三、会いたかったひとは
観客席の上から二段目に身を潜めていたマーレは、闘技場にペロロンチーノが姿を現したのを見て驚愕した。
しかしマーレはすぐさま駆け寄ったりはしなかった。相変わらず気配を消して様子をうかがっていた。
漂うオーラがそれを至高の存在であると告げていたにもかかわらず、胸奥から確かに沸き上がる感情があったにもかかわらず、ぐっと堪えたのには彼の慎重さと臆病さが根幹にあった――あるいは、慎重で臆病であるという『設定』にあった、というべきか。
ペロロンチーノに遅れて、姉のアウラが姿を現した。どういうわけかシャルティアの腕をぐっとつかんで引っ張って歩いている。
シャルティアはぼうっとした表情で、一瞬マーレは精神支配を疑ったが、その悄然として抜け殻めいた様子には悲哀が立ちこめていて、精神支配というわけでもなさそうだ、と見当を付ける。
もっともまだ完全に疑いを解いてはいないが、姉の様子も勘案するに、おそらくはただショックを――といってしまってはかわいそうなほどに、強いショックを受けたということだろう。
ならばなおのこと、あそこにいるペロロンチーノにまだ気を許すわけにはいかない。
それに。
問題がなければ姉はもうとっくに自分を呼んでいるはずだ。
「至高の御方の御前だってのにいつまでお待たせする気なの!」とか怒鳴って。
マーレは杖を握りしめ、息を殺す。
久方ぶりに姿を見せた、至高の御方。
いったいどのような変遷があったかは分からない。
彼はもしかすると、ナザリックにいた頃の記憶をなくしたとかして、侵入者として現れたのかもしれない。
いずれにせよ、姉の合図を待つべきだ。
自分でぎりぎりの決断を迫られるまでは。
……そう、思っていたのだが。
ペロロンチーノが顔を上げ、こちらを見る。
「そこにいるんだろ、マーレ。出ておいでよ」
探知能力か、アイテムや装備の支援か、あるいは類い稀な直感か。
アウラが観念したように、「こっちに来て、マーレ」と呼びかける。
マーレはおどおどした素振りで立ち上がり、たたっと駆けて階段に向かう。
それは彼のいつものやり方ではあるのだが、今回はアウラも飛び降りてこいとは急かさなかった。
ぐるっと観客席に沿って走りながら、マーレは考える。
ペロロンチーノはマーレの名前を知っていた。
呼びかける声にも気負いはなかった。
あの御方は少なくとも、記憶をなくしているわけではない。
その理解によってかき立てられるのは、安堵ではなく不安だ。
もしも記憶をなくした状態で、なんらかの望ましくない行為――姉が弟をすぐさま呼び出せない、警戒を解けない振る舞いを示したというのなら、そこはそれ、いくらでも釈明の余地はあるわけだ。
しかし、記憶があるとなると。
釈明すべき対象――アインズのことを思い浮かべ、マーレは自分に言い聞かせる。
大丈夫、ペロロンチーノ様が何をお考えであるにせよ、アインズ様はすごく優しい御方だから、きっとうまい具合に落としどころを見つけてくれる。
きっと……きっとアインズ様はペロロンチーノ様に怒ったりしないし、ペロロンチーノ様もことさらにアインズ様を困らせるようなことはしない、はずだ。たぶん。
だからいまの状況はあんまりよくないものだとしても、最後にはまたペロロンチーノ様がナザリックに君臨されることになる。アインズ様とごいっしょに。
階段を、とん、とん、たん、と下りていく。
気が重くて、姉をちらりと見るけれど、真一文字に結んだ唇が嫌な予感を倍加させただけだった。
ボクがしっかりしなくちゃ、と思う一方で、こんなときこそデミウルゴスさんがいたらな、と思わずにいられない。
しかし待ち受けるペロロンチーノに近付いていけばそれだけ、理性ではどうしようもない歓喜と興奮が沸き上がる。
階段を一番下まで下りて、闘技場の地面に立ち、走っていく。
速度がだんだん速くなる。
土埃が御方にかからないようにブレーキをかけ、ぱっとその場に跪く。
「おっ、遅くなりました! 第六階層守護者マーレ・ベロ・フィオーレ、御身の前に」
「はじめまして、マーレ」
「……え?」
戸惑い顔を上げてから、慌ててまた顔を伏せる。
畏怖の念がいっぱいにマーレを充たしていた。
す、とペロロンチーノは屈み込み、マーレの肩に右手を置いた。
それだけの仕草なのに、マーレはなんだか安心してしまう。
羽毛に覆われたその手が、とても温かかった。
「俺に畏まる必要はないんだ、マーレ。さあ、立って」
「は、はい」
ペロロンチーノには、不思議な親しみやすさがある。なにか、柔らかで穏やかなもの。感情の温度。彼は目を細める。笑みに似た表情。
「お前たちにはちゃんと説明しなくちゃいけない。俺が何なのか。このナザリックでいま、何が起きているのか」
マーレの肩を優しく押しやり、アウラたちの方へ行くようにと促す。
至高の御方をちらりと見上げ、マーレは小走りに姉に駆け寄った。
シャルティアはまだ呆然としているようだ。
心配げにマーレはその顔をのぞき込むが、すぐに気持ちを切り替え、ペロロンチーノに向き直る。
ペロロンチーノはしばらくの間、シャルティアを見つめていた。
彼は何かを言おうとして、思い留まってかぶりを振った。
ほんの短い、けれど重苦しい沈黙のあとに。
「落ち着いて聞いてほしいんだ。そしてきちんと判断してほしい。お前たちが為すべきことを。……忘れないでほしい。お前たちが、ナザリックの守護者であるということを」
よろめくように、アインズは第六階層を目指す。
思考は働くことを拒み、心は現状理解を閉め出す。
殺す?
仲間たちを、殺す?
ふざけるな。
どれだけ会いたかったと思っている。
どれだけ待ち焦がれたと。
アインズは呻きとも嗚咽とも、笑いともつかぬ声を漏らす。
その手にしたギルド武器を、アイテムボックスに放り込む。
自動で反撃されてはたまらない。
相手はアインズを誤解していきなり攻撃を仕掛けてくるかもしれないが、こちらに戦意がないことを訴えれば……
反応が読めない。
なにしろ相手の候補は三十九人だ。
誰が待っているというんだろう。
何の話をしようというんだろう。
たっちさんはひどい。
あの人はいつも正しい。正しすぎて、人を傷つける。
最初の九人のうち、一人はあの人のためにやめた。
まだギルド『アインズ・ウール・ゴウン』を結成する前、
クラン『ナインズ・オウン・ゴール』であった頃に。
いったい誰が、俺を待っているというんだ。
ぷにっと萌えさんか? 理屈であの人に勝てるはずがない。あの人は俺を説得するだろう。馬鹿か? 頭で分かってそれで動けるか。動かざるを得ないようにさせられるとでも?
会いたい、
……会いたい。
正しさなんて糞食らえだと、
ぶちまけられる仲間に会いたい。
ウルベルトさんなら、きっと同意してくれるだろう。
建御雷さんなら、豪快に笑って好きにしろと言ってくれるかもしれない。
るし★ふぁーさんは悪乗りするだろう。今回ばかりはあの人の側についてもいい。
それから、
……それから。
ああ、あの人に会いたい。
飄々として、明るくて。さらっと無課金同盟裏切ったりしつつ、笑顔でなごやかにまあいいかって思わせられる、あの人。姉がエロゲに出てたと言っては落ち込み、エロの偉大さについて語ることに熱心で、もういろいろとアレな設定をシャルティアにぶち込みまくってさんざん俺をどん引きさせているあの人。
あの人なら、きっと、
――え? たっちさん、そんなこと言ったんですか。
――うわあ、災難でしたね。モモンガさん。
――俺ですか? 俺はやっぱり、みんなで楽しく遊ぶのが一番だと思いますよ。
――っと、いまのたっちさんには内緒! 内緒ですからね!
――まあでも、夢なら夢でいいんじゃないですか? 台無しにする人がなければそれで。
――ほら、俺もリアルの女の子よりエロゲの女の子の方がいいなーって思うこと結構ありますし。
――そうそう! 姉ちゃんさえ声をあててなければ! ほんっと、夢をぶち壊すんですから! やってられませんよ。
――ああ、それじゃさしずめ、いまのモモンガさんにとってのたっちさんが、俺にとっての姉ちゃんなわけか。期待の大作エロゲに姉ちゃんが出演してて撃沈したときの気分、よく分かったでしょ。
ほんとですよ、ペロロンさん。
落ち込むってレベルじゃないですよ。やってられませんって。
どうです? いっしょに隠れちゃいませんか。
制限時間いっぱい、ひたすらかくれんぼしましょうよ。
あとになってたっちさんに叱られるときは付き合ってくれます?
冗談ですよ。そのときは俺ひとりで頑張りますって。あはは、ほんといいですから。たっちさん怒ると怖いから。そうそう、セバスもそうなんですよ、創造主に似て。
NPCに怒られるとか意外ですか? ペロロンさんも一回やってみましょうよ、ほんと怖いんですから――
口笛が聞こえた。
懐かしい旋律だ。
優しくも物悲しい、美しい響き。
ああ、覚えている。
これは、たしか。
『きれいな曲ですね、それ』
『え? ああ、すいません! 最近気を抜いたらすぐ口ずさんでたり口笛やってたり鼻歌で歌ってたりするんです』
『よっぽどお気に入りなんですね。ちなみになんていう曲ですか?』
『月と星のワルツ、ですよ』
『いいタイトルじゃないですか。雰囲気出てて』
『でしょ? 実はこれ、エロゲの主題歌なんですよ!』
『……えっ』
『タイトルは“お兄ちゃんの奴隷になりたいっ! 我が家は二十四時間めくるめく――あっ! すみません、ここから先はユグドラシルではアウトになるワードなので伏せますね』
『詐欺だっ! 曲詐欺だ!』
『やだなあ、ぴったりじゃないですかあ』
『ペロロンさん頭の隅々まで変態色ですね!』
『お褒めにあずかり光栄です。さあ! そうと決まればモモンガさんもぜひこのエロゲをっ! ちなみにシリーズ物でいま第十二作まで出てます』
『大河ものですか!? なんかいろいろ壮大ですね!』
『でしょう? 初めてなら十作目をおすすめしますよ。節目にあたるだけに新規ユーザー取り込みを狙ったかなりの親切設計、さまざまな過去作キャラのチラ見せエピソードで購買意欲をかき立てます! ちなみに俺は十作目やったあとで一から九作目をもう一度全クリしました』
『駄目だ、もう末期だ……! お巡りさん、この人です!』
『呼びましたか?』
『『ほんとにお巡りさん来ちゃったよ!』』
……郷愁に誘われるまま、アインズは闘技場に向かう。
口笛がやんだ。
アインズは闘技場に足を踏み入れ、
その中心に立ち待ち受ける友を見た。
「どうも。お久しぶりです、モモンガさん」
気安げな口調、
親しみと温もりの宿る声、
背中に生えた羽、
そしてアインズに向け、矢をつがえられた弓――ゲイ・ボウ。
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