嵐の前に

 コキュートスはナザリックの警備に責任を負っている。


 帰還したと思われた至高の御方々が『まがい物』であり、なおかつ『ナザリックに害を為す』と――夢に囚われるという事象を有害無害で分類すればやはり有害とせざるを得ない以上は――明言されているのだから、彼らは『侵入者』に分類されねばならない。


 侵入者を排除することは、警備責任者の当然の務めである。


 ここまで思考が至るのにも、かなりの時間がかかった。

 なるほどそれは筋が通っていて、異論の余地もないように思われた。


 にもかかわらず――武人建御雷に、否、その『まがい物』に、攻撃を加える気になれない。


「私ハ、シモベトシテ失格ナノダロウカ?」


 第七階層、赤熱神殿の入り口に門番よろしく、コキュートスとデミウルゴスは並び立っていた。

 冷気を吐き出すその大顎と、炎獄たるこの領域はちぐはぐに映ってもおかしくないのだが、炎獄の支配者の傍にいれば不思議と景観に溶け込む。


「さて。シモベとしての適不適を私ごときが断じていいものではないだろうが、一個人の意見として参考に言わせてもらうならば、君は自身に対してあまりに厳しすぎると思うよ」

「ソウ……ダロウカ?」

「我々は睡眠を取らないし、夢というものがどんなものかいまいちよく分かっていない。しかし私はこれでも人間観察が趣味なものでね、夢に関する知識も君よりは多く持ち合わせている」


 博識な友人を横目に見ながら、コキュートスは背後にも神経を尖らせている。

 門番のまねごとをしながら、実質的に彼が一番警戒しているのは神殿の奥で二人きりで何か話しているらしいウルベルトと建御雷だ。

 彼らが何を考えているのか、というよりも彼らが自分たちをどうみなしているのか、にむしろコキュートスの不安はあるのかもしれない。


 デミウルゴスは微笑を浮かべ、常と変わらぬ姿勢のよさと落ち着いた声音で、


「夢にはあからさまな虚偽や過誤が含まれることがあるようだが、しかし当人は夢を見ている間にはまずそれに気付けないらしい。どういうメカニズムかまでは調べていないのだがね」

「……ナルホド。タトエソレガ『マガイ物』ダトシテモ、コノ『ナイトメア・カーニバル』ガ終ワルマデハ本物トシカ感ジラレナイ、トイウコトカ」

「少なくとも、ね。あるいは夢からめても、我々はあの方々を本物のように感じてしまうのかもしれない。だから現時点で君があの方々を侵入者と切り捨てて排除することが出来ないというのは、まったく無理からぬことだよ」


 穏やかな立ち居振る舞いは、普段となにも変わらない。

 そのことを、コキュートスは少しばかり寂しく思う。


 デミウルゴスは己の内心を隠すのが抜群に上手い。


 だがこんな時くらいは、打ち明けてほしかった。


 抱く苦悩を。

 逡巡しゅんじゅんを。

 すでに決着が出ているのならば、それがどんなものであれ必然的に伴う痛みを。


「我々ハ……アインズ様ヲ裏切ルノカ」


 コキュートスは低く、呟く。

 それが問いかけなのか、確認なのか、嘆きなのか、反語なのか。

 口にした当人にさえ、分からない。


 デミウルゴスは眉一つ動かさない。

 平然としていられるはずもないのに。


 いや、


 すでにその質問自体が、予想されていたということなのか。

 心の準備を、感情にまとう鎧を、すっかり固めていたということなのか。


 コキュートスは凍てつく息を吐く。

 胸のうちにへばりついたおりさえ、強引に引き上げて押しだそうとするように。


「他ノ至高ノ御方々ガオ相手ナラバ、私ハキット武人建御雷様ニオ味方スルダロウ。シカシ……アインズ様ニ対シテハ、ドウナノカ。考エテモ考エテモ、結論ガ出ナイ」

「さて、それはどうだろうね」


 コキュートスはちらりとデミウルゴスを見る。

 デミウルゴスは門番として正しく周囲を見ている。

 そしてコキュートスとは決して目を合わせない。


「これは私見だが、たぶん君はすでに答えを出している。出しているが、それを認めたくないだけだ」


 コキュートスはすんでのところで、質問を飲み込む。


 ソレハ私ノコトナノカ、私トオ前ノ両方ノコトナノカ、と。


 ……問わなかったのは、友情のためか。

 あるいは自らを守るためか。


 答え。

 そう、たぶん出ているのだ。

 曖昧模糊あいまいもことした思考の奥に息をひそめ、確固として在るのだ。


 手を伸ばしても、つかめはしない。

 掴みたければ、剣を取り、剣を振るしかない。

 刃の先に、答えは宿る。


 だが、今の段階でも分かることはある。


 コキュートスは、たっち・みーを攻撃するだろう。闘い、殺そうとするだろう。

 それは、アインズに敵対するためだろうか。


 建御雷は言う。剣と剣のぶつかり合いを、闘争を楽しめばいいのだと。

 すべてを削ぎ落とし、ただ愉悦を求めるその姿にもまた、コキュートスは憧れを感じる。


 だがそうなりきれないのが、NPCのさがだ。


 コキュートスの望みは、おそらくは……たっち・みーに殺されること。

 そうすれば建御雷かアインズか、そのどちらかに剣を向けるという究極の選択をしなくて済む。


 結果として、それがアインズへの消極的な裏切りとなるのだとしても。

 いや、場合によっては甚大なる被害を与える、言い訳の余地もない裏切りでしかないのだとしても。


「武人建御雷様ハ、ウシロカラ撃ッテモ構ワナイ、ト仰セニナッタ。私ノ理解ガ正シケレバ、味方ノフリヲシテオキナガラ裏切ッテモ構ワナイ、トイウコトダ」


 間違ッテイルダロウカ、とコキュートスは問う。


 その問いかけの意味を、自分でもうまくつかめない。

 理解そのものが、内容として正しいかという問いなのか。

 創造主を裏切るという選択が、在り方として間違っていないかという訴えなのか。


「……君らしくない質問だね。武人たる君ならば、正々堂々とした立ち合いを望みそうなものだが」

「正々堂々ト相対スルノハ、自ラト相手ガ対等デアルカラダ。好敵手トシテ認メルカラコソ、ソレガ成リ立ツ。ダガ至高ノ御方々ハ遥カナ高ミニオラレル。ユエニ、闘ウナラバ手段ヲ問ワズ、全身全霊デモッテ卑怯モ恐レズ、全テヲカナグリ捨テル覚悟ガ必要ダ」


 武人が主君を裏切るとは、そういうことだ。

 そこにどんな大義も、名誉もない。


「……卑怯なのは私の方だろうね」


 デミウルゴスは小さく笑って言った。


 そこににじむ、自嘲と自己嫌悪。

 この悪魔が初めて垣間見せた、狂おしい感情。


「君は気付いているんだろう? 私はさっき君の質問をはぐらかした。しかし君はそれを責めず、言及することさえせず、己の真情を吐露とろした。私は自分のスタンスを君にはっきり告げることさえしていないのに――君はそれを尋ねることもしない」

「……尋ネタ方ガヨカッタカ?」

「いや。訊かれればはぐらかしたろう。訊かれないからこんな余計なことも言ってしまう。君は天然で度しがたい」

「褒メラレテイルノカ、ケナサレテイルノカ」

「羨んでいるのさ」


 吐き捨てるように、悪魔は言って。

 恥じるように、口元を引き締めた。


 しばらくして、デミウルゴスは「すまない」と言い、

 コキュートスはそれに対して、「アリガトウ」と返した。













 ……時間は少しばかりさかのぼる。

 コキュートスとデミウルゴスに門を固めさせ、赤熱神殿内に入り、床に座した二人の至高――ウルベルト・アレイン・オードルと武人建御雷、


 正確には、そのまがい物。


「……疲れた」


 はあ、とウルベルトが肩を落とす。

 哀愁あいしゅう漂う三角座りである。


 建御雷はどっしりとあぐらをかいて身を乗り出し、


「どうしたよ、ウルベルトさん。もしや場外乱闘が勃発ぼっぱつしたか?」

「嬉しそうに危機的状況を想定しないでください、建御雷さん。デミウルゴスの相手をするのに疲れたと言っているんです」

「はあ? なんだよ、自作NPCだろ。かわいいもんじゃないか」

「あいつが頭良すぎるからこっちも気を遣う。馬鹿だと思われたらたまらない」


 むすっとしたウルベルトは、先ほどまでの『真・魔王』とでも言わんばかりの風格がすっかり失せている。なんかもうただのねたガキである。


 建御雷は豪快に笑って、


「見栄っ張りなところは変わらないな。ま、デミウルゴスは有能すぎるくらい有能だしな。あいつ一人で大体どうにかなる」


 ウルベルトは嬉しげに相好を崩したが、すぐさま表情を引き締め、咳払いする。


「コキュートスだって大したものでしょう。武力としてだけでなく、内政もかなりいけるじゃないですか。驚きましたよ、参考資料見て」

「俺もびっくりだ。まさかの才能だな」

「そういう設定にしてましたっけ?」

「いや。頭から尾っぽまで武人、武人の中の武人ってのがコンセプトよ。領主様ロールはお呼びじゃない」

「となると、建御雷さんに内政の才があったってことですね」

「おお、そうなのか! すげえな、俺!」


 無邪気に手を叩いて喜ぶ半魔巨人ネフィリムに、ウルベルトの顔にも好意的な微笑が浮かぶ。


(ここまで素直に喜ばれると、め甲斐があるよな)


 そんなふうに無邪気に――この状況を楽しめればいいのだが、と。


 しくもデミウルゴスがコキュートスの真っ直ぐさを羨むのにやや先んじて、創造主も似たような思いでいたわけだ。


 よいしょ、とウルベルトは膝を崩し、楽な姿勢で座る。


「たっちの奴、『次元断切ワールドブレイク』も『次元断層』も使えないらしいですよ」

「そんなデータあったか?」

「建御雷さんの参考資料には入ってませんでした? ふむ……互いの情報に齟齬そごがあるならば、もしかしたら使えるかも、と警戒しておいた方がよさそうですね」


 とはいえ、見極めはさほど難しくはない。


 たっちのくせや思考の傾向を知り抜いている二人は、使ってきそうな局面をだいたい察知するし、そうした先読みをたっちが警戒してあえて予想の斜め上を狙うとしても、やはり使うべき局面というもの、最も効果を与えそうな局面というものはある。


 二人からすれば「ここでだけはそのスキルを発動してほしくない」時。そうしたタイミングであちらが切り札を切ってこないなら、「そのスキルは使用不可能」と判断していい。


 ウルベルトはいくつかの作戦を提示する。


 作戦会議――先ほどの空間では大まかな枠を話し合いはしたが、それ以上には踏み込まなかった。

 フェアプレイのように場を離してそれぞれ作戦を練ることになったとはいえ、探る手段がないわけではない。

 念のため、詳しい相談は奴らから完全に離れてからにしようと決めていた。


 彼らが最も警戒するのは、むろんアインズの『The goal of allあらゆる生ある者の目指す life is deathところは死である』だ。


「時計が出現してから十二秒の間に蘇生の手段を講ずればどうにかなるんだったっけか?」

「基本的には。俺たちは復活が出来ない仕様になってますが、かつてシャルティアが見せたやり方を踏襲とうしゅうするか、応用すればいろいろと生き残る方策はあります」

「おぉ、頼りになるぜ参謀さんよ!」

「参謀という器じゃないんですけど……なんて泣き言言ってられませんね」

「大丈夫だって。ウルベルトさんなら問題ない! はは、しかし俺ら策士に事欠かないな。ぷにっとさんタブラさんベルリバーさん茶釜さんモモンガさん――っておお! モモンガさん敵だった! 対人戦強いからなあ、あの人!」

「ほんとに楽しそうですよね、建御雷さん」

「ん? なにねてんだ?」

「拗ねてません。作戦会議、続けますよ」


 建御雷はカルマ値が低い相手に有効な大技をいくつも所持している。

 カルマ値極悪のモモンガには強いが、極善のたっちには攻撃手段がある程度限定される、ということでもある。


 しかし裏返せば、たっちは意地でも建御雷の攻撃をモモンガに通すまいとする、ということでもある。

 たっち自身の性能、物理火力役アタッカーとしても防御役タンクとしても活躍出来るチートじみた強さからすれば、圧倒的な魔法火力を誇るウルベルトをまず倒してから建御雷に対処したいところだろうが、モモンガを守らねばならない以上はそうもいかない。


 淡々と、着々と。

 ウルベルトは作戦を提案していく。

 建御雷は鷹揚おうようで、どんな案もたいがい受け入れるが、時々大胆な提案をする。


(なんだか本当に、ユグドラシルに戻って来たみたいだな)


 二人、というのが少なすぎるが――


 いや、外にもう二人、頼りになる者たちがいるか。

 シチュエーションによっては、ということだが。

 彼らが裏切らないなどと、ウルベルトはそんな楽観を抱いているわけではないが。


 それにもう一人のシモベも、いずれ戻って来るだろう。

 そのとき彼は敵になっているかもしれないが。


 五人。

 五人、か。

 ナイトメア・カーニバルで召喚される人数でもある。

 本来ならばこの五人が結託し、一致団結し、闘いにおもむかねばならないのに。


 ばらばらだ。


 ウルベルトの脳裏に、たっちの姿が浮かぶ。

 怒りと、苛立ちと、悲しみのようなものが、ウルベルトの胸のうちを吹き荒れる。


 タブラはどちら側でもいいというスタンスだった。


 ペロロンチーノはたっちについたが、もしも他の全員が闘うことを選んでいたら、あえて反対するほどまでに強い覚悟でいたわけではないように思える。

 いや、覚悟はあっても、その優しさが、甘さが、彼を押し流して闘いへとおもむかせただろう。


 一度闘うと決めたなら、ペロロンチーノは決して仲間を裏切らなかっただろう。

 戦意を喪失する危険はあっても、戦意を反転させる不安はなかった。


 なのに。


「……建御雷さん」

「うん? 俺はこの作戦でいいぜ」

「ああ、はい。それはどうも。ところで、ですけど。……なんであいつはああも、勝手なんですかね」

「はは、たっちさんのことか」

「やっぱり勝手だと思うでしょう?」

「いや別に? ウルベルトさんがそういうとげとげした言い方をするときゃ、だいたいたっちさんだろ」


 むぅ、と山羊頭の悪魔は黙り込む。


 彼の視線はともすれば、どこともなしに神殿内部をさまよう。

 けがされた聖域、荒廃した悪魔の居城。


 あらゆる細部にいたるまでこだわりにこだわり抜き、グラフィック担当に悲鳴を上げさせたことは記憶に生々しい。


 もうずいぶん前のことなのに――そもそもまがい物たる己の体験ではないはずなのに。


「ウルベルトさんは、周りに気を遣いすぎなんだよ」

「は?」

「たっちさんも俺も、自分の好きにしてるじゃないか。あんただってもっと自由でいいはずだ」

「……人に気を遣いすぎるのはモモンガさんでしょう。俺じゃなくて」

「うん? まあモモンガさんもなあ。禿げるんじゃないかと心配になるくらい気を遣うよなあ。というか禿げ上がったと言えなくもない状態だよな、骸骨だし――って話をそらすなよ」


 ウルベルトは咳払いする。そういう話題は避けよう、と言わんばかりに。

 しかし建御雷はずずいと詰め寄って、


「あんたは何のために闘うんだ?」

「俺は義務を果たすだけです。夢の側にいるみんなの分まで足掻あがく」

「むかつくんだよ、それが」


 半魔巨人ネフィリムの声が低くなった。


「何が義務だよ。みんながそんなもんウルベルトさんに背負わせると思ってるのか?」


 ウルベルトは黙り込む。

 脳裏にちらちらと浮かぶのは、植え付けられた記憶。


 それは己本来のものではないと、分かっているのに。

 呪いのように、彼を縛る。


「仲間を守りたいと思うことは、間違っていますか」

「そうじゃない。ただ俺は、ウルベルトさん自身の希望ってやつが――」

「俺自身の希望ですよ。ええ、そうです。俺は助けたいんですよ。助けられる可能性があるんなら、全力を尽くすべきなんです」

「べき、とかそういうのがだな」

「助けたいから助けたいと言っているんだ!」


 激昂げっこうして、

 まくし立てていた。

 ぎりぎりの自制心で、デミウルゴスたちには聞こえないように声を抑えていたが。


 建御雷さんがそんなことでどうするんです

 俺たちは託されたも同然なんですよ

 もちろんみんなの気持ちなんていちいち聞いて回ったわけじゃありません

 俺もたっちさんみたいに決めつけているだけかもしれない

 だけどそれでも助けられるなら――


 ぐわん、と頭の奥が揺れた。

 言葉を発する己と、己自身の意識とが分離していくような感覚を味わう。


 助けられるなら。

 助けられたのに。


 ……どうして、助けてくれなかった。







 ウルベルトの父と母は、工場で働いていた。

 ウルベルトが小学生のとき、勤務中の事故で死亡した。


 埋葬の心配はいらなかった。

 骨も戻らなかったから。


 同僚だという人は、幼いウルベルトの頭を撫で、泣きながらつい堪えきれずといったようにらした。

 『助けられたはずなのになあ』、と。


 その人が教えてくれた、父母の末期と。

 幾度となく悪夢にうなされた記憶とが。

 混ざり合って、一つの情景をウルベルトの心に刻んだ。


 巨大な機械が立ち並ぶ工場。

 人々は整然と並んで作業をしている。

 流れゆく工程を止めないよう、決められた手順を決められた時間通りに。


 母もまた、その歯車の一つとして働いている。

 しかしその日、母は疲れている。

 前日に息子が熱を出したせいで。


 彼女は夜っぴて看病しなければならなかった。

 医者にかかる余裕なんてなかったのだ。


 ひどい熱だった。

 母親は精の付く食事をつくり、しょっちゅう汗をかくのを丁寧に拭いてやり、額の上に置いたタオルが常に冷たくあるよう何度も交換した。


 父は家にいなかった。

 彼は昼勤と夜勤のどちらのシフトにも、その日は入っていた。

 彼はどうにかして息子を中学に通わせたいと願っていた。

 息子は頭が良かった。

 「努力すれば上に行ける」と父は息子によく言って聞かせた。

 息子は無邪気に信じていた。

 愚かしくも。


 母の看病のおかげで、息子はどうにか危ないところは脱した。

 安静にしているべきだったが、彼は学校に行くと主張して譲らなかった。

 努力すれば上に行ける。

 勉強でわずかにも遅れを取るわけにいかない。

 父も息子の肩を持ち、母は仕方なく受け入れる。


 母はもしかしたら、疲労のためだけでなく息子の身を案じる気持ちのせいもあって、注意力が散漫さんまんになっていたのかもしれない。

 息子がおとなしく家で安静にしていると言ったなら、あんな事故は起こらなかったのかもしれない。


 母はぐいと身体を引っ張られるのを感じる。

 服のすそが、機械に巻き取られていた。


 母はその先の運命をいち早く察する。

 それはこの工場では珍しい例ではなかったから。


 母は悲鳴を上げる。

 周囲の人々はわずかに身じろぎして、けれど聞こえないふりで仕事を続ける。

 そうしなければどんな目に遭うか、彼らはすでに学習しているから。


 新米の工員が、慌てて監督者エリートに機械の停止を頼む。

 その操作パネルは監督者にしか使えないのだ。

 しかし監督者は冷酷に首を振り、仕事を続けろと命じる。


 工員が何人か死んだところで、その見舞金など些末さまつな額だ。

 生産ラインを止める損害には、比べようもない。


 父は必死になって母を機械から引き離そうとする。

 絶叫する母が生きながらひき肉になるのを、最後の最後まで止めようとする。


 母はたぶん、死の恐怖の淵で、父も機械に巻き込まれると気付いたとき、叫んだだろう。離れて、と。


 あの人は、優しい人だったから。

 自分のことよりも常に周囲を、特に息子を、続いて父を、優先してくれる人だったから。


 父はそれでも、母を手放せなかった。


『君のお父さんは最期に、君の名前を呼んだよ。大きな声で。とても、とても悔しそうに』


 ……息子は中学には進めなかった。

 学力は申し分なかったが、金銭的な問題だった。

 彼は必死になって中学にまで押しかけ、頼み込んだ。

 学費を一部免除してほしい、大人になったら働いて利子をつけて返す、と。

 しかし誰も取り合わなかった。


『負け組はどこまでいっても負け組なんだよ』


 にこにこしながら言った教師の顔を、彼は決して忘れない。

 その教師は、人徳者として知られていた。

 ネット上には彼の慈善事業における輝かしい業績の数々が記されていた。







 ……あんな思いを。

 あんな不条理を。

 決して許すまいと、決めたから。



 今、ウルベルトはあの工場の監督者の位置に、はからずも立たされている。

 ラインをストップさせるのだ。

 ナザリックを永劫の停滞に陥れるとしても――


「めんどくせぇなあ」


 ぽつりと、建御雷はぼやいた。


 ウルベルトはぎくりと身を硬くする。


 なんだか、それはまるで。

 『俺たちは、あんたの親父とお袋の代わりじゃないんだよ』と、

 言われたように聞こえて。


「あー。なんだろうなあ、つまり、だ。その、だな。くそっ、うまく言えないんだが」


 建御雷はぐわしぐわしと自分の頭をかきむしる。

 それから自らの膝をぽんと、と形容するには豪快に、がつんとばかりに叩き、


「とにかく、あれだ! 俺はウルベルトさんの『悪』が見たいんだよ!」

「……はい?」

「なんつーかよ、たっちさんはどっからどう見ても『正義』だろ。あのひとのもともとの主義通りにさ。でもって、せっかくの直接対決だ。ここはずばんっと、ウルベルトさんの『悪』を示してほしいんだよ」

「……申し訳ないですが、意味が分かりません」

「くっそ、分かんないかー……」


 しょげ返る建御雷の姿に、ウルベルトは唖然あぜんとし。

 ついで、笑いが込み上げた。

 腹の底から。


 悪。

 ……悪、か。


 さんざん笑ったあとで、ウルベルトは腕組みする。


「まったく。『お前の〈悪〉を示せ』とかよく言えますね。そういう厨二病発言は、ウルベルト・アレイン・オードルの専売特許ですよ? 特許料払ってください」

「いつ申請したんだよ、おい」


 そのとき、門のあたりが騒がしくなった。

 二人はほぼ同時に立ち上がり、向かう。


 門番を務めるコキュートスとデミウルゴスの前で、わけの分からないポーズを決めている軍服姿の卵頭に、ウルベルトは声をかける。


「戻ったか。パンドラズ・アクター」


 その呼びかけに、門番二人が驚いたように反応する。

 デミウルゴスはまだ警戒は解かず、パンドラズ・アクターをにらみ据えている。


 仲間の警戒も、混乱も、どこ吹く風と言わんばかりに、というかどこから吹いても回転しますと言わんばかりにくるくると回ってから、パンドラズ・アクターはさっと跪く。


「モモンガさんはどうしている?」

「ペロロンチーノ様を倒されました。すぐにたっち・みー様と合流されるでしょう」


 そしてパンドラズ・アクターは語る。アインズがすでに超位魔法『失墜する天空フォールンダウン』や、『The goal of allあらゆる生ある者の目指す life is deathところは死である』を使用したことなどを。


 前者は時間が過ぎればまだ使用可能とはいえ、MPの消費は大きかったろう。


 あの人は知らないのだろうか?

 『ナイトメア・カーニバル』中は、アイテムによる回復が出来ないというのに。


 また後者は、この『ナイトメア・カーニバル』中にはもう二度と使えない。

 使えるようになる前に、このゲームが終わる。


「アインズ様の戦い方を見ていれば、一目瞭然りょうぜんでした。あの御方は、あなた方を本当に倒すおつもりではないのです。アインズ様のお望みは、あなた方と共にあります」

「なるほど。では、計画通りお前は俺の味方というわけか」

「はい」


 よしと頷くウルベルトに、しかし凜とした声が「お待ちください」と割って入る。

 その声にぴんと張り詰めた響きがあるのは、緊張しているのか。

 ちら、とウルベルトは己のNPCを見やる。

 デミウルゴスは畏まって、


「パンドラズ・アクターの言を完全に信用なさるのは危険です。また彼を戦列に加えることも望ましいとは言えません。やはりアインズ様に対して最も深い忠誠を抱いていることは間違いがなく、この場でどのように言い繕おうとも決定的な局面でウルベルト様を裏切る可能性は十分にございます。アインズ様の真意を確かめる術はなく、しかし今分かっていることではそれが本心か詐術さじゅつかはともかくとして、ウルベルト様と闘う姿勢を示しておられるからには、やはりあの御方の造られたNPCには警戒が必要かと愚考いたします」

「デミウルゴスの進言にも一理あるな。パンドラズ・アクターよ、お前は後方に控えていろ」

「しかし――」


 言いかけたパンドラズ・アクターは、ちらりとデミウルゴスをうかがい、思い直したように頭を下げる。


「承知しました。ですが、戦闘開始前に皆さんに補助魔法による能力向上バフをかけることをお許しいただけますか」

「ふむ。もとよりそれは必須だ。俺も建御雷さんも弱体化している。同じくたっち・みーも劣化しているが、あの人はもともとのスペックが高すぎるからな。あの人を止めないことには、俺は詠唱すらままならない」


 ウルベルトが言い、建御雷も頷く。

 コキュートスが心配げに見やれば、デミウルゴスは微笑して、


「おかしな真似をしないか、私が見張りましょう。僭越せんえつながら、この中では私が最もそうしたものを見抜くことに秀でております」

「そうだったな、デミウルゴス。では、頼むとしようか」


 ウルベルトの声に、わずかに混じる楽しげな調子。

 その瞳に満足げな色が宿るのを見て、


 デミウルゴスはひそかに拳を握りしめる。


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