11

 光栄塾と比べて、遥かに大きい東総合病院を間近で見ると現実世界の病院とほとんど変わらない外観であった。


 特徴的な丸いドーム状の屋根は白さが際立っているだけのようだし、元の印象と変わらない。


 患者たちが怯えないように、というコンセプトで作られたといわれている病院の壁は角が全てなくされており、上から見ても横から見ても円を描いているように建造されている。敷地いっぱいを使って病院が建てられているため、市内では一番、県内でも有数の大きさを誇る病院である。


 高い位置に設置されていたステンドグラス風の窓は取り払われており、病院の中が見えるが病院ということもあって真っ白い内装に違和感は感じなかった。


 ロータリーは相変わらずひび割れだらけで、むしろ外よりも酷い有り様だ。通路の左右に植えられた樹木は消えているし、花壇も荒れ果ててしまっている。


 いや、荒れ果てているというよりも、消失している、といったほうが正しいか。花壇の中の花々や土は丸ごと消えているし、石造りの花壇自体もところどころ欠けてしまっている。現実世界での東総合病院はこんな世界とは比べものにならないほど色鮮やかで大人気だった。


 そこに足を踏み入れた二人は警戒しながら周囲を確認する。あれから馬の嘶きは聞こえてこない。


 たとえあの鳴き声が一度きりのものだとしても、警戒を怠るわけにはいかない。とうの昔に嘶きの持ち主が移動していようがいまいが、気をつけるに越したことはない。


 何せここはもう、未知の場所なのだ。マジメたちがついさっき通った道とは全く違う場所だ。警戒しすぎるほど警戒しても構わない。


「なんか、別の場所に来たみたいだ……」

「そうですよね。わたしもここで目が覚めたとき、どこだかわかりませんでした」


 外に出てやっとわかりました、そう言ってヒイは笑った。


 なんの変哲もないビルの一つだった光栄塾のように、外観に特徴がなければまったくといっていいほど現在地が掴めなくなるのがこのモノクロワールドだ。他に特徴的な建物はあるにはあるが、それが真っ白い建物として残っているか、というのはわからない。


「それで、置いてきた物って病院の中にあるの?」

「はい、療養病棟に置いてきたんです。そんなに離れてはいませんけど、気をつけていかないと。……あの、やっぱりここで待っていても」

「療養病棟ね。さ、行こうか」


 言葉の続きを封殺して、聞く耳持たずを実行しさっさと出入り口に向かったマジメをヒイは慌てて追いかけた。


「待ってくださいよもー!」


 最後まで聞いて! と不機嫌そうな声色で言うものの、柔らかい笑顔を浮かべていた。


 円柱に寄りかかってヒイを待っていたマジメは、突然ヒイがその場に崩れ落ちたのを見て目を見開いた。


「郡山さん!」


 そう叫んで駆け寄るが、不意に襲ってきた睡魔に意識を奪われて、ヒイの元に辿り着く前にマジメも倒れてしまった。


 以前とは比べものにならないほど唐突で、急速な眠気だった。



◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎



 未だまどろむ意識は浮いて沈む。


 ゆりかごで眠っているような心地良さにうとうとと、再び深い眠りに落ちかけて拡散していた意識は、ほんの一瞬で集合した。


 集まった意識は直前の記憶を掘り出して瞼の裏に映し出すと、マジメの目は覚めた。


 カーテンを突き抜けるほど強い日差しがちょうど顔面にだけ降り注いでいた。

 その眩しさに目を細めたマジメは、自分が目覚めたことに気づいてぼんやりと天井を眺めた。


「起きた、のか」


 呟きは染み渡るように響いて、消えた。

 脳裏に蘇ったのは、ヒイが崩れ落ちた場面だ。あれが抗えない眠気のせいだったなら、ひとまず安心だ。彼女のすぐ後にマジメも眠ってしまったのだから、そう考えていいだろう。


 緩慢な動きで起き上がったマジメは、まとまらない思考を抱えて大きくあくびをすると、ぱたりとベッドに倒れ込んだ。


 久しぶりに、すっきりとしない目覚めだった。


 朝食のクロワッサンを頬張りながら、眠たげなまなこをこすった。

 しゃっきりとしない頭のせいで、焼かないまま頬張っていたが特に気にもせず、牛乳と一緒に飲み込んでしまうと、マジメは再びベッドに倒れ込んだ。


 時刻は午前六時三十二分。目が覚めてから約三十分というところだ。


 昨日、目が覚めたときも同じような時間だったことから、白黒の世界に連れて行かれるのは午前零時、帰ってくるのは午前六時頃のようだ。


 そんなことを考察するのが精一杯で、横たわったマジメは意識が遠のいていくのを感じた。


 ゆっくりと沈み込んでいく意識は心地良く、これから学校だということも完全に頭から抜け落ちてそのまま眠ってしまった。


 危うく遅刻するところだった。


 いくらマジメが部活に入っておらず、早朝に余裕があってもそれはほんの数時間程度のことで、気持ち良く眠れるほど余裕はない。


 だが、そのことを普通に忘れていたマジメは授業開始のほんの十分前に目を覚まし、まだまだ眠たい目で時計を確認して慌てた。


 幸いにも朝食は摂ってあったため、急いで準備をすれはなんとか間に合いそうな時間だ。


 家を飛び出して一目散に駆け出したマジメに、学校を休むという選択肢はないようである。


 がらりと教室の引き戸を開いて級友たちの視線をわずかに集めたが、すぐにそれは散っていった。特に親しいクラスメイトがいないマジメにとっていつものことである。


 息を乱しながら自分の席に着くと、隣には既に常磐彩の姿があった。


 いつものように挨拶をしようとして、あれ、と躊躇った。横顔がどことなく膨れているように見えるのは錯覚ではないだろう。


 知的な外見に比べてずいぶんと子供っぽい中身のアヤは、機嫌が悪いとすぐに顔に出る。かんしゃくを起こすとまではいかないが、行動言動すべてにおいて刺々しくなる彼女に近づく者は友人であってもあまりいない。


 わかりやすく膨れている人間に、好き好んで関わろうとする人間はおるまい。人間関係に乏しいマジメでもわかる。


 とはいえ、今日初めて顔を合わせるわけだし、このまま挨拶しないのもなんとなく嫌だ。律儀なマジメは恐る恐るアヤに声を掛けた。


「お、おはよう常磐……さん」

「…………」


 押し黙ったままのアヤはマジメが声を掛けてからしばらくは無視したままで、ようやくちらと視線を向けたと思うといきなり立ち上がった。


「遅い! 遅いじゃないかハジメくんっ! どこをほっつき歩いていたんだ!」

「いやマジメだっての。二度寝しちゃっただけだぞ? それに声抑えろ」


 目尻を吊り上げながら突然言い募るものだから、名前の訂正も勢いがなくなって、引き気味にのけぞった。


 アヤが叫んだせいで教室中の注目をかっさらってしまっているのだが、当の彼女は気にも留めず、マジメにぐいと顔を寄せた。


「私はな、ずっと待っていたんだぞ。もうかれこれ十時間も! なのにキミって奴は……。それに何故か友人たちも話しかけてくれないし」


 そりゃそうだ、と口に出すのだけはこらえた。うっかり言ってしまえばアヤに問い詰められることは目に見えている。触らぬ神に祟りなし、というやつだ。


 とはいえ、何故か憤慨しているアヤを落ち着かせるためにはどちらにせよ話を聞かなければならない。朝っぱらから気力が削がれそうな出来事を前に、マジメは深々とため息を吐いた。


「んで、何があったんだ?」


 そう尋ねてやるとひとまずは落ち着いたようで、吊り上がっていた眦も多少は元に戻った。


「昨日、私は見たい深夜番組があったんだ」

「それで?」

「その番組を見たいがために、私は学校から帰ってすぐに眠ったんだ。起きた後もコーヒーを用意して、絶対に見逃さない用意までしていたんだよ」


 それはご苦労なことだ。そこまでして見たい番組には興味があるが、今のマジメには見ることが出来ない。


「そこまでしていたのに、お、お、お母さんが、お母さんが……」


 ぷるぷると肩を震わせてうつむいたアヤにやばいと思ったが後の祭り。ぐわっと顔を上げた彼女はまたしてもマジメに詰め寄ると、その耳元で叫んだ。


「お母さんがホットミルクを渡してくれたんだ! うっかりとそれを飲んでしまった私は眠気を我慢するまでもなくぱったりと、それはもう寝起きが爽快なほど眠ってしまったんだよ! せっかく録画の準備までしてたのにぃ!」


 その声量は教室中はおろか、廊下で談笑していた生徒たちの度肝を抜いて、先ほどの倍以上の視線を集めることになった。


 まるで世界の終わりが来たかのような、絶望に表情が歪むアヤと降り注ぐ周囲の視線の二重苦に、登校早々疲労感をたっぷり感じながら、マジメはまず最初にアヤのほうをなんとかしようと奮闘した。


 とりあえず顔の近いアヤを引っ剥がして椅子に座らせると、ものすごくどうでもいい寝落ち事件に落ち込むアヤを慰めた。


「まぁ、そういうこともあるよ」

「そうは言ってもだハジメくん。私はここまで努力したんだぞ? なのに、なのにぃ……」

「努力が報われないことはたくさんあるって、な?」


 ただお気に入り番組を見逃しただけで努力云々というのは言い過ぎだが、否定してしまえばまた面倒なことになりそうだと判断したマジメはとりあえず話を合わせた。


 というか、天才のお前が言うか、とは口が裂けても言えなかった。成績関係で何人の生徒がハンカチを噛み締めて悔しがったかわかったものではない。


 努力の天才、というやつもいるだろうしな、と思って、アヤは天性の天才だということを思い出してなんとも言えない表情になった。


 この女、ろくに授業を受けたことがなければ自習すらないという筋金入りだ。努力の方向が間違っていると思うのはきっとマジメだけでないだろう。


「これは、努力が足りないということなのかい?」

「いや、どうだろうな……」


 ホットミルクを飲まなければいい話じゃ、と言ってみたが、彼女いわくホットミルクを飲んで眠るのは習慣らしい。


 ついつい受け取って飲んでしまうのも頷けるが、他に方法はないだろう。


「わかった。わかったよハジメくん。私はもっと努力をしよう……もう二度と見逃さないためにっ!」


 鬱々とした色は消え、アヤの表情はいつも通りの、知的かつ少々自信ありげなものに戻った。


 なんて薄っぺらい努力なんだ、とマジメは自分の席についた。


 なにやら自己解決したようである。マジメはようやくほっと一息ついた。


 それと同時に、何故自分がこんな目に遭わなければならないのかと、視界の端でアヤに駆け寄っていく彼女の友人たちを見て机に突っ伏した。


「ありがとうハジメくん。キミのおかげでなんとかなりそうだよ」

「大げさだよ。それに俺はマジメだ」


 そうだったかな? と快活に笑うアヤに、苦笑いをこぼして、マジメはこっそり呟いた。

 とてつもなくしょうもない悩みごどだった。


 だか、

「そんなに、悪くもないかな」

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