第2話 秘密結社の女

 ミカは立ち上がり、柵を超え、縁まで行った。下を見降ろし、両手を水平にする。

 突然屋上が大きく揺れた。大きな地震だった。ドンピシャなタイミング。まるで、ミカのぼやきを世界が聞き届けたような、絶妙なタイミングだ。屋上の淵に立っていたミカはそんな事に感心する暇もなく、グラっと大きく揺れてバランスを失った。ミカは滑り落ちた。

「しまった!」

 縁にしがみつこうとしたがもう間に合わなかった。ミカは百五十メートル下の路上へ向けて落ちていった。長い髪の毛が視界を遮る。クルクルと世界が回転する中で、一瞬夏来の悲しげな顔が浮かんだ。

 ミカは眼をキュッと瞑った。

 ……いつまで経っても地面に着かなかった。

 ミカの身体の中から真っ赤な炎が吹き出したように感じられた。まだ意識はある。痛みはない。それが地面に激突した衝撃とは違うことに気が着いた。ミカは眼を開けた。まだ、地面に落ちていない!

 ミカは、自分の落下速度が「ゆっくり」になっている事に驚いた。身体は、空中でバランスを保って浮かんでいた。そして、「静止」している。

「何よこれ?」

 ミカの身体は、フワフワ浮いていた。気のせいや間違いではない。視界に白いものが見えたので後ろを見ると、大きな羽だった。自分の背中から白い羽が生えていた! 左右合わせておよそ二メートルくらいの大きさだった。驚いて、羽根を何度も何度も確認した。羽根は確かに存在していた。しかも、羽根を動かし、思うままに行きたい方向へと身体を操る事ができた。ミカの身体は落ちることを止め、そのままフワリフワリと摩天楼の渓谷を飛んでいった。ミカは、死ぬ事を忘れて、自分に起こった劇的な現象に身を任せた。以前からここへ来ると、一度でいいからこんな風にこの街を飛んでみたいと思った。それが図らずも現実になってしまった。

 飛べる。来栖ミカは今、飛んでいた! 羽を自分の意思でコントロールし、ビルの谷間を滑空する。むろん、こんな景色、今まで見た事がない。ミカは地上の車や人が行きする三十メートルくらい上空を飛んでいた。しかし誰も空を見上げず、ミカが飛んでいる事には気づかないらしい。

 来栖ミカは空を飛んだまま新宿駅前まで来た。駅前は摩天楼街とは違って物凄い人込みだった。地震の影響で人の動きが慌ただしい。駅の時計が見える。十一時ちょうどだった。人込みの中に、夏来が歩いているのが見えた。改装中で青いビニールに覆われている駅ビルの下を歩いていた。見ていると、ビルがいきなり崩れ出し、路に向かって倒れてきた。夏来は、他の通行人と一緒にその下敷きになった。夏来が死んだ。自分のせいだ。自分が夏来を新宿に招き寄せ、追い返した結果だ。

「夏来!」

 ミカはキンキン声で叫んだ。

 その瞬間、クラクションが大きく鳴り響いてミカは路上から上体を起こしていた。気がつくと、今まで自分の身体は路上にうつぶせになっていたらしい。そこは高層ホテルの真下の車道だった。後ろから眩しい光が近づいてくる。黒くて巨大なトラックが迫っていた。立ちあがり、走ろうとしたが避けきれなかった。瞬間、ミカの身体は浮かび上がった。

 ミカはするすると五メートル、十メートルと浮かんでいく。都庁とホテルの間を飛びあがっていく。ミカのはるか下をトラックが通り過ぎていった。ミカは再び空を飛んでいた。だけど、今度は背中に羽が生えていなかった。純粋に、念動力のような力で飛んでいる感じがする。そのまま屋上へ向かい、バッグを拾うと、再び飛び上がった。

 ミカはしばらく飛んでいたが、路上に着陸した。サラリーマンがぎょっとして振り向き、ミカを凝視している。制服のスカートがフワリとめくれてパンチラを見られてしまった。いや、そんなことじゃない。ミカが空から舞い降りて来たからだ。ミカは真っ赤になってその場を走り去った。

 今、自分に何が起こったのだろう。ミカは落ち着いて考えを整理した。地震が発生し、ビルから落ちて、ミカは空を飛んだ。駅前まで飛んでいくと、駅ビルが崩れ、夏来が潰されるのを目撃した。そこまではいいとして、(よくはないけど)で、そこで夏来の名前を呼んだら、今度は都庁真下の車道に倒れていた。

 ミカは気づいた。そうか、ひょっとしたら、最初精神だけが肉体から離れて飛んでいたのかもしれない。そう考えると一応納得できる。羽根があったことも。だって羽根なんか現実的にあるわけないじゃんか。すると肉体の方は屋上から地面に落下したはずだ。だが、それが本当なら肉体が滅茶苦茶になっていなければおかしい。だけど、身体を確認しても何ともない。制服も乱れていない。とすると、肉体の方も、落下の際に通常の重力に逆らっていたとしか思えない。結局、一体どういう事なんだろう。

 ミカは頭の整理が着かないまま、駅に向かってゆっくりと歩き始める。すれ違う人は少ない。夏来が死んでしまった。呆然としていた。ミカの心は底なし沼に沈んでいく。夏来は誕生日に死んだのだ。夏来との最後の日に、あんなケンカをした事を考えると、今さらながらなんて自分は最低なんだ、と思う。後悔してももう遅い。ミカは砕け散った思いでとぼとぼと歩き続けるしかない。

 黒木先生は単なるあこがれ? 夏来の言うとおり、自分に合った等身大の理想の相手が居たとしたら? 黒木は、ミカが見上げないと顔を見ることもできない男だ。

 ミカは初めて、本当に理想的な相手の事を思い描いてみようと思った。しばらくして思い出した。黒木先生に会う前まで、ずっとあるイメージがあったのだ。チョット顔をあげたらそこに目がある百七十センチ代で、年も同じで、うりざね顔の一見優しそうだが芯の強い少年。特にはっきりした印象で描けるのはその目。強さを宿し、優しく大人びたまなざし、声も落ち着いた静かな声。対等な気分で話したことがなかった黒木先生とは違って、時にはぶつかりながら、何でも自然に話し合える間柄。なんて、なんてステキなんだ。それが、もともとの自分の理想像だったはずだ。今の今まで、その事忘れてた。夏来に言われるまで。その妄想の彼氏が、ミカを優しく抱き抱えて、そして彼の顔が迫ってくる。ミカは歩きながら顔を少し上げて、目をうっすらつぶり、唇をツンととがらせた。

 新宿駅が近づいた。街は、ビルが崩れるほどの大地震が起きた気配はまるでなく静寂だった。

 真っ赤な満月が再び眼に入り、その瞬間、始めて異様に感じられた。今夜の月はなんであんなに赤いのか。手を伸ばして、持って帰りたいくらい美しいピジョンブラッドのルビー色の満月。夏来だったら、きっと月が赤い理由を知っているはずだった。夏来は天文部だから。夏来は放課後、付属の大学の天文台に通って、毎晩のように夜空を撮っていた。ミカは制服のポケットから赤いビーズのデコレーション携帯を取り出し、ルビー色の満月を写メールに撮った。それを鮎川夏来宛てに送っていた。死んでいると認めたくないという感情が、そうさせていた。

 ミカは携帯の時計を見て、奇妙な感覚を覚えた。十時五十五分。おかしい。飛んでいた時見えた駅の時計は十一時ちょうど。それなら、今から五分後だ!

 もしかすると、駅前のビルが崩れたのはちょっと先の未来の出来事なのかもしれない。いや、そうだ。ソーに違いない! 飛んで無事だったのは確かだ。落下の時、ミカの魂が抜け出して飛んでいった時、ミカにはなぜかこれから起こる事が見えたんだ。ミカはそう勝手に解釈した。さっきの地震で、これからビルが崩れるんだ。どうしてミカに未来が見えたのか、何か起こっているのか、そんな事は分からない。しかし、そうに違いない。ビルから落ちた瞬間から、自分に何かが起こり始めている。何か、重大な変化が。もう、自分が自分じゃないような感覚だった。ミカは夏来に一応電話した。電話に出ない。ケンカした直後だ、当然だろう。ミカは携帯を仕舞って走り出した。走れば今ならまだ間に合う! 今行くから。死なないで、夏来。

 夏来は唯一のかけがえのない友達だ。他の子とはクラスが変われば、学校が変わればそれっきりかもしれない。でも夏来は違う。幼稚園の頃から、ずっと昔から友達だったし、それはきっとこれからも変わらない。夏来とは、一生付き合える。快活な自分と、文学少女の夏来。対照的な二人だから、お互いに惹き付けられるものを持っているのだ。夏来が居なかったら……。そんな事絶対認められない! ミカは夏来に「友達じゃない」なんて、とんでもない事を言った事を後悔した。心配して助けに来てくれたのは、夏来だけだったのに。誕生日なのに、あんな酷い事言って追い返して、夏来を傷つけた。悪かった。悪かったわ。あたし、夏来に酷い事言っちゃった。あぁ、あんな事言わなきゃよかった。今、夏来に謝りたかった。誕生日に死んじゃうなんて駄目だ! 夏来に生きてて欲しい。そして、謝って早く仲直りしたかった。

 ミカは無我夢中で駅まで走った。空を飛べばもっと早いに違いない。飛ぼうと思えばさっきみたいに飛べる気がした。でも、走れば間に合うはず。それに通行人が多いし、人に見られでもしたらと思うと躊躇する。そして飛んだらスカートが心配だ。しかし、いつもよりはずっと早く走れている気がした。

「夏来!」

 ミカは建設中のビルが見えた頃から、叫んでいた。人込みが多くて夏来の姿を確認できずにいる。

「ナァツキ------? どこに居るの--------ッ?」

 夏来の後ろ姿がチラっと見えた。夏来の名を怒鳴り続けた。通行人たちはミカの怒鳴り声に振り返る。けど、夏来は気づいてくれない。

 また地震が起こった。ミカはぞっとした。さっきよりずっと大きな地震だった。ミカは頭上に圧迫感が襲った。危ない。建設途中のビルが崩れてきた。ミカはつまずき、すっころんだ。落下する建築資材の真下で、へたり込んだ。建築資材が崩れ落ちる。どんどん崩れていく。駄目だ、遅かった。自分も巻き込まれる。今度こそ、今度こそ死ぬんだ。あるいは飛んで逃げる事ができたはずだった。けど、急にどうやって飛んだかなんて思い出す事ができない。今度こそ死ぬ。

 ……おかしいぞ。何も落ちて来ない。

 ミカは恐る恐るうっすら眼を開けた。ミカは両腕を頭上に向かってまるで支えるように伸ばしていた。ミカは何度も目の前の景色を凝視した。崩れた建築資材が、ミカのかざした両手の十メートルくらい上で空中に停止している。空間に張り付いたように、大小様々な落下物が動かず凍り付いている。もしかすると、だが……。これって、自分の仕業かっっ?! 火事場の、馬鹿ぢ……いや違うし。ミカは両手を広げ、ミカが手を動かすとそれを合わせたように空中に停止した資材は動いた。自分で自分自身に驚くだけで一連の謎を解き明かす術はない。

 頭上の異変に気づいた人々は、蜘蛛の子を散らすようにビルから離れた。夏来の姿は見えなくなった。夏来は結局、ミカに気づく事なく、走る人込みの中に消えていった。よかった、夏来は死ななかったんだ。ミカは人が居なくなった事を確認すると自分は少し離れたところへ移動して、落下物を制止している意思を止めた。建築資材はあっという間に地面に落ち、ビルは瓦礫の山と化した。やっぱり自分が空中に止めていたのかもしれない。


 そんな訳ないだろそんな訳ないだろそんな訳ないだろ。


 ミカは突然、さっきの屋上で、未だに自分が座っている事に気づいてハッとした。……来栖ミカという存在は、依然、ビルの屋上で体育座りをしている。じゃあ、今起こったことは、全て妄想だったのか。だが、ちょっと待て。それにしては現実感のありすぎる恐ろしくリアルな妄想だった。しかし、ここに居る自分こそはまさに現実。だが不思議なことに、街を歩いているもう一人の来栖ミカという存在も、やはり現実味を帯びていて、未だに瓦礫を見ているという実感がありつづけている! だからミカには今、両方の自分の現実の感覚があった。まるで、二つの現実が同時に存在しているかのようだった。なんだか分からないが、それは考えて分かる感覚ではなかった。

 ミカは結局、ビル屋上に座っている来栖ミカが、街を歩く来栖ミカのことを妄想していると解釈して落ち着いた。そうしてビルの屋上に体育座りしたまま、もう一人の自分の行動を、観察することにしたのだった。


 街中に突っ立っているミカは、状況を見極めようとする。崩れた衝撃で街はパニックになった。波のように人込みが猛スピードで動く。慌ててないのは来栖ミカだけだった。いや、他にも居る。人込みの中に、一人だけこっちを向いている女が居る。赤いスーツを着た背の高い女だ。その女はミカの眼に飛び込んで来て、目を離す事ができなかった。女は確かにこっちをじっと見ている。モデルのように背が高くて、スタイルがいいショートヘアの女は、パニックと喧噪が満ちあふれる中で、静かに立っていた。女が立っている周囲が一気にスローモーションになった。そこだけ空気感が違い、まるでその女の周囲だけが異質の空間のような違和感があった。そして他の誰でもない、来栖ミカの事をじっと見ていた。ミカも、女の視線に釘付けとなり、眼を離す事ができない。やがて女は、逃げる人の流れと正反対に、ミカに向かって近づいてくる。女は、ミカにどんどん近づいてきた。

 女はミカをじっと見ながら、このめちゃくちゃな人込みの中で、全く走る人々にぶつからず、歩く歩道に乗っているようにスムーズに歩いてくる。ミカは金縛りにあったように動けなくなっている。


(お、謎の組織の登場! 問題はいい奴か。それとも、悪い奴?)

 女の登場に、屋上に座っているミカは今度はその女を見極めようとする。


 ミカと女の距離は三メートル以内まで近づいた。間近で見ると、奇妙な、希薄な存在感だった。おそらく身長は百六十八センチで高いヒールを履いている。百六十二しかないミカは、女を見上げた。年齢は二十五くらいの凛々しい美人だ。物凄く苦手なタイプだ。顔は似ていないが嫌が上にも黒木先生のフィアンセを彷彿とさせてしまう。あの真珠のネックレスの女を。ミカは不快そうに女を睨み上げた。

「もう時間がないわ。もう後一時間しかない」

 午前十一時だった。あと少しで十一月十五日が終わるってことを言いたいのか。

「来栖ミカ。これから大事な話をするから注意して聞いて。あなたに分かるかどうか、私には分からないけど、信じてもらわないと困ること」

「だ、誰ですか。なんで私の名前を」

「私はあなたのことを知っている」

 女の眼は、思い詰めていた。深い決意と、深刻さ、そしてミカを見つめる期待の入り混じった目。

「来栖ミカ。世界の運命は、二〇一二年十一月十五日午後十二時をもって決まる。つまり、もし世界を滅ぼしたくなかったら、後一時間のうちに、あなたはこの世界を滅亡から救わなくてはいけない」

 ミカの全身にゾクゾクとした悪寒が走った。

 今夜はおかしいと思ったのだ。さっきから変な事ばかり自分の身の周りに起こっていた。今さらだが、奇妙な予兆は数々あった。最初から、すべて、何もかもがおかしかったのだ。都庁が青白く光っていた事など、これまで一度もなかった。それがライティングや只のイルミネーションでない事にも最初から気づいていた。無気味に浮かんだ真っ赤な月。あんな色見たことない。地震。だけどミカは自分の事に精一杯で、その全ての異変を意識しなかった。その直後、自分に立て続けに起こった事。なにもかも、自分の事に精一杯で気づかなかったただけなのだ。今夜が特別だという事を。もっと、その全てに早く気付くべきだった。その全てが、前兆に過ぎなかった事に。その今宵の乙女の受難の、本体とも言える存在が目の前に正体を現した。それがこの女であるに違いない。

「あなたが決めた滅びの歯車は、回転し始めて加速度がついてしまっている。つまり、引き寄せの法則で世界が崩壊する。転がる石のように……。だから、これを再生へと切り替えるのは容易なことではないの」

 女はゆっくりと話している。

「な、何がよ。私が決めたって一体何を?」

「あなたさっき、世界なんか滅んでしまえと思ったわね」

 ミカはギョッとして身を固くした。

「そうでしょ。それがあなたの選択。あなたの選択が、この世界の運命を決めてしまった。その意味が分かる?」

「ワケ分かんないけど?」

「それは……この世界ってね、人間の意識の世界の反映なの。物質的な世界ではあるのだけれど、物質的な世界と意識はつながっている。その物質的な世界の中心にいて、運命を決定しているのが、あなたの意識という訳」

「ハッ……? な、何よ?」

 世界が滅びてしまえばいい……確かにミカは高層ビルの上からそう願った。しかし、だ。突然現れたこの女は、なぜ自分が考えていた事を知っているのだろうか! ミカの心に恐怖が駆け巡った。

「あ、あたし何にも思ってないけど!」

「恍けないで。私はあなたの事をよく知っているって言ったでしょ。私には何でも分かっている。あなたがビルの屋上で、この世界なんか消えてしまえばいいと願ったのを私は聞いていた。そうでしょ? だから、世界の運命は滅びの方向へと向かうことが決定された。これから、世界はさっきあなたの思った通りの方向に、どんどん現実化してゆく。さっきの地震くらいじゃ済まない」

「ば、バッカみたい。高校生のあたしにそんな力あるわけない。創造主じゃあるまいシ? 思った事が現実化するなんて、聞いた事ないシ! そんな、あたしが勝手に思ったことが現実化するなんて、そんな事ある訳ないシ!」

 この女は幽霊だ。この世に存在しないんだ。だから存在感が希薄なんだ。そして心を読む。とうとう幽霊を見てしまった。しかも見ただけでなく、自分に語りかけてくるなんて! と、思いながらも逃げ出すことができないので、ミカは言い返すしかない。

「そう、あなたはまさにこの世界の創造主」

「そ……」

「さっきからこの世界、何かおかしい事に気付かない? それは、平行宇宙のゆらぎの影響によるもの。意識が世界を決定づけることで重要なのが、平行宇宙という訳」

「何それ」

「聞いたことない? 宇宙には無数の平行宇宙がある。それらは全て重々無尽で重なっている。無数の平行宇宙には、それぞれ、世界の運命を決めるような観測者が存在する。その人のことを、私たちは『ザ・クリエイター』って呼んでいる。つまり創造主のこと。だから、その宇宙の運命は、その人の意識と共にあるの。その人が観測したことで世界は収束する。その時、観測者の意識が大事、となる……。世界の中心とは、世界の観測者なのよ。だからその人の思った通りに、宇宙は選択されて、進行するわ。驚くかもしれないけど、あなたはね、この平行宇宙の観測者であり、結果的に創造主の位置づけということなの」

「あたしに関係ないわよそんなの!」

 ミカは動けないのでとりあえず反撃の方法は、口応えだけだ。

「あたしが、一体何をしたっていうのよ?」

 ミカは当惑一杯の自分の顔を指差した。

「ミカ。それで……この宇宙の運命が決まる日が今日だった。そしてここ新宿副都心は、世界の観測の中心だった。あの、都庁のタワーを中心にね。あなたは運命の今夜、世界の中心に来た。だけどザ・クリエイターとしてのあなたは、世界なんか壊れればいいっていう選択をしてしまった。その選択がトリガーになって、さっき地震が始まった。どんどん崩壊していく。世界は滅亡に向かって、加速度的に壊れ始めている」

 赤いスーツの女は重い口調で語った。

「じゃあ私が都庁の下で夢を願ったら、夢が現実化したかもしれないってこと?」

「そうよ。かもしれないじゃなくって」

「でも死を選んだから……」

「もう後一時間で終わるわ」

「……知らないわよ、そんなの! そんなバカなこと」

「じゃあ提案だけど……私が手を貸してあげましょうか? 決めるのは、今ここに居るあなただけど」

「お断りだわね」

「あなたは世界から自分が切り離されたと思った。絶望して、どうなってもいいと思った。だけどここからが大切なこと。希望を捨てちゃいけない。世界とあなたは今も、へその緒で繋がっているってこと。その事を忘れてはいけないわ。あなたの絶望が、あなたの選択として世界の運命を決定したのなら、後わずかな時間だけど、世界を再生することもできる。地球と人類のタイムリミットが迫っている後一時間でね」

「信じるとでも思ってるの?」

「やれやれ、怜の言う通りの反応か! そう思うのも、無理はないけど、もちろん……。あなたはこういうことを、理解できる文化の中で、今まで育ってないからね。しょうがない。この時空ではそういう教育は封印されているんだ。だからあなたがこういう反応を示すことも予想していた。だけど世界にはね、まだまだ世の人が知らないことがたくさん隠されている。私の同僚の怜はね、説得するのは無理だから諦めろって言ったわ。だけど私は諦めきれないから、本来ならあなたが一人で決めるだけだった問題に、強制的に直接介入した」

「ちょ、ちょっと待って。まず第一に、あ、あたしのせいっていうのがおかしいじゃん。あたしは今日たまたま都庁に来ただけなの。それにアレは、ただ都庁で何か特別なものじゃ……」

 そう言いかけて、ミカは女と目が合って黙った。都庁には秘密があるのかもしれない。それがひょっとして、都庁が妖しく発光していた理由なのかもしれなかった。

 だがミカは女の言うことを一つも理解できなかった。足がすくんで動かないので、聞いている他にない。

 ……話を総合すると、結局世界が滅ぶ責任がミカにあるって事らしいが、そんなの、自分の知った事じゃない。馬鹿馬鹿しく、ホントぬれぎぬも甚だしい。何て理不尽な話だ。だけど、夏来がさっき言ってたこととちょっとかぶってんじゃん。

「もう私に話しかけて来ないでよ!」

 ミカは女に叫んで、ようやく後ずさりし始めた。逃げてしまえばこの女の言った事など全て関係なくなる。

「待ちなさい! あなたがどう考えようとも、最初にあなたが思ったことが原因であることに違いはない。あなたがこの世界で生きたければ、この世界に対する責任があるのだから。その責任を放棄して、この世界は存続できない」

「バカみたい。そんなのある訳ないし!」

 幽霊に因縁を着けられていることだけは分かったので、ミカは足をもつれさせながら、とにかく走った。女は、ゆっくりと近づきながら話を続け、追いついてくるのだった。

「こうしている間にも、一刻一刻と滅びの時は迫っている」

 再び激しい揺れが起こった。ミカはその場にうずくまった。女の後方三十メートルのところの建物が路上に向かって大音響と共に倒れる。だが、女はバランスを崩すことなく、静かに立っている。

「この地震はね、あの赤い月が引き起こしているのよ。月によって地球に潮汐が引き起こされる。月が地球を大きく変形させる現象の事よ。それが地震の引き金になっている。統計的なデータでも分かっていることよ。だけどね、これからもっと本格的になる。そして、赤い月を呼びこんだのがあなただった」

「単なる地震じゃん。地震なんかで地球は滅びない!」

「いいえ、これから起こる。滅亡が起こるのは、この宇宙だけの話ではない。実は数多くの平行宇宙の中で、多くの宇宙がこの時期に滅亡か存続かのターニングポイントを迎えた。そして多くの宇宙が、破滅を選んだの。ほとんど、九十九パーセントもの宇宙が滅んだ。邪悪なダークフィールドに負けた宇宙が、九十九パーセントも。もうすでに、数々の平行宇宙が滅んでしまった。確率で言ったら、本当は世界は滅んでいるという事よね。そして破滅の波が、遂にここまで押し寄せてきた。その破滅の波を引き寄せたのは、私たち人類なのだけれど。この時空も、今また滅びようとしている。でも、そうでない選択肢も、僅かながら存在した。極僅かな宇宙よ。それがあなたが今立っている、この時空は、平和が選ばれる可能性が他に比べてごくわずかに高い、数少ない貴重な宇宙だった。でもそれを結局、破滅のベクトルになだれ込ませたのが――」

 地響きが続く中、女は神妙な顔で話し続けた。粘り強く、りりしい大人の女の声。その内容は意味不明なので、彼女の話し方だけ気にしていたが、ミカはつい自分と比べてしまい気後れしそうになりつつ、なんとかはねのけようと努力していた。


(秘密組織の女、長いし訳が分からない。あー勝手にしゃべってろ)

 屋上のミカは退屈そうに考える。だけど、こうして座っている自分と、駅前で女と対峙している自分が居ることは、もしかすると平行宇宙なのでは、と考えてしまう。


「待って! ちょっと待ちなさいってば! ずっと喋ってもらって申し訳ないんだけど、あなたの話幾ら聞いてもさっぱり分かんない。少なくとも、あたしが言える事は、地震の原因は、あたしのせいなんかじゃありませんって事。当たり前でしょ。それに、あなたが誰なのか私の質問に答えてないじゃん」

「あなたを助けに来たのよ。あなたが、後五十五分で世界を滅亡から救ってくれると信じてね」

「あ、あたしがこれから何をやるって?」


(……どんだけ?)

 屋上のミカは苦笑している。


「何をするのも嫌よ。これ以上何も言わないでくれる」

 ミカは両手の拳をクロスに胸に置き、自分を守ろうとする。

「あなたには“力”が秘められている。世界を救えるのに、それを使わないなんてもったいない事。あなたはそれを使って、この絶望的な状況から逆転に導くことができる。それ以外に、あなたにも私たちにも道はないと思うけど」

「そんなのないって。ていうか何もかもありえない!」

 ミカは両手を相手の前に広げて、ちょっと待てポーズをする。

「あなたも気づいているはず。あなたは十分前から、自分の力を思い出した。誰に教えられなくても、その力を使い、行使し始めたでしょ。落ちた瞬間、あなたの体がどうなったか分かる? 意識が身体を抜け出す、アストラル・プロジェクションが起こったのよ。意識が身体に戻った時、あなたは飛んでいた。体をシールドが包み込み、そしてそのまま新宿の上空を浮き上がるようにしてね。そして、ちょっと先の未来の出来事も分かってしまう。駅前のビルが崩れる事を事前に察知した。それだけじゃないわ。物体を空中に静止させる事ができた。それがあなたの本当の力。だけどあなたがこれから本来の力に目覚めたなら、それらはほんの些細なものに過ぎなくなる。あなたには、無限のポテンシャルが秘められているのだから。それを解放すること。そこで、あなたのグリッドを点火するのよ」

 女はよどみなく言葉を続け、ミカを確実に追い込んでいった。

「何でそんな事まで、イチイチ知ってんの……!」

 ミカは心底薄気味悪かった。この女は自分の事を、心の中まで、何もかも知っている。おそらく自分の恥ずかしいところまで。それだけじゃなくて、能力の開花の事まで言及した。幽霊っていうのは、そんなことまで分かるものなのか?

「あたしに言えることは、あなたは滅びに瀕したこの世界を、あなた自身の力で救うことができるって事」

 ミカは風に靡くツインテールを押さえた。強風が吹いても女の髪は乱れなかった。

「冗談よして!」

「冗談なんか言ってない、こんな忙しい時に。ミカ、自分の力に目覚めたら、どんなに素晴らしいか、思い知るでしょうね。あなたの中には、膨大なエネルギーの海が眠っているんだから」

 女はずかずかと歩き、どんどんミカを追い詰めていく。

「あんたみたいな幽霊の言いなりになんか、なりませんっっ! もう、着いてこないでぇ!」

 ミカは後ずさりし続け、女から走り去った。

 しかし女は歩いているのに着々と追ってくる。ミカは確信していた。あの女が見えているのは自分だけだ。あの存在の希薄さといい地震の中でも平気で立っている事といい、女がこの世に物質的に存在している者ではないという事は事実だ。その確信が、ミカをますます女に対する恐怖に陥れる。こっちは走っているのに、女はやっぱり歩いている。突っ走るミカに対して、女は追い付いてくるのだ。もう理屈じゃない。ミカは全力疾走した。あの女が視界から消え去るまで。

 女の正体以上に、この世界の運命に責任を持て、なんて言われた事が一番恐ろしい。世界が滅びるだって? 地震がミカのせい? そんなの自分のせいなんかじゃない! あの女は一体。これ以上のやっかい事はごめんだ。こんな散々な日に、変な巻き込まれたくなんかない。とにかく逃げるしかない。

 ミカは角を曲がってギャッと叫んだ。アスファルトが裂けて出来た谷間の手前に女が立っていた。確かに後ろを歩いていたはずなのに。ミカはまた反対方向の方へ走った。嫌な予感が当った。前方から女が歩いてくる。廻り込まれた。相手は幽霊だ。逃げられないことを、ミカは本能で感じる。

 さっきより大きな地震が起こった。ミカはしりもちをついた。立ち上がる事ができないくらい激しい揺れだった。古い建物がみるみる崩れていく。ミカは腰を抜かしたままその光景を眺める他なかった。だが女はこちらに向かって歩き続けて、とうとう目の前でミカを見下ろした。

「どこに行くつもりなの? あなたの住んでいる世界が、終わろうとしているこんな時に。ミカ、残念だけど物理的には逃げ場はないわ。たとえ地球の裏側に逃げたって、この世界は午前〇時で全部滅びる。世界の運命から逃げては駄目。できることは、この状況に、立ち向かうことだけ。だから差し伸べた手を振り払わないで」

 女の重い目は、ミカを捉えて放さない。

「お願いだからもう私に話しかけないでよー!」

 ミカはしりもち着いたまま、後ずさりしてまた立ち上がった。


(飛んでやれ!)

 屋上のミカはそう路上のミカに向かって念じた。

(そうだ、飛んでやれ!)


 走り出すと共に、身体が浮かび上がった。やっぱり飛べる。ミカは夢中で空を飛んでいた。

 もう止めて、もう止めて。わたしには何の関係もない。世界が滅びるなんて、それがわたしの責任だなんて。

 ミカは一目散に都庁を目指して飛び上がった。やっぱ飛ぶ事ができるんだ! 古いビルはどこもかしこも壊れているが、都庁は建物が新しい。行く所は一つしかなかった。きっと壊れていない。そこにしばらく隠れていよう。ミカは都庁正門前の路上に着地した。隣の高層ホテルの屋上には、もう一人の自分が座っていることを意識しながら。

 都庁は青白く輝いている。さっきより輝きは増していた。どこも壊れていなかった。辺りは静けさが支配し、駅前の大混乱がウソのようだった。

 どうやら女を振り切ったらしい。あるいは幽霊だから本当に消えてしまったのかもしれない。

 携帯の時計を見ると十一時三十分。夏来と別れて約一時間が経過している。風は止んでいた。ルビー色の満月はさっきよりも巨大になっていて、今度は不気味に感じられる。見つめていると、逆に赤い満月に見つめられているようで、取り込まれそうな不安に陥った。

 赤い月が雲間に見え隠れするのをじっと眺め、ミカは身動きをしなかった。

 落ち着いてくると、何もかもすべてがばかばかしい体験だと思った。何が世界を救えだよ。馬鹿みたいな話! ミカはプンプン怒って独り言をつぶやく。


 屋上のミカも考えていた。

(ソンナことよりわたしには大事なことがあるんだから。そーだよ? 恋! これまで背伸びしてたけど、黒木先生っていう現実のあこがれがあったからだよ。よく考えたら自分の理想って、本当はそうじゃなかったんだよね。そう、あたしの理想のカレシって……ずっとイメージがあった。身長が百七十センチ台で、同じ年で、うりざね顔の一見優しそうだけど芯の強い、大人びたまなざしの、声も落ち着いた人。もともとそうだったじゃん。あたし、絶対そんな人に会って、いつか、きっとみんなうらやむ恋をしてやる)

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