第9話 算 六夜の人生―彼の人生の価値と、その先は―
算 六夜の人生―彼の人生の価値と、その先は―
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算六夜(かぞえ ろくや)。それが、彼に与えられた名前だった。この名前を初見で、一発で読める人はまずいない。「『さん』君、ですか?」と、大体の人が言う。「かぞえ」と呼べる人が果たして何人いるのか、機会があれば一度数えてみたいと思ったことがあった。ダジャレとかそういったわけではもちろんなく。
そしてある日、あれは中学校2年生の6月頃だっただろか。彼女、仲山雫は、その日に算六夜のクラスへ入ってきた。入ってきた、というより、初めてクラスの皆と顔を合わせたのだ。仲山雫は病弱で、4、5月の間は病院に入院していたという。なので籍はクラスにありながらも姿を見せない、ちょっとしたクラスの有名人的な存在となっていた。
そしてその彼女は、算六夜の隣の席へと座った。そこが彼女の指定席だったのだ。初めて算が雫に抱いた感情は、「邪魔だなぁ」というものだった。彼女の容姿が最悪だった、とかそういうわけではない。ただ、自分の隣の席にまったくの第三者が入りこんだことが嫌で嫌でしょうがなかったのだ。隣の席がいつも空席というのはちょっとした特権的なものだった。物を置くことができる空間が少しばかり広がるだけに留まらず、授業中のちょっとした快適さを持つことができた。物差しではかれば、微々たるものかもしれない、そのちょっとした楽しみが消えてしまうのがほんの少し嫌だった。
しかし、そんなものはいつか無くなるとわかりきったものだった。だから彼は、その嫌だという気持ちをおくびにも出さず、二分ほどの笑顔を彼女に向け、「よろしく」と言った。向こうは向こうで少し慌てふためきながら「よ、よろしくお願いします」と言った。その後間髪をいれずに朝のホームルームが始まり、授業となった。そして算六夜と仲山雫が再び喋ることのできる機会は、次の休み時間に訪れる。
「えっと、すみません、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
この突然のクエスチョン・タイムに算六夜は眉をしかめてしまう。決して長くない休み時間、これから軽い読書をして、気分をリフレッシュさせようとしていたのに、これだ。
「なに?」
できるだけ不満を表情に出さないようにして、聞き返した。もちろん、相手が何と言ったかは、ちゃんと聞こえていたが。
「あ、ごご、ごめんなさい。あのですね、ええと、名前を教えてほしいんですが」
傍目から見て、これ以上ないほどおどおどしながら、それでも用件だけはこちらにしっかりと伝えてきた。
「……はい、これが名前」
どうしてその時、口頭で伝えず、偶然手の届くところにあったメモ用紙で名前を書いて彼女に手渡したのか、よくわからない。読みにくい名前を敢えて書いて彼女を困らせようとしたのか、それともただ単に面倒くさかっただけなのか。どちらの可能性の方があるか、と言われれば、それは前者だろう。口頭で名前を伝えるよりも、紙に書いて相手に見せる方が面倒くさいからだ。
紙を見る彼女の表情は、みるみる内に険しくなっていった。「算 六夜」。これだけを書かれた紙を見て、「かぞえ ろくや」であることを判断するのは非常に難しい。そのことを六夜自身、知っていた。大体の人は、数多くの人は、ほとんどの人は、それを「さん ろくや」、ときどき「さん りつや」と読んできた。さて、彼女はどちら側に属する人間なのだろう? 内心ほくそ笑んでいた。
「『かぞえ ろくや』さんですか?」
うん? と、一瞬あっけにとられた。一瞬、彼女が自分に向かって言っているのか、わからなかったからだ。しかし、残念ながらそれは、誰の耳で聞いても明らかに、彼女の声だった。彼女の声が、自分に向かって、そう言っているのだ。「かぞえ ろくやさん」、と。
「えっと…………」
答えに窮してしまった。自分の頭の中にあったこの後の会話のシミュレーションはすべて、彼女が自分の名前、名字を読み間違えるという前提のもとで組み立てたものだったからだ。その前提が、音を立てて壊れていく。前提が壊れた結果、どう回答していいのかわからなくなってしまった、というわけだ。
「あ! もも、もしかしたら間違っていましたか? す、すみません……」
勝手に誤解し、勝手に謝罪されてしまう。まぁ、こちらの反応が悪いわけだったが。
「いや、間違ってはいないよ。そう、僕の名前は『かぞえ ろくや』だ」
まったく想定外の展開に対応したにしては、うまく答えられたと思う。ほんの少しだけ、ぎこちなさが込められていたかもしれないが、問題にはならないはずだ。
「あ、よ、良かったです」
そう言うと雫はニッコリと5月の太陽のような笑顔をこちらに見せてくれた。
「うん、ごめんね。えっと、こんなこと言うと変に思われるかもしれないんだけど、僕、自分の名前を正しく読まれたこと、なかったんだ。だから驚いた」
なるたけ率直に答えた。ここでいちいち適当な返事をするより物事がスムーズに運ぶだろうという企みがあったし、それに加え、純粋に驚いた、ということもある。そして、自分が純粋に驚いたことに対しても、やはり驚いている自分がいた。
「え、えっと、そうなんですか。そうですね、『算(かぞえ)』って名字は珍しいですもんね」
「なんで名字を一発で読むことができたの? もしかして、親戚にいるとか、ですか?」
そこが気になったので聞いてみた。
「え、えっと、いませんっ! 本当に申し訳ないのですが、そのような名字の方は親戚にいないんです……」
「あ、そう……」
平謝りをされても困る。別に責めているわけでもないのに。もしかしたら言葉が強くなってしまったのかもしれない。反省、反省。
「えっと、じゃあ、順を追って答えたいと思いますね。答える前に質問をひとつしたいのですが、よろしいですか?」
「算さんって、どこの生まれですか? あ、もし埼玉でしたら、お母さんとお父さんの出身地をお聞きしたいのですが!」
「…………」
算にとって、父と母は忌むべきものの権化のようなものだった。わざわざ他人に牙を剥けてまでその感情を表すことはないかもしれないが、そこに触れられると、一瞬、固まってしまう自分がいた。
自分の父と母はどこの人間なのだろう。そんなこと、考えたこともなかった。
算にとっては、この埼玉の地こそがすべてだった。もしかしたら茨城あたりから埼玉に越してきたのかもしれない。母は新潟あたりで生まれて、いつの間にか埼玉に流れ着いたのかもしれない。もちろんそれらすべては想像だ。根拠は何一つない。算は、両親のことを何一つ知らない。知ろうともしなかった。
しかし、それらをそのまま伝えるわけにもいかない。小学生ではないのだ。中学生にもなって、自分の父と母の出生の地をまったく知らないなんてことは、まったくないものではないかもしれないが、なかなかにありえない。一瞬の後に算は答えを導き出した。
「父も母も埼玉だ。もしかしたら父方の祖父は別の地方の生まれかもしれないが、僕にはそこまではわからない」と、すらすら淀みなく答えた。100点満点の答えだった。
「あ、えっと、……その、ごめんなさい」
突然謝られた。
「何が?」
率直に、不思議だと思い、算は聞き返した。
「えっと、その……答えにくいことを聞いてしまって……」
「…………」
算はその言葉の意味を理解するのにしばらくかかってしまった。
いや、しばらくかかっても、理解はしていなかった。だから、こう答えることになる。
「いいや、気にすることはないよ。別に答えにくいことでもなんでもないし」
素っ気なくそう答えた。それは、算の本心であった。
「……あ、あのっ」
「ん?」
「ありがとうございます! ……その、お優しいんですね」
赤の他人から優しい人、と言われたのは初めてだった。
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