四月、雨の中に一人
八郎
導入:Wildpitch
四人の人間がそこにいた。夜更けの三叉路である。
既に深夜も二時を過ぎ、郊外にあっては人の往来どころか、周囲の建物に灯る明かりさえ絶えて久しい。まばらに配置されている街灯と、自販機が放つ青白い光のみが、摩耗し砂利の浮いたアスファルトをぼんやりと照らしている。
静かな夜だった。風が凪いでいたということもある。しかし一帯の大気には、ある種の剣呑さが多分に含まれていた……つまりは、血と汗の匂い、獣臭、剥き出しの鉄が放つ冷気、垂れ流される敵意、害意、殺意……辺りには
三叉路の中心に、一人の少年がいた。
凶相の少年であった。だらりと垂らした前髪の奥にあって尚、その落ち窪んだ双眸は
彼を取り囲むようにして立つのは、二人の男と一人の女である。龍之介の左右前方と背後、道一つにつき一人ずつ、彼の進路と退路を塞いでいる。三人は龍之介に対して距離を詰めるでも声を掛けるでもなく、ただそこに立っていた。その間合いも彼らの態度も、獲物を追い詰めた、という風情ではない。
獲物。獲物である。彼らは追手であり、龍之介はその標的であった。
「おい」
龍之介が初めて声を上げた。苛立ちと不機嫌を隠そうともしない声音であった。
「いつまで続けるんだ?」
三人からの応答はない。ただそれぞれが、どこからともなく取り出した暗器の類を、手の内で確かめるように握り直すのみであった。
龍之介は舌打ちの後、口の中でそうかい、と憎々しげに呟いた。「ならお望み通りにしてやるさ」
龍之介の髪が一瞬逆立って見えたのは、跳躍のため身を屈めたからだった。腰を落としながら、急速に反転し背後の女を狙う。猫科のそれを思わせる動きと速度であったが、女は動作の起こりに素早く反応し、振り返る龍之介に手持ちの暗器を抜き撃った。
女の得物は鏢である。龍之介の目では街灯を反射した閃きとしてしか知覚できない、それ程の早業であった。
本能的にかざした左の掌……中指から続く骨を容易く圧し折りながら、鏢が深々と突き刺さる。出足を潰された形、しかし龍之介にひるんだ様子はない。女もわかっていたような速度で次弾を放つ。左手に走る痛みを感じるより疾く、今度は左肩に到達する。
初弾はあくまで牽制の一手、次弾は必殺の投擲である。手首のスナップだけではない、メジャーリーガーの投球にも似た
女の目が驚きに見開かれたのは、それでも尚龍之介が止まらなかったことではなく、彼女の必殺を掻い潜ったことに対してのものだった。完璧なタイミングだったはずである。文句のない一投だった。それが、必殺の
------何をした?そんな困惑が彼女を後ろに下がらせた。龍之介は前進する。ほとんど倒れ込むような体勢のまま、実質、失ったに等しい左腕を庇うことさえせず。女は鏢を構えつつも、三発目を撃たない。次の必殺を確殺にするため、観察に徹すると決めたからである。
それまでの隙きは、あとの二人が埋めてくれる。
脇腹に衝撃が走った。鎖である。鈍色に腐蝕した鎖が、龍之介の薄い
鎖を放ったのは背後の男であった。龍之介の比べると、二回りは大きな体格、ごつく節くれ立った指は鎖の全幅よりも太かったが、その操作は精密そのものであった。
圧倒的な体重差は龍之介の動きを止めるにとどまらず、彼を後方へ引き戻す。
「……ッ!!」
肺を外部から締め上げられたせいで、呼吸が止まった。でたらめに足を振り、エビ反りになりながらもなんとか着地したが、呼気を失ったために次の動きへ繋がらない。手を後ろに回し鎖を掴むのが精々であり、畢竟、苦し紛れ以上の意味はなかった。
女は
「走れ地蜂!」
鎖の大男が叫んだ。地蜂と呼ばれた男は弾かれたように飛び出す。同時に鎖が振られる。男の掌から生まれたうねりは波となって鎖を駆け、地蜂はその波に沿うように追随する。
波が龍之介に達した。長縄に振り回される小学生のように。受け身の取れない体勢からアスファルトに叩きつけられた。その上から影が覆いかぶさる。打針を握った地蜂であった。30センチ弱の棒きれに全体重を乗せるための、飛びかかった姿勢そのまま、腕部から落ちる着地を考えない落下。
-------腕じゃ無理だ。掴んだ鎖を支点に膝をたたむ。歯を食いしばり、無理矢理に呼吸して肺に空気をありったけ送り込む。手首を狙い、衝撃に備える。
圧。受けきったというより、畳んだ足が作った厚みのおかげで、なんとか急所に届かず済んだ、といった具合である。浅いとはいえ、左胸には血が滲む。
地蜂は笑った。「やるね」
立て続けに身を翻す。龍之介の体を這い回って足を取った。膝関節に自分の右足を閂のように差し込んで、両足を締め上げる。
足緘。そう呼ばれる技術に相当する技。痛みで上体が起き上がる。すかさず鎖が操作される。あるいは蛇がそうするように、胴体から首へと絡みついた。
鎖の男は手繰る。地蜂は
絶好。必殺を必殺たらしめるのは今をおいてない。心臓を差し出されたようなものである。女は自分たちの狩りの成功を確信し、二人の猟犬に心の中で短い礼を言った。龍之介の動きを止める数秒間で、鏢には微振動を起こすほどの勁が込められている。
「やれッ
どちらがともなく叫んだ。言われなくとも、と三度目の必殺が放たれる。鏢は龍之介の胸を穿ち、その息の根を永遠に止める。はずだった。
音を聞いた。大きな岩が割れたときのような、硬質でくぐもった音だった。音の正体を考える前に、蝮と呼ばれた女は龍之介が自分への視線を外していないことに気がついた。
この期に及んで、注がれる視線の睨みつけるような鋭さは変わらない。呼吸を止められ、血混じりの泡を口の端に吹いていて尚、目には焦りも恐怖もない。
カラン。金属音に視線を落とす。鏢が落ちていた。何だこれは-------疑問符が言葉になる前に、違和感が激痛にすり替わった。
「この面白集団が」
ガラガラにかすれた声で、龍之介が言った、ような気がした。呼吸すらままならないはずなのに。
「大道芸で俺が殺せるかよ」
初め右肩が無くなったのだと思った。視界の中の、あるべき場所にそれがなかったからである。骨折とも脱臼とも違う。鎖骨から続く肩部の関節が、上下にズレている。出血はない。断層を起こしたように、ジグザグに折れ曲がっているのである。
「なっなっ」
何が起きているのか、カケラも理解ができなかった。階段のようになってしまった自分の肩を押さえる。またあの音がして、急に踏ん張ることができなくなる。顔面から倒れ込んだ。今度は膝だった反対にねじ曲がって、逆関節になっているのである。
「テメェ!」
地蜂は激昂し、自由な左腕で龍之介の肝臓を狙った。届かない。腕部の半ばから、外側へとL字に折れ曲がったからである。
「う……おぉおおッッ!」
痛みには慣れている。訓練で、実戦で、負ったことのない傷の方が少ない。拘束が緩んだのは、寧ろ未知の攻撃による混乱のためであった。
ぐるり、と龍之介が視線を廻した。大男は首筋が粟立つのを感じた。同時に凄まじい力で引き摺られる。鎖が、中空のある地点から蛇腹に折り畳まれていくのだ。安全装置のないウィンチに巻き取られていくような速度と力である。全ての抵抗は無駄だった。手放す暇すら与えられず、大男の腕は鎖と共に、その頑強な肩口までへし曲げられていった。
「ぐぅううう」
呻き声。ここまでされて、誰一人出血していなかった。だが、彼らの腕が、足が、そしてその中身が無事ではないことは明らかだった。
龍之介は全ての拘束から逃れ、今や激しく咳き込んだ。喉をさすり、血で赤黒い唾液を吐き出す。うずくまる地蜂たちを
「何をしやがった……!」
「……うるせぇよ」
脂汗を流しながら、辛うじて立ち上がった地蜂に一瞥をくれた瞬間、地蜂の身長が縮んだ。胴体が前後にズレていた。今度こそ倒れ伏し、痙攣する。
「貴ッ様ァ!」
鎖の男が足首を掴んだ。龍之介は向き直る。ただそれだけで、男の両足が胴体より短く折り畳まれる。それでも呻くだけで、叫び声をあげなかった辺り、男がくぐってきた修羅場の苛烈さが察せられる。
「まぁ、もう意味ないけどな」
蝮に歩み寄る。蝮は唯一無事な左手に、鏢を握り込んだ。この体勢から必殺は無理でも、撃てないわけではない。
一歩。二歩。三歩を数える刹那、うつ伏せの上体から背筋を使って上体を起こし、アスファルトの上を滑らせるようにして射出する。狙いは撃ちながらつけるしかない。喉を捉えることができれば、十分に
極度の集中状態から生まれる、圧縮された時間の中で、彼女は龍之介の爛々と燃える瞳を見た。生気のない容貌の中で、そこだけが背後の闇と同化せず、実際の大きさを超えて、浮かび上がって見えた。
蝮の視界は、それっきり暗転した。
------------
四人の人間がそこにいた。夜更けの三叉路である。
道に立っているのは一人だけで、あとは皆、冷めたアスファルトに倒れていた。立っているのは幽鬼のような少年で、細い体のあちこちを血で濡らしていたが、それらを庇う様子もなく、だらりと垂らした前髪からぼんやりと星空を見上げていた。
徒街龍之介、そういう名前の少年である。
四月、雨の中に一人 八郎 @qazxdews334
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