせいでジョセフは、彼を良く知っているイザベラから見ても本来彼が持っている以上に臆病に見える時がある。

 実際に三人が何かしようとする時、方針を決めるのはウィルソンかイザベラのどちらかだ。ジョセフはそれに意見するだけで自分の意志を押し通そうとすることはほとんどなかった。だから今回の喋り方も、自分の意志を通そうというよりは二人の意志を変えようといったような雰囲気が言葉の端々から聞いて取れた。


「……最初から分かっていたならそう言えばいいのに」


 臆病な雀が賢いふくろうに変化したような驚きを隠しながら、イザベラは少し空いた間を埋めるように殆ど考える事なく、そう口に出した。


「ビリーが納得しないさ。でも一度やれば感じる。自分達は剣の振り方もろくに知らないってね」

「そんなことはないさ」

「強がるなよ、ビリー。君が本気で剣術を知っていたとすれば、僕なんかがまともに打ち合えるはずがないんだから。だって君の体格は僕より一回りも大きいんだよ。僕の腕は君の腕と比べるとまるで大根と胡瓜きゅうりくらい太さが違う」

「ジョー、そんなに自分を卑下するなよ」


 流石にそこまで言われたら庇わなければならない、とウィルソンが言うも、ジョセフは首を横に振る。


「でもベルとだって背丈は全然変わらないし」


 二人が隣に並ぶとジョセフの頭はイザベラの頭と同じ高さにある。ウィルソンはそれらよりも頭一つ分も大きい。イザベラはそうやって落ち込んだ素振りを見せるジョセフの背中を強く押した。


「そんな事はないわ。ほら、背丈は同じだけど、私が押してもあなたは全然よろめかないじゃない。体はちゃんと男の子なんだから」

「ありがとう。イザベラの力くらいなら、なんとか大丈夫かな」

「やっぱりイザベラには戦闘は無理だな。ジョセフも押し倒せないんだから」


 ウィルソンが笑ってそう言う。その瞬間、イザベラははっとなって驚いた。言葉には出さず口だけ動かす。しまった、と。


 イザベラはジョセフを見る。もしかしたらこの見た目よりも知的な少年は、自分を卑下していればウィルソンだけでなくイザベラが庇ってくれることを見越していて、そしてイザベラが女である事を認めさせようとしたのかもしれないと思ったからだ。

 ここでそれは違うとイザベラが否定をすればジョセフがわざと会話を誘導したのであろうとなかろうと、彼はまた自分を貶し始めるに違いない。そうなればあの『戦闘訓練』にイザベラも加わるどころか、それをやろうなんて空気にすらならないだろう。肯定すればやはりイザベラは女だからといって加われない。


 どちらに転んでも、イザベラは諦めなければならない。


「……」


 イザベラは小さく口を閉じることが出来なかった。そしてその隙間から何か言葉を発する事も。

 そんなイザベラにジョセフが、ウィルソンに見えないようにしながら優雅に微笑みかけた後、ちょろっと小さな舌を出した。それにイザベラは強い衝撃を受けて、それから彼を睨んだ。それを見ても、やはり彼はちょっと反省しているような顔をして、すぐに元の表情に戻るのだった。


「もういい」


 溜め息を吐いて、イザベラは脱力しながらそう言った。


「それで、まだ続けるの?」

「訓練はもういいんじゃないかな。イザベラが退屈で死んでしまうらしいから」


 今思いついたかのようにウィルソンにそう言うジョセフ。


「そうだな」


 そう言ってウィルソンは木の枝を放り投げた。それは木椅子に当たって地面に落ちた。

 秘密基地は物であふれている。多くは街の廃品を再利用という形で持ってきたものだが、中には自分達の家から持ってきたものもある。

 それらで歩くことのできる場所をいくらか狭くした所でこの場所は広かった。少なくとも子ども達にとっては。


「それで、なにをする。輪回しか? それとも外で追いかけっこか? 目隠しも加えるか?」


 とてもじゃないが運動をして遊ぶ気力はイザベラにはなかった。いや、気力ならあったかもしれない。しかし、その気力はもっぱら、蜂蜜みたいな陰湿さを伴ってとある対象に向けられるだろう。

 意地悪したら気が張れる。けどやったら負けな気がする。


「市場に行きましょ」


 イザベラは鬱屈うっくつとした気分を晴らしたいように、明るい調子で提案した。


「お金なんて持ってるのか?」

「見るだけでも楽しいわ」

「でも、お祭りはもう終わったよ。外から来た商人達も帰っちゃったし」

「そうそう。親父ももう店を平時状態にしたしな。いやー、鹿の解体大会はすごかったな。親父より早い人がいるとは思わなかった」


 ウィルソンが楽しかった想い出を語るように言うと、二人が少し楽しそうに笑った。


「あの鹿肉は美味しかったね。一番の想い出だよ」

「あら、私は猪汁も美味しかったけど」

「すごかったよな。なんでも揃うんじゃないかってくらいなんでもあった」

「人生で一番のお祭りだったよ。他でもこれと同じ規模のものはなかなか出会えない」

「正門もずっと開きっぱなしだったし、夜も広場が人でいっぱいだったわ」


 子ども達はそれぞれ口を開いてはつい先日の事を語る。その瞳は先程よりも爛々と輝いていた。そして興奮は彼らから時間というものをすっかりと忘れさせてしまっていたのだった。

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