十、目をそらした代償は
デミウルゴスは安堵の息を吐き、目を伏せる。
これで終わったのだ、と己に言い聞かせて。
ウルベルトもアインズも、夢に閉ざされることを望んでいる。
このままタイムリミットまで、至高の御方々がゆるりと歓談して下さるならばと願わずにいられない。
一刻も早い結末をと、ウルベルトがアインズを攻撃するのではないか、ということが恐ろしかった。
……そう、それだけだ。
今、恐れるべきことは。
それ以外には、あるはずがない。
「ウルベルト様、こちらでお休みください」
さりげなくアインズとの間に入るように歩む。
ちらりとアインズを見やれど、デミウルゴスのこの言動に、すでに闘いは終わったものとして背後を見せることに、アインズはなんら不審を表さない。
これでもう、間違いはない。
パンドラズ・アクターの勘違いでもなく、確かにアインズもまた夢の世界に囚われることを望んでいる。
「……どけ、デミウルゴス」
地を這う低い声に、デミウルゴスはごくりと唾を飲み込む。
「不敬を承知で申し上げます、ウルベルト様。これ以上の戦闘は不要かと」
「それを判断するのはお前ではない」
その声はあくまで
しかし先ほどまでとは違う何かが。
何か苦く、痛ましくも狂おしいものが宿っている。
デミウルゴスは嫌な予感を覚えるも、ウルベルトの後ろに控えた。
「モモンガさん。どうやらあなたは、この『ナイトメア・カーニバル』におけるパンドラズ・アクターの役割を理解しておられなかったらしい。違いますか?」
「……どういうことです」
「あなたが混乱し考え込む時間が長すぎると言いたいんですよ。突然自分の創ったNPCを失ったショック、としてもあまりに。それはあなたが、パンドラズ・アクターが目覚めていることを知らなかった――そもそも考えようとしていなかったからではありませんか」
長い沈黙があった。
デミウルゴスの中で焦燥が膨らむ。
これ以上はいけない。
これ以上、
……だが己が何を恐れているのか、デミウルゴスには分からない。
否、分かろうとしない。
分かっているくせに、分からぬふりを続けなければならない。
その
アインズはかぶりを振る。
その動きは緩慢で。
「どうだっていいでしょう」
それは、アインズが意図したよりも苛立たしげに響いた。
ひどく疲れたように、吐き捨てていた。
ウルベルトの口元に浮かぶ冷たい笑みが。
アインズを不安にさせる。
精神を沈静化されるほどにではなく、
けれどもじくじくと、心を
不安を振り切るように、続ける。
「もう早く終わらせましょう、ウルベルトさん。これ以上はうんざりなんですよ。これ以上は何も、考えたくないんだ」
「お時間は取らせませんよ。一つだけ、知っておいていただきたいだけなんですから。本来ならたっちさんから話しておいてほしかったんですが……さて、あいつのことですから見当外れな方向に気を遣ったか、何にも考えなかったかどちらかでしょう」
ウルベルトは表面上、愉快げに口にする。
獲物をなぶるかのような、悪魔らしい口調で。
「この『ナイトメア・カーニバル』を発動させたのは、そもそも誰だったのか。お考えになったことは?」
「……発動、させた?」
アインズは凍り付く。
何を言っているのか、と。
あれは、あのイベントアイテムは、るし★ふぁーの
その効果が暴発して、いわば自動的に、自発的に、事故として発動――
した、などと。
決めつける理由はどこにもなかったのだ。
そもそもアインズは、考えることさえ避けていた。
無意識の領域に、その疑問を、仮定を、仮定から導かれる推論を、押し込めていた。
もしもパンドラズ・アクターが、このアイテムを発動させたというのならば――
何のために、と問うまでもない。
パンドラズ・アクターは知っていたのだ。
アインズがどれだけ、仲間たちに会いたかったかを。
だが。
そのために、
ナザリックを破滅させかねない決断を、
あえてしなければならなかったのならば。
どれだけの苦痛が、
どれだけの苦悩が、
パンドラズ・アクターを責めさいなんだのか?
『どうかお忘れなきよう、私の行動方針は常に変わりません。「我が神のお望みとあらば」――ただそれだけです』
あのとき。
いつもの大げさな身振りと、大げさな抑揚とに惑わされて、
見逃したのではなかったか。
いや、その他にも。
きっと、何度でも。
自ら創ったNPCだというのに。
仲間の創った子らにかまけて、
パンドラズ・アクターのことをないがしろにしてはいなかったろうか?
それはある意味では、信頼であり、甘えでもあったのだろう。
アインズにとって、あまりに気安い相手だったから。
黒歴史ではあれども。その言動に羞恥をかき立てられるとはいえ。
パンドラズ・アクターの前でだけは、あまり取り繕うことがなかったように思う。
普段はちゃんと支配者ロールはしていたにしても――
ふとしたときに。
ドイツ語は俺の前ではやめろとか。
敬礼はやめないかとか。
そういう、いかにも自分の黒歴史を目の当たりにしたあとの言動においては。
余裕がなかった、ということはまあ考慮するにしても。
やっぱりそのときそのときには、支配者ロールではなくて。
ありのままのモモンガであり、昔ながらの鈴木悟らしさがにじみ出ていたのではなかったか。
創造主にとって、NPCは己が子供に等しい。
それなのに、気付いてやれなかった。
パンドラズ・アクターの苦悩にも苦渋にも、
決断の瀬戸際にさえも。
「さて、知っておいていただきたいのは実に単純明快な事実です。このままナザリックが夢に閉ざされたならば、パンドラズ・アクターは唯一人、目覚めたままでナザリックに残されるという、ね」
「……な」
聞いていない。
そんなことは、一言だって。
アインズは杖を強く握りしめ、震える声で、
「どうして……今さら、そんなことを言うんです……!」
「今だからこそ、ですよ。今しか、あなたに伝える機会がないから。知らないままでは申し訳ないでしょう。モモンガさんにも、パンドラズ・アクターにも」
……嘘だ。
ウルベルトは自分でももう、分かっている。
本当は、モモンガに殺してほしいと願っていたことを。
己が生きることを、生き延びることを、望んでなどいなかったことを。
それはたっちのように、シモベたちのことを
では、ない。
そうであったなら、どれだけよかったろう。
彼が死にたいのは、
彼がいつまでも『まがい物』であることを、
いつまでも、どこまでも、
誰かの身代わりで。
誰かの影でしかなくて。
ウルベルト様、と。
慕ってくれるシモベたちの、
その真っ直ぐな眼差しを受け止め続けることが堪えられなくて。
どこまでも、決められた設定の、決められた枠組みの中で、
己自身というものを、永遠に見失うことを余儀なくされて。
彼は。
まがい物でしかないはずの、彼は。
彼自身をこそ、見てほしかった。
ウルベルトの影としてではなく。
それなのに。
他ならぬ自分自身すらも、ウルベルトとしての思考、ウルベルトとしての感情に支配されていて。
誰か。
誰か一人でもいいから。
彼を、彼自身として。
受け止めてほしかった。
狂おしいまでに。
そしてその衝動は、
その衝動でさえも、
やはり、オリジナルのウルベルトの反映に過ぎないのだ。
オリジナルのウルベルトは。
己が社会の歯車でしかないことを、
いくらでも代わりのきく存在であることを憎んだ。
最低限の教育を受けなければ、歯車にさえなれない社会を憎んだ。
その激しいどろどろとした憎しみの底に、
かつての憧れが、まだ
忘れ去ることの出来ない
必死に努力して、
必死に上を目指して、
どこまでもどこまでも、挫折して。
努力すれば上に行ける。
その信条を嘲笑うとき、
すがりついてもそれを信じたかった己の愚かしさが、嘲笑の裏にこびりついているのだ。
まだ、ここに在るうちはいい。
己がまがい物だと、宣言していられる。
けれど完全に夢に閉ざされたならば、
シモベたちとモモンガを、永劫に閉じ込めることになるからには、
もう、まがい物だと口にするわけにいかない。
きっと彼らは忘れるだろう。
彼がまがい物であることを。
違和感を覚えることがあったとしても、すぐさま押し流される。
夢というものの性質の常として。
ああ、なんということだろう。
代替物に過ぎない彼に許された、唯一の皮肉なオリジナリティともいうべきもの、
『まがい物』というおぞましい称号さえも、失うのだ。
「さあ、終わりにしましょう。モモンガさん」
「……っ!」
ウルベルトは言う。
己の卑怯に吐き気をもよおしながらも。
しかしせめてもの責務と、全力をもって魔法を放つ。
全てを知ってなお、モモンガが夢を受け入れるというのなら。
自分もまた、このどうしようもない愚かしさに蓋をして生きよう。
永劫にただひたすらに、身代わりとして在ることを受け入れよう。
抱いてしまった願いも望みも、誰にも悟らせないように。
けれども、もし。
もしも、アインズがそれを拒むならば――
拒んで、くれるのならば。
アインズは。
とっさに、身を守るために魔法を発動していた。
心変わりしたわけではない。
ただ、揺れていただけ。
まだどちらとも、
しかし――
その行動。
その惑い。
そのゆえに。
全ては決したのだ。
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