第33話
自分はこのジャガーを知っている。
そして、ジャガーも……彼女も自分を思い出してくれたんじゃないかと想像した。
買い物に行ったり、お散歩したり、ご飯を作って食べたりした思い出と一緒に、
短いながらも過ごした毎日のことを。人間らしく暮らした日々を。
「があうあうあうあうあー!」
首を激しく左右に振って、ジャガーは細かく全身を震えさせる。
あまりに無抵抗な司に混乱しているようだった。
司はそっと口を開いた。悲鳴でも命乞いの懇願でもない。
ただただ優しく、司はジャガーの瞳を見つめながら言う。
「テペヨロトル……なんだろ?」
「が、がう?」
司の声を聞いてジャガーの震えが収まった。
不思議そうに首を傾げながら、ジャガーはじっと司を見つめ返す。
「が、がううう!?」
きょとんとしたジャガーの仕草が、なんともテペヨロトルらしくて司の顔は自然と笑顔になっていた。
「見た目はずいぶん違うけど、わかるよ……テペヨロトルだ」
もう一度、匂いを確かめるようにジャガーは鼻をスンスンさせる。
司はくすぐったそうに言う。
「俺だ。司だ。そっちももうわかったろ?迷子になったから心配したんだ。なんで豹の姿になってるのかはわからないけど、テペヨロトルなのは、ちゃんとわかるから」
司の身体を押さえつけていた前腕から、フッと力が抜けた。
これなら振り払って逃げられそうだが、司は地面に大の字になったままだ。
「俺も気が動転してて、すぐにはわからなくて。けど、これでもう安心だから」
むしろ、はねのけるようなことをしたら、ジャガーは自分が嫌われたと悲しむに違い無い。
だから司は逃げなかった。
すべてを受け入れるように、ひときわ優しい口振りで告げる。
「迎えに来るのが遅くなってごめんな。それに、神様だって信じてなくて悪かった」
「がううがうう?」
司にはジャガーが何を言っているのか理解できない。
けれど、そのエメラルド色の瞳が、どことなく寂しげで悲しげな光をたたえているように思えた。
心細そうなジャガーを元気づけるように、司は続ける。
「ちょっとお腹が空きすぎて、かんしゃくを起こしてただけなんだろ。俺は怒ってないから。ほら、一緒に帰ろう」
地面にお尻をついたまま、身動きが取れなくなっていたひじりが、やっとの思いで司に聞く。
「司……それ……本当に、そう感じるの?ジャガーがテペヨロトルだってわかるの?だって……姿形が全然違うじゃない」
床に背を押しつけられたまま、司はうなずいた。
「ああ、間違いない。わかるよ。どんな姿になったって、テペヨロトルはテペヨロトルだ。ひじり、落ち着いて聞いてほしい。テペヨロトルは外国の神様なんだ。実は前に、ひじりが気絶している時にセイパから聞かされてたんだけど、その時は信じられなくてさ。言うとひじりも混乱するかと思って、黙ってたんだ。ごめん」
ひじりは震えた声で返した。
「え、ええ。そうみたいね」
「ひじりってすごいな。すぐに受け入れられるなんて、考え方が柔軟だ」
「今の状況をわかって言ってるの!?」
「ああ。わかってる。だから大丈夫だよ」
ジャガーが大きく口をあけて、再び司の首筋に顔をもっていく。
食いちぎられる……ようなこともなく、その大きな舌がぺろんぺろんと司の頬を舐めた。
ざらついた大きな舌の感触に、司は身震いした。
「こらこら、くすぐったいぞ。なるほどな……どうりで野菜が苦手なわけだ」
ジャガーの前足が捕らえていた司の腕を放す。
腕が自由になったところで、司はそっとジャガーの頭を撫でた。
ジャガーは喉を鳴らして嬉しそうに司の胸に頬ずりする。
だんだんと、その身体が少女のそれへと変わっていった。
「ぐるる……うう……司ぁ……」
「よかった。人間の姿に戻ってくれて」
少女の姿に戻りきったテペヨロトルは、まん丸いエメラルド色の瞳に涙をため込むと、ぼろぼろと雫を滝のように流す。
「ごめんね……ごめんね……試食してごめんね」
「試食って?」
いまいち話が見えてこないのだが、司は元の姿に戻ったテペヨロトルを抱っこするようにしながら、身体を起こして立ち上がった。
「それじゃあ、俺たちはこれで帰るんで」
司の腕に包まれるように抱かれて、テペヨロトルはむぎゅっと司の身体を抱き返す。
あっけにとられてリリスが目を白黒させていた。
「あら……あらあら……てっきり食べると思ったのに、これって……愛かしら」
立ち上がった司とテペヨロトルを庇うように、セイパが前に出てリリスと対峙した。
「テペヨロトル様の望みは司様を食べるのではなく、司様“と”食べることと理解しました。貴方の思うようにはさせません。司様。これより先は人の領域の外の事。テペヨロトル様とひじり様を連れてお逃げください」
「わ、わたしも……た、たた、たたか……」
ようやく足の震えが収まって、立ち上がりながら言いかけたひじりだが、なぜか口ごもる。
リリスが楽しげに笑っていたのだ。威圧感がすさまじい。
「これはこれでおもしろいわ。もう少しだけこの国で遊んでいこうかしら。さてと……それじゃあね、テペヨロトルちゃん」
小さくウインクするリリスに、臆せずテペヨロトルは睨み返す。
「ぶーぶー!二度と来ないでください!」
よほどひどい目に遭わされたのか、テペヨロトルはリリスを毛嫌いしていた。
「あら?あたしはもうちょっと仲良くしたいのに、ざんねーん♪」
手のひらをヒラヒラ振ったかと思うと、リリスの姿が一瞬で黒い煙となって消える。
彼女が立っていた場所に、ぽつんとヒョウ柄のポシェットが落ちていた。
それを拾い上げながら、司の口から言葉が漏れる。
「消えた……ってことは、今の人も神様なのか?」
泣き止んで落ち着いてきたテペヨロトルが、首を大きく左右に振った。
「今のは人じゃなくて、悪魔だよぉ」
「そっか、悪魔か。テペヨロトルは大変なのに捕まってたんだな」
言いながら司はテペヨロトルにポシェットをかけてあげた。
中身を確認して、テペヨロトルは「よかった。五百円あったぁ」と、瞳を潤ませ呟いた。
それからすぐに、司を見つめて小さく跳ねながら聞いてくる。
「あのね!司はテペヨロトルが神ってやっとわかってくれた?」
「ああ。神様っているんだな」
元気になったかと思えば、途端にテペヨロトルはしゅんとなる。
「もしかして……テペヨロトルのこと嫌いになっちゃった?」
「なんでそんなことを言うんだい?」
「だ、だって……神だから……人間と違うから……」
「テペヨロトルはテペヨロトルさ。それよりお腹、空いたんじゃないか?」
司が優しく問いかけると、両手を万歳させて彼女は言う。
「はらぺこ!」
司が変わらないと解ったからか、笑顔と一緒にいつものテペヨロトルが戻って来た。
「夕飯まで我慢できるかい?」
「ううぅ……自信ないかも」
恥ずかしそうに膝をもじもじっとすりあわせる仕草に、司はうなずいて返す。
「じゃあ、ショッピングモールでたこ焼きでも食べて帰ろう」
「た、たこやき!?それ、美味しいの?」
思わずぴょこんと、彼女の頭にジャガーの耳が立った。尻尾もお尻のあたりでゆらゆら揺れている。
「お肉じゃないからどうかな。俺は好きなんだけどさ。あと、耳と尻尾が神様になっちゃってるぞ。さすがに俺たち以外の人の前では、しまっておいてもらわないと、連れていけないな」
「はみ出ちゃっただけだから!たこやきも食べたいから!もう、司の意地悪!」
ジャガーの耳と尻尾をしまって、テペヨロトルははにかんだ。
まるで何事も無かったように会話ができて、司はほっとした。
セイパが呟く。
「リリスの気配は感じられません。ひとまず安全と考えられます」
ひじりはといえば、スマホを必死にいじっていた。
「何をなさっているのですかひじり様?」
「ちょっとバイト先に報告っていうか……それよりたこ焼きを食べて帰るんでしょ?わたしも大賛成よ!」
ひじりもスマホをしまうと、司とテペヨロトルに合流する。
集まった三人に歩み寄って、セイパが頭を下げた。
「お二人にはご迷惑をおかけいたしました。このような事があった以上、明日は出歩かず大人しく自宅待機に……」
司は彼女の言葉を遮って宣言する。
「もちろんお花見は行くからな。今夜からお弁当の準備だ」
テペヨロトルの瞳が再びうるっとなった。
「いいの!?テペヨロトルもお花見していいの?」
「もちろんさ」
「司、大好き!」
素直に喜ぶテペヨロトルに司は付け加えた。
「お花見にも人がたくさん来るから、ちゃんと手を繋いで歩こうな」
「うん!テペヨロトルは司の手を離さないよ!」
セイパはどことなく消沈したような雰囲気だった。司が聞く。
「なあセイパ。やっぱり、明後日には帰らないといけないのか?」
「テペヨロトル様の望みを叶えるのは本望ですが、安全をお守りするとなると……」
「そうか。神様ともなると色々と難しいんだな」
「お気遣いありがとうございます」
「じゃあ、明日は思い出に残るようなお花見にしよう。ひじりも参加してくれるか?」
「も、もちろんよ!」
意見がまとまったところで、四人はこっそりとショッピングモールの裏口から出ると、今度は堂々と正面から中に入って、フードコートでたこ焼きを食べた。
熱々のたこ焼きに、猫舌なテペヨロトルは苦戦したものの、空腹が最高のスパイスになったのか、ぺろりと彼女は完食して笑顔を見せたのだった。
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