第2次元 巨蟹学園は高気圧、来栖ミカは低血圧

第9話 巨蟹学園大学天文台



 新宇宙を闇から守るため、

 来栖ミカのかけがえのない親友・鮎川那月が選択したこと

 それは堕天使の誕生に他ならない




巨蟹学園大学天文台


 メタセコイヤ並木と、那月の長い人影が地面に伸びている。鮎川(アユカワ)那月(ナツキ)は放課後、巨蟹学園高校から大学へと通じるメタセコイヤ並木を歩いてゆく。来栖ミカは那月の後ろ姿を追いかけていった。

 巨蟹学園高校は、世田谷区に隣接する巨蟹市の中心に位置し、広大な敷地を有する巨蟹学園大学に隣接する男女共学の付属高校である。巨蟹学園は幼稚園から大学院までがあり、大学は理工学部で、多くの研究所があった。巨蟹学園自体も理系に力を入れている。巨蟹市は、巨蟹学園大学を中心とした学園都市である。高校自体も近代的な建物が建ち並んでいた。鮎川那月はいつも放課後、大学に通っていた。

 今日という日がこのまま終わってはいけない。ミカはこのまま一生後悔したくなかった。那月に会う為に、謝るために今朝、体調が悪かったのに学校来たんだから。胸のドキドキは極限にまで達していた。意を決してミカはメタセコイヤ並木を走って追い付き、声を掛けた。

「那月!」

 ミカの声で振り返った那月の顔は、夕日を浴びてオレンジ色に染まっている。色白で、眼の下にくまがあって、少し悲しげで、なんとなくいつも微笑んでいる。病的なのに、白くて何か色っぽい感じがする。

 ミカは那月の表情が予想していたのとは違った。ほっとしながらも、しかし二の句が告げず、何を言おうかと必死に考える。沈黙の中、ヒグラシの声があっちこっちから響いて二人を包んでいく。


 朝の事。来栖ミカは起き上がるまでに三十分以上も、ベッドの中で目がグルグル回っていた。いつも以上に低血圧が酷い。

 真っ赤な自転車に乗って巨蟹学園高校へと登校する時、頭の中で鮎川那月との幾つもの再会のパターンをシュミレーションして心に描いた。

 那月とけんかしたのはつい昨夜のことだ。せっかく心配して新宿まで追いかけてきた那月に、ミカは冷たい事を言って追い返した。那月にもうすぐ会える。那月は学校に来ているだろうか? かけがえのない那月。ミカのために、たった一人、駆けつけてくれた那月。那月に会う為に、今日は休むわけにはいかない。新しい気持ちで、那月とうまくやるんだ、うまくやるんだ。

 どんなに那月との理想的な再会シーンを描いて、高校へ向かったか。

 自転車で下る坂道から見える巨蟹市の街並は、もう丸一年間も街を離れていたような奇妙な懐かしさをミカに覚えさせる。いつもと変わらない風景に違いなのに、全てが何もかもかけがえがなく愛おしい。自転車が風で揺れる街路樹の青い葉の下をくぐる瞬間、登校する小学生の集団の中をすり抜ける瞬間、ミカには今朝の巨蟹市のあらゆるものの分子が、キラキラと光輝いているのが見えていた。ぼうっとしていると遅刻しそうになる。ミカはペダルを踏み込んだ。

 ドカン、ドカンと工事の大音響が街全体に鳴り響く。駅前で行われている大規模な再開発工事の音。その脇を猛スピードで通りすぎると、大型工作機械が我が物顔で幾つも動き回っているのが垣間見える。ミカは駅前でこんな大規模な再開発工事が行われていたことに驚かされる。ただ単に忘れていただけなのか、今まで気が着かなかったのか、どちらにせよ、ミカの記憶には全くなかったような気がするからだ。まるで浦島太郎になった気分だったが、遅刻しないようにと自転車をぶっ飛ばす。

 ミカははりきって、ドキドキして近づいてきた校舎を見る。さぁ、どうしよう……。だが、ミカが悩んでいるうちに自転車は巨蟹学園高校に到着した。

 高校で、那月に会えるだけではない。人生をやり直そうというほどの覚悟で登校したのだ。

 昨夜、あれ程嫌いで、憎んですらいた巨蟹学園に、来栖ミカは戻ってきた。登校するミカはまるで最前線に向かう兵士のようだった。自分を迎え討つのは軽蔑か、それとも好奇の目か。

ミカは自転車置き場から校舎に入ると、いきおいよく階段を駆け上がり、三階の教室のドアを開けたらガタンと音がして驚く。

 目の前にちょうど教室を出ようとした原田亮の顔が、ミカを見下ろしていた。その瞬間までミカは亮という存在を忘れていた。

(え? 亮、なんでここにいるの)

(なんでって、巨蟹学園の生徒だからだ)

(うちの学校だったっけ?)

(君だってそうだろ?)

(やだ、あたしと同じ?! 学年は、クラスは?)

(だから2年A組)

(まじで、って事は全く同じクラスじゃん!)

(そうだよ)

(ってどういう事? つまり、あたしたち、学校でこれから同級生として会えるって事?!)

 瞬間的に、心の中で亮と会話する。だが、実際にはミカは一言も発してはいない。亮は、チラッとミカを見たが、何事もないように廊下へ出ていった。単なる妄想の中の会話。話ができればいいなぁと、もやもやしながら席に着く。

 それにしても変な事を思ったもんだ。何で原田亮のことをこの学校の生徒じゃないと思ったのだろう。自分で不思議だ。彼の事を意識しているからか。奇妙な感覚は朝から他にもあったが、目の前の那月の後姿を見て吹っ飛んだ。

 斜前の席の那月は、やぼったい丸い眼鏡を掛けて教科書に眼を落としている。ミカが教室に入ってきてからずっと振り返らない。ミカは那月の背中を見ているしかなかった。ミカは完全にタイミングを失した。

 どぉしよう……このまま、那月と一生話す事ができなくなってしまったら。いやだ、そんなの。でもどうやって仲直りすればいいのか分からない。授業中、ミカはノートにうさぎの絵ばっかり描いていた。

 体育の陸上の授業は、四百メートル走だった。ミカはスローペースで前を走っていく那月を後ろから追った。ミカは本気で走ればいつも一番だった。那月だって、決して運動神経が劣っている訳ではない。ミカが知る限り、少なくとも人並みか、それ以上はあるはずだ。ミカより背が少し高く、手足も長い。ミカは那月の足が遅い理由を、知っている。「胸が揺れると恥ずかしいから」だ。那月は胸が大きい。本人はデブだと思っているが、決してそうではない。ミカには完全にうらやましい話だが、那月には自分の胸がコンプレックスでいつも前屈みの姿勢を保っている。

 休み時間にミカは校内を歩き回った。学校はいつもと変わらない。だが何か知らないが奇妙な感覚が終始付きまとった。見なれた景色の中の違和感の正体を、ミカは見極めようとしたが、答えは出ない。

 廊下で向こうから他クラスの少女が歩いてきて、ミカをじっと見ると、無言で会釈してきた。少女は、五人くらいの取り巻きを連れている。ミカには記憶がなかった。ショートヘアでミカと同じ百六十二センチくらいの身長。名前は知らないが、美少女で少し白人とのハーフのような印象を受ける。知らない子なのに、なぜミカに挨拶してきたのかは分からない。

 結局午前中、ミカは那月に声を掛ける事ができなかった。ミカの焦りは募った。このまま一生、那月と話せなくなったらどうしよう。そう考えるとミカは切なくて胸が苦しい。嫌だ、そんなの!

 一方原田亮は後ろの方に座っている。ミカは亮を意識したが、亮の顔を一度も見る事ができず、話す事もできない。こちらは那月とは理由が違う。両方とも、今のところどうやったらこの窮地を脱する事ができるのか分からない。

 普段は那月と一緒に食べていた昼休みも、結局独りで食べるしかない。呆気無く、その日は終わった。那月は学校を出ていった。ミカはゆっくりと後を追った。

 那月はいつものように大学の研究所へ向かって巨蟹学園のキャンパスを歩いていく。ミカは速度を速めて那月に追い付いた。


「昨日はごめん。あたしの言った事、忘れてくれると、嬉しいんだけど……那月は助けに来てくれたのにさ。ありがとぅ。昨日は思い込んでてあたしも酷い事言っちゃって。ホントにごめん! あの、よかったら、まだあたしと話してくれるかな」

 自分でも恥ずかしくなるくらいたどたどしい言い方で那月に言った。

 那月はミカの正面に向き合って口を開いた。

「今朝、ミカちゃんが学校に来て、ほっとした。私はミカちゃんがあんな事で負けるはずないって思ってたんだ。でも黙ってるからこっちから話しかけられなくてごめん。やっぱり、ミカちゃんは強い人なんだね」

 那月に母性さえ感じる。-------よかった。まだミカは友達を失っていなかった。そして、今日学校に来て、本当によかったと思った。

 ミカは笑った。

「ほんとは、全然強くないんだけど、でもありがとう」

「ううん、ミカちゃん。ミカちゃんは強いよ。だから、死んじゃ駄目だよ。絶対に、自分だけは否定しちゃだめだよ。自分が強いって事、認めなくちゃだめだよ?」

 ミカは念押しする那月の言葉に笑顔で頷いた。自分を励ましてくれる人こそ、真の友人。ミカはホッとしていた。よかった。生きていて。世界を取り戻すことができて。だから、生きる意味もある。

「心配かけさせてごめんね。ほんとにどうかしてた」

 ミカは那月の前で両手を合わせて謝った。自殺するつもりなんかじゃなかったけど、あのシチュエーションでは那月にはどう見てもミカが屋上から飛び下りようとしているようにしか見えなかっただろう。それに、ミカがヤケを起こしていたのは事実だ。

「ねぇ、髪の毛染めたんだ? 昨日やったの?」

「あ……うん。似合う?」

 ミカは今朝、鏡の前に立って気が着いた。自分の髪の毛がいつの間にか栗色に変わっているのだった。髪を染めた訳でもないのに。自分の心境が変わったから、ミカの外見も変わったのかもしれない。ってそんなバカな。今日は一日、いろいろ違和感を覚えることがあったような気がする。だけど、そんな中で、ただ一つ自分自身についてはっきり変わったと言える事が、自分の髪の毛の色だ。もしかすると、自殺を思いとどまったことが、一度死んで「生まれ変わった」……そういうことなのかもしれない。

「凄く似合ってるよ。初めてだよね? 髪の毛染めたの。スーパー似合うね。------変わったね。ミカちゃんは黒髪に凄く誇り持ってたのに。それが一途で、傍から見ていてちょっと頑固なくらいだった。だから今日見て驚いちゃった。凄いいい感じだよ」

 ミカは照れ笑いをした。

「それで、あの後、結局どうしたの------」

「うん、屋上で摩天楼の間の満月を一晩中見てた。月が赤くてでっかかったでしょ。で、朝帰り」

「もう大丈夫なの? 沢木先生の事」

「えっ」

「とぼけないでよ。ミカちゃん、音楽の授業だけじゃなくて、放課後も沢木先生のとこ行って歌ってたじゃん。よっぽど好きだったからでしょ。あたし心配だったんだから」

 ミカはちょっと考え込んだ。ミカの記憶では、那月ともっと深刻に喧嘩したはずだった。だけど、今の那月を見るとそんな雰囲気ではない。どうも今朝から記憶があいまいになっている。いや、那月との喧嘩のことだけじゃなく、自分とサワキ……? 先生との関係は、もっと学校全体を巻き込んだ大事だった、ような気が……。いや、そんなはずないか。どうして普通の学校で普通の音楽教師なんかが学校をあげての一大事になるのか。何段階もスケールが小さいような気がしたのは、おそらく気のせいだ。

「あぁ、アイツ? アイツの事なら一晩で忘れちゃったわ。あんな男を追い掛けてたなんて、あたし本当にバカみたいだね。あんたの言う通りだった! アハハハ」

「なんだか本当に忘れたみたいな顔だね。昨日と全然違う。たった一晩で、なんでそんなに短い間に変わったの」

「あの後、一晩中寝ないで考えたの。眠れなかったしネ……。で、結論したワ。那月の言う通り、あれは本当の恋なんかじゃなかったんだって」

「そんなことあたし言ったっけ?」

「え? 言ったじゃん」

「そこまで言わないよ。北海道に転勤する先生に、ミカちゃん、結婚できないなら死ぬとか言い出すから、まだ高校生だし、せめて卒業するまで結婚なんて考えなくてもいいんじゃないって言っただけ。ま、そのうち冷めるんじゃないかとは正直思ってたけど……今日の感じじゃもう冷めたっぽいね。あたし、今だから言うけど、あの先生軽薄そうであんま好きじゃなかった」

 ミカはたった一晩ですっかり、教師への恋慕など忘れたというのは本当だ。そして今、代わりに原田亮のことが気になって仕方がない。亮のことを考えると、ミカは人を本当に好きになったという感覚が初めてはっきり分かったような気がするのだ。もう、原田亮という存在に比べたら、沢木などどうでもよいと言うに等しい。それより早く、亮とも話してみたい。

「アイドルは? 諦めてないよね」

「もちろんだよ。目指してるよ?」

「じゃあ今度また一緒にカラオケ行こうね! あたし、ミカちゃんの歌聴くの好きだし。もっと皆に聴かせたい。凄いうまいよね」

 ミカは微笑んだ。那月と、あの時の会話のつじつまが合ってない気がするのはぬぐいされないが、仲直りができた今、それは些細なことだった。

「私が、ミカちゃんの応援団長になっていい? 私ずっと応援するよ! ずっとずっと、応援するんだから! 私が、ミカちゃんの世界一の応援団だよ! 今度さ、街でスカウトされたら、絶対乗った方がいいよ」

 今度って、スカウトされたことあったっけ?

「うん。あたしだって那月が天文の科学者になるの、応援してるから」

「ありがとう」

「これから大学なんでしょ? あたしも、一緒に行っていい-----」

「ほんと?」

「本当だよ。あたしも大学の天文台に行ってみたい」

「珍しいな! ミカちゃんから大学に行くっていうなんて。いっつも誘っても来なかったのに。ま、ミカちゃん一人カラオケに行っちゃうからなんだけど!」

「ご、ごめんね、ずっとあたし、歌の練習してたから……。那月にはよく、あたしにつき合ってもらったのにね」

「やっと……やっと来てくれるんだね」

「う、うん……。あたしの都合ばっかしつき合わせちゃって、ごめんね」

 あやまってばっかりだった。

「そんなの別にいいよ」

 那月は、放課後、毎日高校に隣接する巨蟹大学の天文台に通っている。那月は将来大学に進学した後、天文の研究者になる事が夢だった。那月は高校の天文部の部長にして唯一の部員だった。ミカと那月が入学した頃、天文部は三年生だけだった。そして入部時、数人居た新入生は那月しか残らなかった。上級生が卒業すると、天文部は那月一人だけになった。それでも那月は大学に気に入られていた。天文台に一人で自由に出入りできるのは、現在、高校生では那月だけだった。

「--------でも、いつも那月が何してるのか、ずっと知りたいと思ってたんだよ」

「無理してない?」

「そんな事ないってば! さぁ早く行こ行こ」

 ミカはこれまで放課後、沢木先生の前で歌い、その後一人でカラオケに籠って歌った。ほぼ毎日唱っていた。時々、練習に那月につき合ってもらいながら。でもその反対に、ミカが那月につき合って大学に行く事はなかった。ミカが那月に一方的に甘えていたんだと反省した。


 ミカは大学のキャンパスには高校の隣にも関わらず、入学時に一度中に来たきりだった。ミカは、巨蟹大学の付属高校に入学したのに、歌手になる事しか頭になく、卒業後、特に進学の事は考えた事がない。巨蟹大学に行きたくて入学した訳ではなかったので、大学にはほとんど行っていない。当初、那月と同じ高校を受験しただけだった。大学は近くて、いつでも行ける、と思うけれど今までなかなかいくチャンスがなかった。久しぶりにキャンパスを眺めるが、ほとんど始めて来た感覚に近い。

 大学の並木の先に、薔薇園があることに気づいた。大学構内にこんな場所があったなんてミカは気付かなかった。薔薇はほぼ満開に咲いている。薔薇園はかなり広く、その奥がどこまで続いているのか、入口からは見えない。空が夕日に染まって、薔薇も赤々と咲き乱れている。薔薇園を見ていると、世界全体が赤に染まったようだった。

「こっちへ来て」

 那月は、ミカの手を引っ張って歩いていく。那月はしゃがみ込んで、薔薇を覗き込む。

 真っ赤な薔薇の群れの中に、一輪だけ青い薔薇が咲いている。薔薇園の中に、たった一輪、青い薔薇が咲いているのを那月は見つけたらしい。

「凄い。何これ、青いじゃん。こんな真っ青な薔薇なんて私初めて見た」

 眼を丸くしてミカはその青い薔薇を眺める。まさに真っ青。青味がかった紫ではない。また、薄い青色でもなかった。原色の絵の具のように青い薔薇が、赤い薔薇に隠れるようにして咲いていた。

「綺麗でしょ? こんなものがこの世に存在するんだよ。信じられる? この世でいっちばん綺麗なものだよ。きっとこの世でここにしかないものかもしれない。ここにある事も、学校中で、あたししか知らない気がする。昨日、あたしがここにひっそり咲いてるのを見つけたんだよ。ミカちゃんに、見せたかったんだ」

「綺麗だよ! 私、生まれて始めて見た」

 二人は青い薔薇と一緒に、写メールを撮った。

空は次第に青が濃くなっていく。赤い夕焼けと背後から迫る青が半々だった。赤い夕日の近くは、黄色っぽく、周囲は赤い。黄色い空の色に、ピンクの雲がたなびいている。ミカは感動して言った。

「あたし今日の事絶対忘れないよ、那月!」

「うん」


 空がすっかり藍色に変わった頃、那月の案内で、ミカは学校の中央に輝いている巨大なアメジストのドームに辿り着いた。紫色に発光する巨大なドームは圧倒的な存在感だった。思った以上の巨大さであっけにとられる。まるでどっかのモスクだ。以前、大学に行った時は昼間だったから、夜になるとこんな色で輝いていると思わなかったような気がする。だから、那月に連れてこられるまで、これ程存在感がある事に気が着かなかった。巨大ドームは紫の宝石のように輝いている。見上げているうちに、何か別なものとの既視感を覚える。

 ミカは大きな目をぱちくりさせながら、那月の案内で中に入っていく。那月は、セキュリティカードを持っていた。これほどの研究所で、那月が自由に出入りが許されていることに、改めて驚く。研究室の中は、誰も居なかった。施設と機械は自動で動いている気配を感じる。そこで那月は誰の立ち会いもなくコンピュータを操作しているので、ミカは驚く。

「こんなところに一人で出入りしてるの? まじで凄……」

「最初は何人か居たんだけど、なぜかみんなやめちゃって……」

 天文台の中には、巨大な大砲のような形をした藍色の望遠鏡があった。数十メートルあるだろう。まるで大砲の化け物である。世界一と言われても頷ける。その横に異様なショートケーキの形をした物体が立っている。紫の巨大ショートケーキは外部のドームと同じアメジスト色に発光していた。

「何これ?」

 あまりに想像が着かない内部の光景に、ミカは呆気に取られて那月に聞いた。

「天文台を統括するスーパーコンピュータだよ。見えないと思うけど。ヱルアメジストっていうの。すっごい大きいでしょ?」

 こんな奇妙な物体がコンピュータだなどというのは、見たことも聞いたこともない。……ヱルアメジスト?

ミカの身体に向かって、コンピュータから名状しがたいエネルギーが発せられ流れ込んでくる感覚があった。このコンピュータは、オーラを有している。まるで生き物のように。こんなものが大学にあったのか。建物の概観の宝石状のドームといい、どうしてもどこかで見たような気がする。

「前から疑問だったんだけど、こんな都会の中で星が観察できるのかな? ここの天文台って」

「いいところに気づいたね。それが巨蟹学園大学の天文台の特徴なの、この天文台の望遠鏡と解析するコンピュータは、通常の可視光とか知られている波長のレベル以上まで捉えて観測しているんだよ」

 ミカは「へぇ」としか言えなかったが、そんな技術がいつの間に開発されたんだろうか。

「あたしもね、昨日、家に帰らなかったんだ。とても、帰る気分じゃなくて。それにあの夜、月が赤かったでしょ。あの後大学に行って、ずっと、赤い満月の写真撮ってた。あたしも結局朝帰りしたんだ。でその時、青い薔薇を見つけたの」

 天文台は一日中稼動していて、研究室の機械は二十四時間動いていた。夜間観測する天文台の性質上、当然なのだが、那月は真夜中でも出入りできるらしい。那月は、赤い月だった昨日の夜、ここへ来て、月の写真を撮った。

 ミカは時々、歌の特訓のためにカラオケで一夜を明かす放蕩娘だったから、新宿で一日過ごして夜帰宅しても、特別両親に驚かれない。両親はミカが本気で歌手になる夢を持っている事を知っているので、ごまかしがきく。けれど那月の家は良家なので、ミカには那月が天文部とはいえ研究室で一夜を過ごしたことが意外だった。いつもは門限を守って帰宅しているはずだった。しかし、那月が天文台に外泊した原因を作ったのは自分なのだから、申しわけないという想いがある。

「昨日の月は、空気中に温かい湿った空気が漂っていたせいで、光が屈折して大きく見えていたんだよ。赤かったのは夕焼けみたいに、光が水蒸気に当って、赤以外の波長の短い波がカットされるから」

 さすが那月。こんな会話を昨日、魔天楼で月を見上げてしたかった。

「地震の前に地面から水蒸気が出るのよ。それで月が赤くて大きく-------前兆現象だったのよね。昨日、結構大きな地震があったでしょ」

「地震? あ、うん------」

 たった今まで忘れていたが、大地震があった。

「震度四だっけ------」

 那月はつぶやいた。

「そんなもんじゃないでしょ」

「え? もっと大きかったかな? でも発表では震度四だよ。ネットで確認したし。ミカちゃんが屋上だったからかな」

「-----------」

 どうやら那月が体験したのは、小規模な地震らしかった。那月の居た時空でも地震があったようだが、ミカの記憶では、ビルが崩れることもあったような、大地震だったはずだ。

「今は大学の研究のお休み期間中で、自由に使えるの。だから勝手に出入りして、夜遅くなることもよくあるのよ。でも朝までいたのは昨日が始めてだよ」

「ふぅん、眠くないの?」

「今は全然平気。昼間はちょっと眠かったけどね。昨日の夜、ずっと月を見てた。そしたらね、これを見て。月面の写真の中に、たまたま一枚、面白いものが映れたんだ!」

 那月はモニターに映像を映した。クレーターが並んだ月面上に何かが映っていた。黒い細長い物体が月面に陰を落としている。

「えっ、UFO?」

 那月は画像をプリントアウトしてミカに渡した。ミカは小指を立てて画像のプリントを持って見入る。ミカは気が付いた。しばらく見ていると嫌な気分になる。突如画面の中に吸い込まれるような感覚に陥った。引っ張り込まれるめまいを覚え、視線をそらす。

 だがミカは写真を何度か見て、ゾッとした。

 ただのUFOや謎の物体ではない。ミカはそれを確かに見たことがあった。そして記憶が洪水のように、一気によみがえってきたのだ。

 ミカは原田亮とキスしたことを思い出した。あの柔らかい感触、激しく、切ない感情。ミカと亮のキスは、破滅した世界を再生させる宇宙創世のエネルギーを生み出した。あの出来事は、本当にあった事だ。この宇宙はやり直しの宇宙だった。宇宙は一度崩壊し、新しく生まれ変わった。それは決して夢ではない。だがなぜか、すべてを忘却していた。しかしキスの感覚だけはどこかに残っていたらしい。今日、いきなり同じクラスで亮と再会した時、気持ちの整理ができていないままだったので、自分の感情に振り回され、ミカはにっちもさっちもいかずに、ただ狼狽するだけだった。その時はなぜか、記憶が戻らずに――。

 二つの平行宇宙が混ざりあい、結婚して、新しい世界が出来上がった。以前は分け隔てられた二つの平行世界に別々に存在していた来栖ミカと原田亮は今、同じ世界に居る。クラスメートたちを観察すると、亮がこのクラスの一員である事に他の生徒は違和感がないらしく、平素の日常性が漂っている。誰も不審がってはいない。亮は新しい世界で、以前からこのクラスの生徒なのだ。もともとは同じ巨蟹学園高校の二年A組だったとしても、亮は平行宇宙の異東京で、ミカとは別の世界の住人だった。しかし二つの世界が一つとなった今、二人は同級生となったのだ。

 それだけではない。校内の雰囲気がどうにも奇妙だった。誰も、自分に注目しない。ここでは、来栖ミカは学校の有名人でもヱースでもないらしい。新しい世界で、自分は、ただの一生徒に過ぎないのかもしれない。

 そしてミカはだんだん気づいてきた。自分がいた学校は、巨蟹学園などではない。「多摩音大付属高校」だ。あんなに新しい校舎ではない、木造の部分が残っていたはずだ。制服も違う、紺だったはずだ。今は茶色のブレザーに、茶のチェックが入ったピンクがかったスカート。胸にはカニがハサミを振り上げたエンブレムが着いている。自分が居た市も、巨蟹市ではない。巨蟹市なんて聞いたこともない! 神奈川県の多摩区だったはず。そしてこの巨蟹学園高校という学校には、音楽科が存在していない。ただの普通科の高校らしい。巨蟹学園大学も、理工学部に力を入れた学校だ。それが、ミカが望んだことだったからかもしれない。ミカは今、音楽関係で有名高校の声楽科のエースなどではなかった。誰も来栖ミカを特別扱いしないし、羨みもしなければやっかみもしない。今日校内を見た様子では、あの恫喝してきた理事や、大人の都合だらけ先生たちや、ムカつく生徒さえも存在していない。そして、好きだった教師の名は沢木じゃない、黒木だ! 来栖ミカは、ただアイドルにあこがれ、一人カラオケしている一生徒に過ぎない。ミカは、ほっとすると同時に拍子ぬけしていた。これらは、ミカにとってこの世界が、都合よく作られていた証拠なのだ。

 しかしその事を、目の前の那月も、他の誰も知らないのである。原田亮はどうか?

 写真に写っていたUFOは、あの異東京で見たディモンの船に酷似していた。いや、確かにあの黒い船に間違いない。この時、写真をじっと眺めるミカの顔には、きっと「衝撃」と書いてあっただろう。那月はミカの反応をどう感じたか。だがまさしくあの時、世界が終わる瞬間に亮と一緒に目撃したディモン兵器の黒い船に相違ない。その写真を見ていると、ミカはゾワゾワと寒気がしてくる。人類の敵、帝国の船。一体どうして新生したはずの世界で、ディモンの船が映っているんだろうか。不可解だった。この世界は、ミカと亮が生み出し、ダークフィールドが払拭されるように作り直された、新しい世界のはずだ。破滅をもたらす帝国の黒い影など、微塵も感じなくていいはずだった。いやもしかするとこの写真は、新しい世界で、すでに再び人類の敵ディモンの侵略が始まっている証拠を示しているのかもしれない。だとしたら、世界は再び--------。ミカは悪寒が止まらなくなっていた。一体、どうすればいいのか、頭の中を思考が駆け巡っているが、さっぱりわからなかった。

「そう、UFOの証拠写真だよ! 世紀の大発見! このクレーターの大きさからいって、二キロメートルはあるんじゃないかな。おそらくマザーシップだよ。写真に撮った瞬間だけ映ってたの。モニターで監視している時は全く映ってなくて。この時だけよ。多分、撮った後あっという間に月の裏側かどこかに移動していなくなったんじゃないかと思う。こんなに鮮明にUFOのマザーシップが映るなんて前代未聞。凄いでしょう? 私、誰にも言うつもりはないんだ。私とミカちゃんの秘密にしよう。世界で知っているのは、私とミカちゃんだけだよ」

 那月はいつもと違ってずいぶん興奮していた。

「うん。そうだね。その方がいいね」

 ミカはうかない声で返事した。頭の中が、恐怖と混乱でいっぱいだったためだ。

「この写真撮れた事は、大学にも内緒にしてるんだ。だって、天文台変な事に利用されてるって思われたらやだからね。だからミカちゃんにしか教えない。所長にも教えない。どうせ所長は、アメリカかどっかに出張中で、メールが繋がらないんだけど」

 那月の話では、まだこの事に誰も気づいていないという事だった。時空研は、この事を察知しているのだろうか。早く、亮に言わなければならない。それに色々確認しないといけないことが。この巨蟹大学の天文台は、前の多摩音大にあったはずのものとは全く違う。時空研のドームに酷似していて、その中にあるコンピュータは、異東京の都庁の地下にあった決戦兵器や、時空研のヱルゴールドのようなヱルシリーズであること、そしてその点以上に問題なのは、月面に黒い船が映っている写真が撮れた事。それらは、一体何を意味しているのか。とにかく何とかしなくちゃいけない。ミカの頭の中でグルグルと考えが廻っている。

「ねェ、あたしも天文部に入っていい?」

「ほんとうに?! ミカちゃん、入ってくれるの? 嬉しい」

「うん。凄く楽しいし、設備もすごくて、ここも気に入っちゃった」

「もちろんだよ! 大歓迎です。……よかったぁ。これで天文部が二人になった」

「それでさ、約束してくれる、確かに秘密にするって。この写真、まだあたしたちの秘密にするってこと。ね?」

「もちろん、あたしもその方がいいと思ってる。それにまだまだ研究を積み重ねないと、確かに一枚くらいじゃ慎重さが足りないし。科学は積み重ねだから。おいそれと発表する気はないよ」

「今夜もまだ満月だから、写真を撮らない? 今日も映るかもしれないよ。どう?」

「しばらく、月が細くなるまでの間、写真撮ってみるよ。そしたらネットでバーンと発表しよう。もしテレビ局にでも写真が紹介されたら、ミカちゃん、テレビに映って、かわいいからディレクターにタレントとしてスカウトされちゃうかも!」

 那月は感慨深げにああのこうのと言いながら、コンピュータを操作する。ミカは那月が望遠鏡の操作をし、月面の写真を撮るのを横で見守った。月面を望遠鏡で見ている時は何もモニターに映らなかった。ところが幾つかの写真を後で見てみると、一枚の画像に黒い物体が映し出されていた。長細い黒い物体が映っており、月面に陰を落とし、所々が青白く点滅している。それは、確かに人工の物体。黒い船だった。

「凄い。今日も三コも映ってるよ! 数が増えてる。-------凄い、ほんとに凄い! 世紀の大発見だよ。学術的に意味があるよ。今までにない、歴史に残る発見だよ。相当な資料になると思う。これからもどんどん撮って研究しよう」

 那月は新しい発見に興奮し、無我夢中だった。

 ミカは見たくもなかったが、よく見なければいけないと思って、画像を凝視した。ミカは一瞬だが、それが映像ではなく、実際にそこにあるもののように感じた。ミカ自身が、宇宙空間のその船団の中に浮かんで、取り囲まれているようだった。その不安に駆られながら、ミカは取り憑かれたように見続けた。目の前で真っ白い光が爆発する。目眩がした。一瞬、映像ではなく、実際にそこに自分が居るような気がした。ミカ自身が、宇宙空間のその船団の中に浮かんで、取り囲まれていた。すぐ目を写真から引き離す。かろうじて倒れないように姿勢を保っていたが辛かった。その感覚は、しばらくの間グルグルと続き、やがて引いた。

 那月はミカの異変に気が着く事なく、UFOを研究する構想について熱っぽく語り続けている。こんなにはっきり何度も写真が撮れるなら、他の天文台やアマチュア天文家が黒い船の存在に気づいて、話題になっていてもおかしくはないはずだった。しかし二人がネットを開いて色々調べても、どこにも月面の黒い船についての話題はなかった。まだ話題になってないだけかもしれないのだが--------。ミカは想像した。この写真、那月の言う通り、通常の可視光で撮ったものではないのかもしれない。この輝く紫色の巨大ショートケーキ型コンピュータが、ヱルメタルだから撮れたのかもしれない。メタル……アメジストだから、ミネラルではあるがメタルではないので、ヱルメタルではなくヱルミネラルというのが正確だろう。だが、ヱルメタルと総称されているらしい。だとすれば、ここだけが観測できている事に説明がつく。そのヱルアメジストの性能に、那月が気づいているのかどうか知らないが、それは普通の天文台では捉えきれない電磁波の領域を、この機械だけが捉える事ができるから撮れたのだ。

 その日、UFO写真をバッグに入れて、九時に那月と一緒に大学を出た。

「那月、昨日誕生日だったよね。あんなことになって気まずかったから、今日奢ってあげる!」

「ほんと? 嬉しいな」

 那月は仲直りをミカ以上に喜んでいた。ミカと那月は二人で一人。ずっとそうだった。二人は駅前の商店街にある巨蟹バーガーに入った。二人の食べ物に対するテンションはそれ以外の時の彼女らとは違う。那月は携帯でバシバシ二人の写真を撮った。那月はメロンフロートとポテトサラダだけだったので、ミカはアップルパイ・アラモードも奢って二人で食べた。温かいアップルパイの上に冷たいアイスが乗っている。

「これおいしいね!」

 那月はなぜか大好きなハンバーガーを頼まなかった。でも甘いものは食べたので、ミカは那月の喜ぶ笑顔を見て微笑んだ。那月の笑顔自体がご馳走だと思う。

「やっぱ、うちら子供でよかった。子供っていいよねー、那月」

「うん!」

「あたしさ、ずっと背伸びしてたんだ。早く大人にならなくちゃって、焦ってた。でも子供のうちじゃないと出来ない事って今のうちだよね」

「へー凄いじゃん、一晩でそこまで考えられたなんて。ミカちゃんは他人にはなれないから。でもミカちゃんは他人にはなることのできないミカちゃんになれる。あたしも今だからできることやってみる。ミカちゃん、これからもずっとずっと二人の友情は変わらないからね!」

 緑色の液体とアイスクリームの乳白色との混ざり合ったメロンフロートの中を炭酸の泡がシュワシュワとのぼっていく。

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